12

 まさかこんなにあっさりと皇帝その人と謁見できるなんて思ってもみなかった。

 魔力を消耗したせいで重くなった体を引きずりながら、セイムはこっそりと息を漏らした。豪奢で重厚な扉の向こうに待ち構えるのは、あの「悪逆非道」ゼルシアである。


 師を利用し、放逐した張本人。

 恨むという気持ちは一切なかったが、恐怖は確かに感じた。


「緊張してる?」


 横に並んだノーヴルが、それとなく尋ねてきた。この状況で緊張するなという方が無理な話だと答えれば、かつて王宮で権勢を誇った大魔導士は大して興味もなさそうに鼻を鳴らした。


 しかし彼からしてみれば勝手知ったる王宮かもしれないが、セイムにとっては一生かけても近づくことが出来ないと思っていた場所なのである。


「そう固くならずとも、陛下は意外と優しいお方ですよ。噂ばかりが独り歩きしていらっしゃいますが、非常に公正で聡明なお方です」

「そ、そうですか……」


 イヴァンにまでそう言われてしまえば、セイムは黙って頷くしかない。隣で手と足が一緒に出ているラウよりはまだマシかもしれないと自分を叱咤して、呼吸を整えた。扉一枚隔てた向こうに、この国の主が鎮座しているのだ。


「大丈夫ですか?」

「わ、私は」


 テオドールに小突かれているラウも、どうにか調子を取り戻したようだった。高い音を立てて自分の頬を叩くと、真っ直ぐに扉を睨み付ける。

 それに納得したのかイヴァンが一度頷くと、黄金で彩られた扉に手を掛けた。開けた瞬間に、純白の法衣が風を受けて舞い上がる。


「それでは――お入りなさい。玉座にまします御方こそ、我らがシュタックフェルト帝国皇帝陛下であらせられるゼルシア・ハイドランジア様、並びに皇妃シャルローデ・ディ・マインゲルン様です」


 独特な空間だった。

 数多の調度品が整然と並べられているにもかかわらず、空気は混沌としている。

 玉座でつまらなさそうに足を組んでいる男までの距離はそう遠くないはずなのに、セイムはその長さに眩暈がした。自分の足が、まるで動いてくれない。


 ややしばらく、セイムはその場から動けないでいた。扇で顔半分を隠した皇妃が隣のゼルシアに何かを言っているのは分かったが、声は聞こえない。まるで視覚以外の感覚が欠落してしまったかのように、景色だけが切り取られていた。


「セイム・ミズガルズ」


 不意に聴覚が戻ってきたのは、それからすぐだった。

 聞き取りやすい低さの声が、的確にセイムの鼓膜を揺らした。


「どうした、前へ出ろ。俺は猛禽の類ではないから、そこまで目は良くない」


 恐らく、怒っているわけではないらしい。息を飲んだままセイムが一歩踏み出すと、そこからは恐ろしく速かった。少し高い位置に座る二人を見上げると、紺碧のドレスを着た皇妃が花のような笑みを向けてくる。


「陛下、わたくしこの子がいいわ。新しい「杖」の方なんて言うから、もっとガイコツみたいな方が来るかと思ってたけれど……可愛らしいんだもの」

「残念だがこの二人は俺のものだ。人が欲しいなら後から話は聞いてやる」

「違うわ、つれない御方ねぇ。この子がいいんじゃないの」


 皇妃を一瞥して、ゼルシアは少しだけ息を吐いた。やがてその暗い色をした瞳がラウとセイムに視線を戻す。今年で三十二になるはずの皇帝は、年よりもいくらか若く見えた。

 何もできずに突っ立っているだけの二人に代わって言葉を発したのはイヴァンだった。

 恭しく腰を折ると、セイムとラウの略歴を話し始める。


「ラウ・シューゼン、帝国暦一〇八九年にシンシア神皇国から亡命し永住権を得ています。幾度となく剣士ギルドからスカウトがあった模様ですが、全て辞退していますね」

「そうか、ギルドは嫌だったのか? 実力主義はあれも変わらないと思うが――何故「剣」を選んだ」


 セイムはそこではじめてラウのことを知った。

 瑠璃色の瞳はシュタックフェルトの人間には出ない色であったからどこかからの移民であることにも納得はできる。

 ただそれが現在小競り合いが続いているシンシアからということに、少し驚いただけだ。


「皇帝陛下の「剣」は自由だ。ただ一人の主君に仕える騎士と、金で主人を変えるギルドの傭兵とじゃ訳が違う、と、思います」


 かなり無理矢理な敬語であっても、ゼルシアは特に怒りはしなかった。それどころか、面白そうに唇をゆがめては新しい質問を用意している。

 イヴァンから聞いた通り、そう怖い人物でもないのかもしれない。


「瞳の色は……皇家の青ラピスラズリ、というわけではないのか」


「俺は覚えてないけど、シンシアじゃありふれた色っすよ。皇家の青ラピスラズリは、多分違うと思います」

「シンシアではありふれていようがこの国では珍しい瞳の色だ。俺は純粋に美しいと思うがな――次だ、イヴァン」


 あっさりと言い切ったゼルシアに、ラウは顔を赤くして口を開閉させることしかできなかった。恐らく他意はないだろうが、街を歩いているそこらの女性ならば難なく口説くことが出来るだろう。下世話ではあるが、セイムでさえそう思わずは居られなかった。


「はい。セイム・ミズガルズ……申し訳ありません、彼女はつい最近帝都に出てきたようでして、調査機関にも経歴が引っかからず」

「ならば本人から聞くまでだ。セイム、生まれは何処だ」

「レ、レディウムの森です」


 やや上ずった答えに、イヴァンとゼルシアの動きが揃って一度停止した。

 それもそのはずで、レディウムの森はヴィア=ノーヴァが幽閉されていた場所だ。それ以前には人が住んでいたが、彼の人が王宮を放逐されてからは一切人の手が加えられることはなかったことになっている。


「ならば、お前の魔導の師はヴィア=ノーヴァか」

「……はい」

「俺を、殺しに来たか? 師の敵だ、死ぬほど憎いだろう」


 物騒な言葉とは裏腹に、声は驚くほど穏やかだった。きっとここでセイムが動きを見せれば、すぐにでもイヴァンが静止をかけることが出来るのだろう。少女一人の息の根を止めるくらい、ゼルシアやイヴァンにとっては造作もないことに違いない。


「恨んでなど、いません。師は仰いました。ゼルシア様は、能力のある人間には寛大であると――故に帝都を目指せと。それが師の、ヴィア=ノーヴァの遺言です。それにたとえ恨んでいたって、私は一人であなたに復讐が遂げられるほど強くない。あなたがたった一言イヴァン様に殺せと命ぜられるだけで、私は死ぬのです」


 ヴィア=ノーヴァが先帝弑逆という大罪を犯しても永らえていたのは、単に王宮の中で彼を殺せる人間がいなかったからだ。自分はそれとは違う、ただの魔導士見習いだ。最下級の火炎魔導でさえ、彼女の体は燃やされる。

 足の震えを必死に抑えて、セイムはゼルシアの瞳をまっすぐに見据えていた。


「師の汚名を雪ぎ、その遺志を継ぎ陛下の杖になるためにやって参りました」


 その中で息を飲んだのは果たしてイヴァンであったのか、テオドールであったのか。ただ一人ゼルシアだけがその唇の端を持ち上げると、そっと視線でノーヴルを突き刺した。

「面白い。実力は折り紙付きというわけか――その力と勇気、讃えぬ方が愚かというものだ」

「陛下、」

「下がれイヴァン。セイムの言うとおりだ。何かあれば俺にはお前がいるが、セイムにはもう師は居ない」


 真正面から、ヴィア=ノーヴァの死を宣告された。

 足の震えは止まらなかったが、ゼルシアはおもむろに立ち上がるとセイムのすぐ目の前まで降りてきた。

 自分よりも頭一つ分高いゼルシアは、唖然としたままのセイムやラウに向けて悪戯っぽい少年のような笑顔を見せる。


「もしセイムがあの男と同格の力を持っているなら、俺はこの時点ですでに死んでいるな。なんでもアイツは視線で人を殺せたそうじゃないか」


 身軽に玉座まで戻ったゼルシアは、我に返った近衛の二人に視線で合図を送ると、いちど軽い咳ばらいをした。

 それだけで場の空気が一気に重たいものとなる。飲み込んだ唾の音でさえ、セイムの頭に響き渡るようだった。


「本来は場を改めるべきだが、どうにもしばらくは正式な就任式が行えそうにない。ここで略式ではあるが、「十本目」の任命を行いたいと思う。立ち合いは魔導令師イヴァン・ヴィクトリカと、第二強襲隊連隊長テオドール・フォン・フリッツを指名する」


 儀式だから堅苦しいのを許せといういう前置きの後、ラウとセイムは促されて膝をつく。首を垂れ片膝をつく伝統的な拝礼の体勢をとると、頭上からゼルシアの声が降り注いだ。


「ここに知識神ノーナと当代皇帝の名において、以下二名に近衛隊第十席の責務を授ける。異議がある者は挙手を」

「立会人イヴァン・ヴィクトリカ、異議はございません」

「同じくテオドール・フォン・フリッツ、異議なし」

「以上だ。後々委任状を送る。しばらくはこの二人についての雑務になるが……イヴァン、テオドール、二人を頼む。それと、そこの人形」


 それまでセイムの背後に控えていたノーヴルが、ゼルシアに呼び止められた。

 

「セイムは王宮はおろか、帝都の中でさえ生活がおぼつかない。お前が補佐について少し指導してやれ」

「畏まりました陛下」


 思わずセイムはノーヴルとゼルシアを交互に見返した。

 まさか、ノーヴルの「中身」がヴィア=ノーヴァだとばれているということもないだろう。そう思いたい。


 ともあれ、彼女が師の名を臆することなく口に出したその瞬間に近衛隊「十本目」の杖であるセイム・ミズガルズが誕生したのだった。

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