16

 忙しいイヴァンが昼食を摂りに食堂へ出向くことはほとんどなかった。あらかじめセイムが食堂に頼んでおいたメニューが、時間になれば届けられる。今日は温野菜と温かいスープを所望されたため、セイムはその旨を伝えに長い廊下を歩いていた。


「あの場所は元々私の部屋だったんだよ」


 まだ午前の執務中である故に人通りが少ない廊下で、ノーヴルは不意にそんなことを口に出した。


「あれは元々、一本目の杖に与えられる執務室さ。隣にも一つ部屋がある。見ての通り、こなす仕事が膨大だからね。ただ、イヴァンの奴部屋の中真っ白にしちゃって。居心地悪いったらないよ」

「元は、違ったんですか?」

「敬語、使わないように気をつけなよ――うん。私がいたころは完全に私の趣味で部屋を作り変えていたからね。お気に入りだったのは、シンシア製の玉石で出来た文机。今じゃ国交ないに等しいけれど、当時の君主、向こうじゃ法皇っていうのかな? 彼が知り合いだったからね。いいのが手に入ったって、嬉しかったんだけれど」


 一国の国家君主を「知り合い」の一言で片づけられる人間は、王侯貴族でもそうはいないだろう。それも相手は、目下帝国の仮想敵国とされているシンシア神皇国の法皇。唖然としたまま言葉もないセイムに、ノーヴルは「顔は青白いけどいい奴だったよ」と駄目押しで付け加えた。もう、眩暈すら感じる。


 ぶつくさと部屋の調度品について文句を垂れるノーヴルに、セイムは何も言えない。自分が生まれる前に師がここでどのような生活をしていたのか、想像することが出来ないのだ。

 セイムにとっては、あの無機質なまでに白で揃えられた壁や調度品が、イヴァンの執務室として知っているすべてである。彼自身の清廉さを表すように美しく整えられたそれらは、どこか居心地のいいものであった。


「私は、あの部屋好きですけど」

「えぇ? まさか、絶対にセイムは前の方がいいって言ってくれると思うんだけどな。調度品の一つ一つが一級品の呪具であり、私の審美眼にかなったんだ。素晴らしいよ、見る者全てを呪いつくすと言われる碧玉をあしらった杖なんて、本当に素敵だ」


 それに呪われて王宮から追い出されたんじゃないんですかお師様――その言葉を必死に飲み込んで、セイムは人混みの中に身を投じた。同じように上司から食事の注文を頼まれた下働きの兵士や魔導士たちがごった返している。



「すいません、温野菜とスープを、イヴァン様のところまで」


 ようやく受付に辿り着いたセイムがセイムがそう言うと、受付に座っていた女性が注文を紙に書き、大体の配達時間が伝えられる。およそ半刻と告げられたそれは、この人数を捌くとは思えない程に早い。

 まさか先に用意をしているわけではないだろうとそれとなく尋ねると、女性はいかにも人好きのする笑顔を向けてきた。


「イヴァン様は特別です。あの方が誰よりもお仕事をなさっているのは、王宮の誰もが知っていることですから」


 押し寄せる人波に来た時と同じく流されてしまいそうになりながら、セイムはその言葉だけはしっかりと聞いた。この数日王宮で働いてみて分かったのは、イヴァンに対しては皆一様に働き者の人格者という評価をしているということだ。

 その事をほんのりと誇らしく思った辺りで、不意に腕が強く引かれた。薄いノーヴルの胸板に体がぶつかると、そのまま彼の手によってセイムの体は引きずられていく。


「行こうセイム、潰されてしまうよ」


 セイムの体を人混みの中から引きずり出すと、ノーヴルはその手を引いて足早に受付から遠ざかっていく。失敗したな、と小さくつぶやく横顔には、僅かな嫌悪が浮かんでいた。心なしか、顔色が変わるはずもない陶器のかんばせが青白く見えた。


「お……ノーヴル、どうかしましたか?」

「人混み、あんまり好きじゃないんだ。昔から――うん、苦手だな」


 ぐっと眉根を寄せながら、ノーヴルは吐き捨てるようにそう呟いた。王宮に来てから彼の色々な表情を見るようになったが、大抵はあまり良くないものばかりだった。

 セイムが思うに、あまりいい思い出がないのだろう。無理もない、彼はあまりに偉大な、いや、偉大すぎる魔導士だったのだ。

 先日ゼルシアが冗談で言っていた「視線を合わせるだけで死ぬ」というのも、まことしやかに王宮で囁かれていた噂に違いない。


「王宮は口さがない連中が多いからね。あぁ、でも安心していいよセイム。君のことは私が全力で守る」


 例えば、後宮の誰々が騎士の子を孕んだだとか。そういう下世話な話で有閑貴族が盛り上がるというのは、どの時代や国でもそう変わらないことだ。ゼルシアの代になってからその多くは粛清されたが、官吏として位が上がれば上がるほど仕事に対しての態度は疎かになっていくし、そういう話は盛り上がりやすくなるものなのだろう。


 ノーヴルが示した例に、セイムは内心で青ざめていた。自分が全く知らない世界だ。悪意に満ちているようにも思えるその空間でかつて師は生き、そして自分も生きようとしている。


「人間としてのそういう、なんていうのかな、汚らしい部分はいくら陛下でもどうしようもないからね」

「お師様……」


 言ってしまってから思わず口を塞いだセイムだが、その事に関してはノーヴルも何も言わなかった。困り顔をしながら微笑むところはどこか、イヴァンに似ているようにも思える。

 兄弟子、と言ったイヴァンの言葉が急に反芻される。血の繋がりはなくても、魔導士の繋がりはそれに匹敵するものがあった。だとすればイヴァンがヴィア=ノーヴァにどこか似ているというのも、あながち的外れではないのかもしれない。


「例えば彼らにとって、新しくやってきた君やラウに求めるのは「十本目」としての優秀な能力じゃない。言い方は悪いが彼は移民で、君は女だ。女性でも十分な能力を持っている人間はいるけれど、今回は本当に異例中の異例だからね」


「それ、私が陛下に取り入ったって言いたいんですか」

「直接的に言えばね。私もここに入ったころにはよく言われたものさ。信じられるかい? 私は生まれてこの方男だっていうのに」

「あの、……お気の毒、です」


 セイム如何よりもそのことに未だ憤りを感じているらしいノーヴルが、二人をジロジロと眺める官吏に向かって舌打ちをした。整った造形の少年人形が怒りを表すさまは、それは凄絶なものである。


「ここにいた時は楽しかったけれど、たくさん傷ついた。もしかして私を人ではなくしてしまったのも、この王宮なんじゃないかと思うくらいにはね。だからセイム、私は全力で君を守るんだ。君の才能、君の心、君の全てを。陛下でもラウでも、ましてやイヴァンでもない。可愛い愛弟子をこんなところで挫折させてたまるかい」


 イヴァンの部屋につくほんの少し手前。ようやく人のざわめきが収まったころに吐き出されたその呟きは、なによりも強い響きでセイムの鼓膜を打った。

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