18
イヴァンの執務室には、本が多い。
大抵は整然と本棚に並べられているのだが、図書館から借りてきたものだけは無造作に積み上げられて放置されていた。借りてきたはいいが、返しに行く時間がなかったというのが彼の言い訳だ。
多くの場合は頃合いを見計らって図書館の職員が持って帰って行ってくれるのだが、今日だけはなんだか様子が違う。
その日、イヴァンの執務室のすぐ隣にある控室は大惨事となっていた。
「な、何があったんですかイヴァン様……!」
「その、徹夜で薬学の本を漁ってて……つい」
「つい、じゃないよコレ――崩れるとまずいな、防御魔導を張るからセイムは下がって」
申し訳なさそうに頭を下げたイヴァンに、素早く魔力の糸を張るノーヴル。そしてセイムは、今にも崩れ落ちそうな本の山を目の前にして、ただ息を吐くことしかできなかった。
朝議を終えたイヴァンに引っ張られてきたその部屋は決して狭くはないのだが、山と積まれた本によって何とも窮屈な印象を与えられる。取り急ぎノーヴルが張った「糸」によって本の崩落は防がれているが、早急に何とかしなければ大惨事を引き起こしかねない。
「それで、ですね。今日はセイムたちにコレのお片付けをお願いしようかと……」
「それは構いませんが、事務仕事はどうしましょう?」
「私が責任を持って全て終わらせます。重くなるでしょうから魔導を使っても構いませんし、必要ならば用具庫も開けさせましょう。その、申し訳ないです」
顔を赤くして情けないほどか細い声を出すイヴァンは、普段優秀な手腕で国家運営に携わっている宰相とは思えない。まるで年頃の乙女のような態度にノーヴルはあからさまに眉をひそめたが、セイムは何も言わなかった。何も言えなかったという方が正しいのかもしれないが、本を読みふけって周りが見えないなんていうことは魔導士にとっては茶飯事だ。
「セイム、「糸」を君に預けるから、ちょっと押さえててくれないか。私は用具庫に行って台車を持ってくるよ……流石に、これを手で運ぶのは非効率的だ」
呆れたように肩を竦めたノーヴルは、そう言うと足早に部屋を出て行ってしまった。彼から受け取った「糸」で本が崩れないように押さえながら、セイムは積み上げられたそれらの背表紙を読み上げる。
(『毒薬大典』、『薬草と生薬についての108箇条』、『最上級魔法薬とその効果~副作用を最低限に押さえる七つの用法』……聞いたことがない本ばっかりだわ。お師様も持ってなかったし、あれ禁帯出の本じゃない?)
帝国図書館にはずっと行きたいと思っていたが、仕事が忙しくて行けずじまいだった。イヴァンの本を返しに行くついでに何か借りては来られないだろうかと淡い期待をしながら、セイムはノーヴルが台車を運んでくるまで控室で一人待っていた。
やがて台車を運んできたノーヴルは指を鳴らして本の山の一部を浮き上がらせると、それらを慎重に台車に積み上げていく。
彼が使っているのは重力系統をほぼ無視することが出来る風の中級魔導だろう。人間を浮かせたりすることは難しいが、本くらいならばセイムにだって動かすことが出来る。
「手伝います、お師様」
「大丈夫だよ。それより君には台車を図書館まで運んでもらう仕事をしてもらおうかな。今の私のと同じやり方で、台車そのものの重さを魔力で軽減するんだ。出来るね?」
一も二もなく、頷く。
台車の中に媒介となる呪具を入れて、魔力を纏わせる。元が高ランクの呪具だけに、魔力を注ぐだけで台車は浮きあがった。選定試験に比べれば、詠唱もないだけ魔力の消費も少なくて済む。
「あとから私も行くから、先にそれを片付けておいてくれ。図書館の場所は分かる?」
「近くまでだったら、行ったことがあります」
「そう、じゃあ頼むよ。図書館には司書のマーリアってお婆さんがいると思うから、彼女に言ってから分類ごとに分けておくこと。それじゃあ、お願いね」
付け加えるように微笑んだノーヴルにもう一度頷いて、セイムは台車を引き連れたまま廊下を歩いた。大量の本を積んだ台車はそれなりに大きかったが、廊下はさらに広い。忙しなく行きかう他の官吏たちはセイムに目をくれることもなかったし、セイムもそんな官吏たちに思うところがあるわけでもない。都会は人のつながりが薄いとヴィア=ノーヴァから聞いていたが、これだけ人が多ければ仕方がないのだろうとも思った。
「図書館……確かこの辺、だったかな?」
外宮モルディア宮の外れ、薔薇の花が美しい庭園では麦わら帽子の庭師が植木を切りそろえていた。
渡り廊下までやってきたはいいが、近くに来たことがあるだけなので正確に図書館がどこにあるかはわからないが、或いはあの庭師などに聞いたら詳しい場所が分かるかもしれない。
おずおずと庭に下り立とうとしたセイムの背後から声がかかったのは、その時のことだった。
「セイム?」
「わっ、と……へ、陛下!」
「何をしている。それは――台車?」
恐らく暗赤色の髪と瞳、そしてよく通るその声がが合致しなければ、セイムがそれと気付くことはできなかっただろう。最初に出会った時の仰々しい礼服ではなく、ラウと同じ剣士隊の黒い軍服を着ている男がこの国の皇帝だとは、人混みの中ではわからなかったかもしれない。
慌てて膝をつこうとしたセイムを、黙ってゼルシアが止める。
もう一度何をしていたのかと問われたので素直に本を運んでいたと伝えると、彼は高い位置から小さく笑いを零した。
「イヴァンか」
「お分かりになりますか?」
「あれは本の虫だ。大概魔導士連中はそうかもしれんが、イヴァンは特にだな。それで、ここまでそれを引きずってきたのか? 重かっただろ」
「いえ、一応魔導で浮かせてますから、重くはないです……ただ、図書館の場所が分からなくて」
笑われるかもしれない――咄嗟に俯いたセイムに、ゼルシアはしばらく何も言わなかった。ただ少しだけ首を傾げると、唐突にセイムの手を掴んで歩き出す。
「陛下!?」
「図書館はこっちだ。それと、庭園はあの男の聖域だ。近づかない方が無難だぞ」
「へ?」
「なんでもない。じきに分かることだ」
ずるずると引きずられていくセイムに、台車も従う。やがて辿り着いたのは「杖」の談話室にもよく似た、静かな扉の前だった。
「市民に開放されている帝国図書館と、官吏だけが入ることが許される帝国図書館とでは入り口が違う。イヴァンが借りた本ならば、禁帯出もあっただろう?」
「あ、ありました。よく借りてこられたなって……」
「近衛の人間ならば閉架も禁帯出も借り放題だからな。そういう類いは、全て官吏用の入り口からでなければ返すことはできない。覚えておけ」
ぶっきらぼうな口調ではあったが、決して冷たくはなかった。開け放たれた扉から中に入ると、古書特有の落ち着いた匂いがセイムを包んだ。
改めて例を言おうと背後のゼルシアに向き合おうとするも、彼は視線を巡らせて誰かを探しているようだった。
「あ、そうだマーリア様……」
「見当たらん。司書室だな。台車は預かるから、行ってくるといい」
「そんな、陛下にそんなことはさせられません!」
「ここに誰かいなければ邪魔になるだけだろうが。ただ、呪具は残して行けよ。俺は魔導に関してはとんと才がない」
さっさと行けと言わんばかりに手を振られたら、セイムは頭を下げて司書室に行くしかない。腰の曲がった老女が司書室の安楽椅子の上で本を読んでいるところを見つけるまで、何ということをしてしまったんだと身を竦めていることしかできなかった。
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