11

 薄らと微笑むノーヴルが、狼の腹を縦に裂いた。のたうち回る炎の獣を一瞬で氷の屑に変えると、軽く右指を鳴らす。それに呼応するようにして、地面が隆起しセイムを襲った。


「セイム」


 迫りくる岩の槍をセイムが全て風化させたところで、美しいオートマタは真正面から彼女を見据えて問うた。朝焼けの瞳にすべてを見透かされるような感覚を覚えて思わず視線を下げたが、ノーヴルはそんなことを気に留めているようでもない。

 むしろ整然と、はっきりした声でもう一度セイムの名を唱えた。


「セイム。君はどうしてここに来たんだい? 宮廷魔導士になる? それは誰のために。君の為か、死んだ師匠の為か、はたまた皇帝陛下その人の為か……迷うくらいなら、かえって魔導士なんてならない方が君の為かもしれないよ」


 いつの間にか、陶器のような右手がそっとセイムの肩に添えられていた。子供をさとすように、静かに優しく問いかけるその様子に、どうしてだか涙があふれてきそうになる――。

 同じだった。わざと問いかけを出して答えを探させるのは、記憶の中のヴィア=ノーヴァとまるで同じだ。滲む涙で歪んでいく視界を振り切るように手を払うと、もう一度呪具を構えなおす。


「迷ってなんか、ないわ」


 師が身罷りレディウムの森を出てから、セイムは迷ったことなど一度もなかった。ヴィア=ノーヴァの失われた名誉を、自らの手で挽回する。それを師から託されたことなど今までなかったし、あくまで彼は一人ぼっちのセイムが生きる手段として帝都に向かえと支持してくれたに過ぎないのだ。

 魔力をほとばしらせた指先に、逡巡など一寸もありはしない。


「琥珀の六芒、八頭の紅玉、灰塵のはて浚う億千の風」


 地属性と炎属性、親和性がある二種の魔導を発動するのに、ノーヴルの反応が一瞬だけ遅れた。

 セイムは、それを見逃さない。


「迷いなんて、最初からないわ。全ては私の為だもの」


 八つ頭の竜王が、炎を纏ってノーヴルを襲う――咄嗟に氷の盾を出現させた彼も、衝撃で結界ギリギリまで吹き飛ばされてしまった。

 しかしすぐに体勢を立て直したノーヴルが、同じように右手を翳す。セイムも対応するために別の呪具を用意するが、ややしばらく続いたその均衡はあっけなく終わりを告げることになった。


「おや」


 ぱきり、と乾いた音がして、二人の間に走っていた緊張が緩む。


「これは、少し油断してしまったかな」

「腕、が」


 今までセイムの方に向けられていた右手が、力なく地面に落ちてそのまま砕けていった。手首から先を失くしたノーヴルは、きょとんとした表情でセイムと己の右腕を交互に見てから、苦笑する。



「一撃、入ってしまったね。セイム・ミズガルズ、合格だ」

「そんなっ、もしかして今までの試験で」

「皇帝直属の魔術師が作った人形だよ、私は。そんじょそこらの魔導で壊れてたまるかい」


 ひらひらと抜け殻の右手を振る少年人形に、セイムは問う。先ほどから繰り返されるノーヴルの言動や口調が、師であるヴィア=ノーヴァのそれに酷似しているのだ。


「お師様、なのですか」

「君は自分の師匠と人形の違いも分からないのかい?」

「私に才能があると、それを活かす努力をしろといつも仰っていたのは、お師様だけです――」


 無言は肯定と同義だ。

 師が約束を破ったことなど今までなかった。そう呟いたセイムが目から大粒の涙を落としていく様を、ノーヴルは何も言わずに眺めていた。




 しゃくり上げながら泣き続けるセイムの背中を撫でたのは、それまで外で成り行きを見守っていたイヴァンだった。

 先程のやり取りはイヴァンには聞こえていないようだったが、彼女の尋常ならざる様子に面喰ったのだろう。二人を交互に見ながら、何があったのかとノーヴルに問うていた、



「ノーヴル、彼女はどうしたのです」

「随分と緊張していたようです。私が合格と告げると、すぐ泣き出してしまって」


 選定試験の知らせを聞いて単身帝都に上ってきた身寄りのない少女。そんな彼女が実力でノーヴルを倒したという筋書きが出来上がってしまったらしい。

 泣きじゃくるセイムを宥めて目元を冷やす布を用意するようにノーヴルへ命令を出すと、銀髪の魔導士は至極穏やかな声で祝福を述べた。


「おめでとう、セイム。……もしやと思うのですが、先日水女神アルドゥの魔導を使ったのは、あなたではありませんか?」

「っく、あの、はい、消えなかった、から」

「やはりそうでしたか。あぁ、素晴らしい才能だ――本当におめでとう。我等「杖」は、心からあなたを祝福し、歓迎しましょう」


 肉親を知らないセイムではあったが、恐らく父や兄というのはこうして優しいものなのだろう。そう、直感的に感じることが出来た。物心がついたときから、ヴィア=ノーヴァは師であった。


 なおも涙の止まらないセイムの背中を根気強く撫でながら、イヴァンは彼女の持っていた鞄に目を落とした。あれだけ激しい戦闘であっても傷一つつかなかったそれを見定めるように目を細めると、やがて少しだけ声を低くして口を開く。


「この、鞄は。魔力を帯びていますが、呪具ですか?」

「はい、し、師匠から頂いたもので」

「……なるほど」


 それからも何か尋ねたそうなイヴァンが質問をやめたのは、遠くから大きな男の声が近づいてきたからだった。

 試験が終了して疎らになり始めた他の受験者たちですら飛び上がるその声に、魔導令師は困ったように眉をひそめた。


「イヴァンさんよぉ! そっちの試験は終わってんのかい!」

「えぇ、今しがた。テオドールさんが持っていらっしゃるのは、そちら側の合格者で?」

「おうよ。まだまだ甘ェが鍛え甲斐はあるぜ。なんたって他の受験者百十余人、気合で薙ぎ払いやがった」


 まるで筋肉の鎧を纏ったかのような大男だった。恐らく彼も皇帝の近衛である内の一人なのだろう。茶髪の男を軽々と俵のように抱えている姿は、神話に出てくる農耕神のようですらあった。


「まー、随分ちっこい嬢ちゃんだなぁ。マリアーヌも細っこかったが、魔導士ってのは皆こうなのか?」

「あなたが不必要に筋肉をつけすぎているだけだと思いますが――そこの彼も決してそこまで体格がいいわけでもないでしょう」

「馬ァ鹿、んなことだからへたばっちまうんだよ。わかってねぇなイヴァンさんはよぉ」


 伝統的とすらいえる魔導士と剣士のかみ合わないやり取りが耳に障ったのか、それまでぐったりとしていた茶髪の男が向くりと体を起こした。

 煩わしげに開かれた瞳は、セイムがこの数日世話になり続けた瑠璃色だ。


「ラウ?」

「んあー……ンだ、アッタマ痛ぇ……お、セイム?」


 未だぼんやりとした様子のラウは、何度か目を瞬かせると途端に覚醒して体をよじった。テオドールの方に担ぎ上げられたまま体をひねらせる様は、打ち上げられた魚のようにも見えて何処か滑稽だ。


「おい、なんだオッサン! つーか試験、試験どうなってんだよ!」

「おー、起きたかクソガキ。安心しろ、残りは全部お前が伸しちまったよ」

「あぁっ!?」


 投げ出されるようにして解放されたラウにセイムが駆け寄ると、イヴァンがくすりと笑いを零した。


「成程、君もあの時の男の子でしたか。いやはや運命とは何とも数奇なものだ」

「あ? 俺にも分るように説明してくれよ」

「いえ、以前お会いしましたよね? 倒れた彼女を介抱してくれたのはあなただったはずだ」

「お、おう……そう、っすけど」


 途端に勢いの失せたラウが頷くと、イヴァンはまた嬉しそうに目を細めた。


 その頃、やけに帰りが遅いとノーヴルの姿を探していたセイムの目に、取れてしまった右手を綺麗にくっつけた彼の人形の笑顔が飛び込んできた。何処か上機嫌に歩いてきたノーヴルは、イヴァンの前で頭を下げる。


「セイム・ミズガルズ、並びにラウ・シューゼンの試験結果について、皇帝陛下に奏上致しました。すぐにでも謁見の間に連れてくるようにと」

「了解しました。セイム、ラウ、今の話は聞いていましたね?」


 法衣を翻したイヴァンが、静かな笑みを浮かべた。心なしかテオドールも襟を正し、黒い軍服に付いた土埃を払っている。

 何事かと息をのむ二人に、最も皇帝に近しい位置にある魔導士は長い髪を揺らした。


「皇帝陛下がお呼びです」

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