15
「お疲れ様です、イヴァン様。朝議の様子はいかがでしたか?」
淹れたての紅茶をイヴァンの机に運びながら、セイムはそれとなく朝議の様子を聞いてみることにした。普段はそれを訪ねることはしないのだが、今日は何故だか朝のラウとの会話が引っかかっていた。怒られるだろうか、と視線だけでイヴァンを見れば、彼は怒るどころかうっすらと微笑んだまま茶の入ったカップに口をつける。
「おや、随分と勉強熱心ですね。そう……今日は確か、西方遠征の時亡くなった兵士の慰霊祭をするという議題でしたね。ナターリェンの神殿よりジークリンデ様をお呼びして、大々的に行うそうで」
そんなセイムを政に興味を示す勉強家とでも思ったのか、僅かにその薄い唇がほころんだ。
「ジークリンデ、様?」
イヴァンの唇からこぼれた音を拾うようにして、セイムは同じ音を繰り返した。王宮に勤めだしてから、こうして知らない人物の名前を尋ねるのはもはや恒例行事になってしまったように思われる。
「あぁ、ジークリンデ様はゼルシア陛下の兄君ですよ。陛下の皇位継承の少し前ですかね、自ら志願してナターリェンの神殿に仕えていらっしゃるのです。戦女神ナターリェンの「夫」としてね」
荒ぶる女神ナターリェンの神話は、帝国の子供たちならば誰もが聞いたことがあるだろう。ノーナの子でありとあらゆる戦士の守護神であるナターリェンは、戦争がなければその寂しさから生贄を欲する鬼神でもあるという。「ノーナの花嫁」と同じく神の魂を鎮めるべく選定される「夫」は、そんな彼女の魂を詩歌や剣舞で慰め、戦死者たちの魂を讃える神職だ。
しかしセイムは朝議の内容よりも、ゼルシアの兄が生きているということに疑問を覚えた。ゼルシアは上の兄全てが死んだから行為に坐したのだと、てっきりそう思っていたのだ。
素直にそれを質問すると、イヴァンは付け加えるように人差し指を一本立てた。
「陛下の兄君方は、六人のうち二人がご存命です。そのうちのお一人がジークリンデ様ですね。神職として仕えることは神の籍に入ることと同義ですから、セイムの考えはあながち間違ってはいないのですが……まあ、取りあえずそういうことで」
語尾をぼかして、イヴァンは続ける。
「ジークリンデ様は当時の宮廷を憂い、ゼルシア様に王としての才覚を見出して自ら身をお引きになったのです。元より魔導に長け頭の良いお方でしたから、現在は陛下の信頼篤く大きな祭事を取り仕切られることもあります。……あぁ、朝議は枢機に関わります。今私がつるっと喋ってしまったことは独り言ですので、周りの方々には言わないでくださいね?」
微笑んだイヴァンが紅茶に口をつけつつ、次々と書類に目を通していく。実質的な宰相位に就く人間として、その仕事は実に多岐にわたるものだ。セイムも何度かその書類を見たことはあるが、専門用語の乱舞に眩暈を起こしそうになった。
「セイム、そちらの書類はすべて出来上がっているので、担当部署ごとに分けて箱に入れておいてください。ここが片付けば午前中の執務は終了ですので、お昼にしましょう」
ここ、とイヴァンが指した場所には、まだ大量の書類が積まれている。市民からの陳述書だというそれに妙な呪いがかけられていないかを確認しているノーヴルの方が、既に気が滅入っているようだった。
身体が違うとはいえ、師がここまで辟易しているのを見るのは初めてだ。珍しいこともあるとその様子を眺めながら、セイムは次々と書類を部署別に色分けされた箱の中に仕舞いこんでいった。
箱にはすべてイヴァンの筆跡で名前が書いてあることから、彼自身の手作りであることがわかる。
「こういうことも、イヴァン様がされるんですか?」
「え? あぁ、箱のことですか? ふふ、魔導令師なんて言うから、もっと派手な仕事をしていると思ったでしょう」
昼食以外はほとんど休憩を取らないイヴァンの仕事は、激務そのものだ。帝国の魔導士たちの憧憬を一身に受ける身であると考えれば、確かに事務仕事ばかりの職務は地味だといえよう。
「あの……はい」
「正直でいいですね。好ましいです。でも実際はこんなものですよ。私の仕事は、陛下が心安らかに国を統治することの補佐くらいですから。まあ、事務ばかりが仕事というわけでもありませんが」
軍を率いて王の代わりに武功を立てることもあれば、死地に赴いて駒として戦うこともあるという。軍人としての階級は持っていないが、イヴァンの立ち位置は文官と武官の境目にある。
「この度の西方遠征でも、多くの同胞が亡くなりました。私は立場上、戦線に出ることも少なくなってしまいましたから……今の私に出来ることは、せめて外交上だけでも穏便に、周囲との関係を保っていくことです。力及ばずそれが出来ないことも多々ありますが、帝国議会と話し合い、陛下やお歴々の意見を頂くことも大切な仕事の一つです」
その結果が、この大量の書類であり、忙殺される日常である。セイムは書類を分けながらも、かつてヴィア=ノーヴァもそうだったのだろうかと思いをはせた。一枚一枚書類を見分けながら選別している師も、かつてはそうして忙しさの中に身を置いていたのか。
そう思うと、セイムが生まれるよりも前に師が立っていた場所というのがあまりに危険で、悪意に晒されているということを厭というほど実感させられる。イヴァンであれヴィア=ノーヴァであれ、政治の矢面に立って全てを受け止めているのだ。
黙り込んだセイムが疲れているとでも思ったのか、イヴァンは空になったカップを退けると机に頬杖をついて笑い声を漏らした。
「今日は思ったより進捗状況がいいようですね……そうだ、午後は少しお話をしてあげましょう。あなたは年の割にしっかりしているようですし、こういう話も王宮では大切になってきますよ」
「お話ですか?」
「君のお師匠様のことを幾つか。私も駆け出しの頃は、彼に随分と世話になりました。最初の師が亡くなってからは、彼が実質的な私の師匠でしたから。ふふ、私達、実は兄妹弟子なんです。君が彼の最後の弟子だとするなら、なるほど私も年を取るはずだ」
ほんの一瞬だけ、ノーヴルの動きが完全に停止した。セイムが知らない、王宮でその腕を振るっていた頃のヴィア=ノーヴァを、イヴァンは知っているのだ。
セイムの好奇心が鎌首をもたげてくる。それに畳みかけるようにイヴァンはさらに一言付け加える。
「知りたいでしょう? 彼のことを」
優しげな笑顔に見入るように、セイムはゆっくり首を縦に振った。
ひどく喉が渇いていた気がするのだが、そんなことはもう彼女にとってはどうでもいい。
ただ、知りたかった。
「知りたい、です」
セイムのその言葉に、ノーヴルが大きく目を見開いた。苦々しげに作り物の唇をかみしめながら、かつて人であったはずの人形が手元の紙に視線を落としたのに気付いた人間は、何処にもいなかった。
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