17
「そうそう、あの方の話をすると約束したんでしたね」
やがて運ばれてきたパンを小さく千切りながら、イヴァンは思い出したようにセイムの方に視線を向けた。名前こそ挙げないが、ヴィア=ノーヴァのことだ。
一方で苦虫をかみつぶしたような表情をしているノーヴルに気付かないのか、スープに手をつけつつも追想するイヴァンの姿は、どこか少年のようでもあった。
「元々私には別の師匠がいましてね。王宮の薬師を兼任していたんですが、若くに亡くなってしまって。彼が――君の師匠が私を、まあ弟子と言いますか小間使いと言いますか、手元に置いてくれたのはそれからなんです」
「じゃあ、イヴァン様は薬学にも通じておられるんですね」
「かじっただけですね。あなたの師のように万物に精通しているほど、私は出来た魔導士ではありません」
セイムも薬学は一通り浚った程度だ。ヴィア=ノーヴァは風邪薬から胃腸薬、果ては外見を変える特殊な薬品や毒薬にも深い知識を見せたというのだから、弟子としてはただただ驚かざるを得ない。
死してなおその名に掛けられた呪縛が強いのか、イヴァンはあえてその名前を会話に出すことはなかった。術士ですら呪い殺したヴィア=ノーヴァという名の呪詛を唱えることは、今ではゼルシアとセイムにしか許されない。
息を飲んだまま身を乗り出すセイムに、イヴァンは優しい表情で落ち着く様にと諭した。
「私は部屋に通されるなり、恥ずかしい話なんですが泣き出してしまって。当時から彼はあまりにも有名でしたからね。その目を見ただけで呪いをかけられるだとか、声を発するだけで窓が割られるとか。まあそんな噂も手伝ってか、自分はこれから煮て食われるとでも思ったんでしょう」
改めて聞くとつくづく感じるが、なんだその人型の魔物みたいなのは。
お伽噺の怪物のような師の姿を想像してしまったセイムは堪え切れなくてとうとう吹き出してしまったが、そこにノーヴルの視線が突き刺さる。わざとらしく咳払いをして紅茶のおかわりを頼むノーヴルが、セイムにはどこか可愛らしく思えた。
「私の元々の師匠が生きていた時も、脅すんですよ。何かあったらお前をあの男の元に預けるぞって。もう、私それが怖くて怖くて。絶対に悪魔教の儀式の生贄に心臓を取り出されるんだって、覚悟してたんですよ」
カシャン、と乱暴にティーカップを置く音が響いた。何事かと目を向けるイヴァンに応えたのはノーヴルで、震える声と指先を必死に隠しながら「手が滑りました。すいません」と頭を下げている。こうなると後が怖いが、セイムの中は好奇心が勝った。さらにイヴァンに質問を向ける。
「その、厳しい方だったんですか? お師様は」
「そうですねぇ、なかなかに厳しいお方ではありました。最初に出会ったとき、彼は私に十冊近い魔導書を与え、こちらを見ることもなく「七日以内に覚えてこなければ破門だ」とおっしゃいましてね。私はとにかく、雑務の間にそれを覚えることに必死でした」
数拍、真っ白な執務室に沈黙が走る。
魔導書は一冊覚えるだけでも、場合によっては年単位の時間がかかることがある知識の結晶だ。ただの本とは違い、一冊一冊が手書きで綴られる魔導書はそれだけで価値のあるものだし、セイムでさえ師の蔵書であったそれらを覚えるのには丸々十五年以上の時間を必要とした。
それを、一週間でとは。
見たことも聞いたこともないヴィア=ノーヴァの姿に、セイムは前かがみになってイヴァンの話に聞き入っていた。
「それで、イヴァン様は覚えられたんですか?」
「なんとか、といいますか。本当は流して読んだだけなんですがね? どうもあの方もお忙しいお方でして、七日後私に飛んできた質問はそれは簡単なものでした。ハナから、破門にする気などなかったのかもしれません」
まさかその本人がこの場にいるとは微塵も思っていないだろうイヴァンは、花も恥じらうような麗しい微笑みを浮かべてそう続けた。実際、神を讃える歌のように調律された声音で紡ぎだされるその話に、セイムが聞き入ってしまったのも事実だ。
その傍らで自分の過去が暴かれていく様を見せつけられているノーヴルの方は、先ほどから忙しなく積まれた書類の再確認をしたり、自分で紅茶を淹れなおしたりとちょろちょろ動いてはその度に恨めしげな視線をイヴァンに向けていた。勿論、イヴァンがその視線に気づく様子は微塵もない。
「あの方は、常に先帝陛下……ライオネル様の為に生きていました。それ以外は何もない。いつも周囲には敵ばかりで、あの方自身も周囲に対し牙をむき続けていた。ですがそれらの全ては先帝陛下の為でした。滅私奉公と言いますが、私はあの方以上にその生き方を徹底していた人間を知らないのです。巷では皇帝殺しの大逆犯などと言われていますが、私は――」
そこまで言って。イヴァンは何かを思うように目を伏せた。冷めきってしまったスープを、彼にしては珍しく一気に飲み干してから、少し困ったように笑う。
「私は彼を尊敬していました。そして素直に、あのような生き方がしたいものだと常に思っています。……今はまだ、私も陛下の為に生きているとは言い難い。私は胸を張って、ゼルシア様の為ならば死ねると言いたいのです」
一度言葉を切って、イヴァンは茶を一口含んだ。長い銀髪の間から垣間見える視線は、僅かに熱を帯びているようだった。どこかで見たことがある様な、けれど何とは言いようのない視線だ。
「それが、後ろ盾もないこの身を取り立ててくださったあの方へのせめてもの忠義。魔導士という職には常に誇りを持って臨んでいますが、剣士の方々と違って私たちは忠義を示すという習慣がないので、それだけが困りものですね」
食器を置く音だけが、ゆっくりと余韻を残したまま執務室に響いた。
穏やかで知識に富んでいて、いつだってセイムを一番に考えてくれていた優しい師の姿はそこにはない。
セイムは自分が今まで知っていた師匠が本物だったのかという、妙な感覚を覚えた。この十七年間慕い続けた彼の姿は、イヴァンの言葉の中には微塵も見受けられないのだ。
「でもあなたを見ていると、どうやら私が知っている彼は貴方の知るお師匠様と違うようですね?」
「あの、……はい。お師様は殆ど弱っておられましたし、その」
何と答えたものかと口ごもるセイムに、イヴァンはその長く艶を誇る髪を揺らして声を上げて笑った。笑うだけでもかなりの抽斗を持っているのだと感動を覚えながら、セイムはなお笑い続ける上司にどういうことかと問うてみる。
「彼が如何にあなたを大事にしていたかはすぐにわかりますよ。あなたが持つ呪具の殆どは彼のものでしょう? 普通魔導士の命ともいえる呪具を、幾ら弟子とはいえおいそれと人には渡さないものです。ですが、あなたの仕事ぶりや魔導士という職業に対する情熱を見ていると、やはり私は彼を思い出す」
ちょうど午後の就労時間を示す鐘が鳴り響いたところで、この話題は強制的に打ち切られることになった。
ノーヴルは既にどこか諦めたようにして仕事を再開していたし、相変わらず書類は山となって積まれていった。これを終えねば終業時間を過ぎても残業ということになってしまう。午前中と同じように捌かれた書類を片付けながら、セイムは自分の足元をじっと見つめた。
静かな昼はこうして終わりを迎え、また忙しない午後が始まっていく。
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