第三十八話 生に向かって逃げろ!
戦うか、退くか。
考えれば考えるほど、その選択の天秤は、戦う方向に傾くだけだった。
退くならば、考える時間などない。向こうは一瞬ごとに距離を縮めてきている、その決断が遅れれば遅れるほど、逃げ切れる可能性は小さくなっていく。行動するのではなく、思考に入った時点で、それは自分の首を絞めているのだ。
「逃げてください」
イルミナが俺にだけ聞こえるように、退却を促した。
――お前のせいだろうが。
俺にその決断をさせないでいるのは、まさにそのイルミナ自身に他ならない。
俺は別に博愛主義者でもなければ、自己犠牲の精神もそう多くは持ち合わせてはいない。この戦場で何が一番大事かと問われれば、それは俺自身の命だ。この勝敗が最終的にどうなろうと、俺の命が失われてしまえば、そんなことには何の価値もなくなる。
しかしその次に大事なのが、このイルミナの命なのだ。さすがに命だけなら、自分の命の方が重い。だがそれに、俺自身の誇りや、責任や、その他のいろいろな想いを加えるならば、もはやどちらがより重いかなどは、簡単には言えなくなる。
こんなことは我儘であることは百も承知だが、誰に許される必要もない。他の仲間をどれだけ犠牲にしようが、こいつにだけは生きていてほしかった。いくらこの場で勝利を得ようと、イルミナが死ぬようなことがあれば、俺は負けたとき以上に後悔するだろう。
だから、逃げることは決断しきれなかった。それをすれば、こいつは命がけでネクセルガを食い止めて、俺を逃がそうとするはずで、それは獣の口へ自ら身を投げだすことに等しい。
運が良ければ相手にすらされない、ということも考えられるが、それならばイルミナは、相手にされるまで食い下がろうとするだろう。
絶対にそれをするな、そう説得するだけの時間は残されていない。
――じゃあ、やるしかねえだろ。
結局、俺にとって、ここで退却することは、後悔に向かって走り出すことと同じだった。
だから、小さな声で呟いだ。
「逃げるぞ、ついて来い」
それ以外に選びうる選択はなかった。俺の返答に頷くイルミナだったが、次の瞬間に、その表情は驚きへと変わった。
「うおぉぉぉぉぉぉッ!!!」
高らかに雄叫びを上げ、
「行くぞ! 手前てめえらッ!!!」
前方のネクセルガを指さす。
ただし、逃げる方向は前だ、活路はその方向にこそある。
馬腹を蹴って、馬を駆る、その後ろに隊が続いた。驚きはしたが、すぐに俺の意図は察したのだろう、イルミナの気配はすぐ後ろにある、振り返らずともそれはわかる。
――とりあえず、一撃だ。
一合だけ刃を交わし、それでネクセルガの背後に抜ける。そうすれば、敵味方の乱戦の中に紛れこめる。後方の誰もいない所に逃げて、追いかけっこになるよりは、よほど生存の可能性が高い。あの足の速さを見れば、騎馬でなら逃げ切れる、そう信じることは難しかった。
一度もぶつかることなく、横や斜めに抜けることも考えたが、それではおそらく追いついてこられる。側方や斜め後方からあいつの攻撃を受けるくらいなら、正面から当たった方が、まだ切り抜けられるだろうと思えた。
「しゃああッ!」
手に持つ剣を投げてでもこられれば別だが、間合いはこちらの槍が有利だ。ひとまず先手が取れる、眼前に迫るネクセルガに対し、俺は大きく槍を払った。
突く動作なら、躱されれば反撃を食らう、だがこれならば、まともに当たっても致命傷にはならないが、対応するには受け止めるか、後ろに距離をとるしかない。
「しッ!」
それと同時にイルミナが牽制のナイフを投げる。
しかしそれらはいずれも空を切った。躱されるのは予定の範囲内、このようなもので討ち取れるような相手なら、初めから恐れるようなことはない。
だがネクセルガの躱した方向は、後ろではなく、下。奴は疾走する馬の脚元に、素早くその身を沈ませた。
――何を。
するつもりだ、それは思考にはならなかった。
馬腹に潜り込まれたこと自体か、あるいは脚を斬りつけられでもしたか、乗馬が驚き、暴れるだけならまだしも、倒れ込むことまでは抑えることができなかった。
次の瞬間、視界が激しく回転し、俺は馬もろとも地に投げだされていた。
「がッ!」
激突する寸前、槍を地面に突き刺し、最低限の受け身だけはとった。二回、三回と転がり、体の何ヶ所かを打ちつけて止まったが、怪我まではしていない、しかし、この手に槍は失われた。
一旦は地面に寝転がる体勢になったネクセルガだが、後続の兵が次々に突きかかるその穂先を斬り払い、身を翻しながら立ち上がった。さらなる追撃を左右に踊るようにして躱し、二人を斬り捨て、もがく馬を軽々と飛び越え、俺の背中にたちまち肉薄する。俺が自分の肩越しに見たのは、奴が両手の剣を振りかぶる姿だった。
お尋ね者がこんな乱戦に出てきてどういうつもりだ、首尾よく俺を殺せたとしても、その後はよってたかって首級を上げられるだけだろう、そう考えていたが、そんなものは楽観に過ぎなかった。
獲物を見下ろすその瞳は、ここを窮地だとも死地だとも考えてはいない。こいつは俺を倒した後は、悠々とここから立ち去るつもりだった。ネクセルガの表情から感情は読み取れなかったが、そのことは感覚的に理解できた。
自ら倒れた者と、倒された者の差か、向こうの動きにこちらの対応は間に合っていない。起き上りながら腰の剣を抜き合わせるが、この体勢では手遅れだ。横薙ぎの剣を受け止めるのを諦めて、前方に体を投げだすように倒れて避ける、続けざまの斬撃は、転がって躱した。
――疾い。
それは目で追えたわけではなかった、危険を察知して、本能的に体が動いただけだ。
仰向けに寝転がった俺に向けて、再び剣が振り上げられた。
――まずいっ!
両手に二本、これが同時に振り下ろされれば、どちらに転がっても間に合わない。
すでに絶体絶命、その後を考える余裕はない。蹴って、距離をとる。その代償に、足一本は持っていかれることを覚悟した。
だが剣は俺の体に落ちてくることはなく、その寸前にネクセルガは自ら飛び退いた。
直後、飛来した槍が、俺の足先をかすめ、大地に斜めに突き立った。
「ウィラード様!」
「助かった!」
それはイルミナが投擲したものだった。スカーランに引き続き、今回もまた命を救われたとなれば、愛の奇跡ぐらいは信じてもいい。もちろん兄妹愛か、家族愛だが。
咄嗟に土を掴み、ネクセルガの顔面に投げつける、大した目眩しの効果もなく、簡単に振り払われるが、ごく僅かな隙だけはもらえた。その間にできたことは、剣を抜いて立ち上がることだけで、反撃の機会までは与えられなかった。
こいつに対抗するには物量より膂力より、何より速さが必要だった。
飛び道具、おそらくはそれを準備すべきだったのだろう。もちろんそんな用意はしていないし、あったとしても、それを扱える者など数少ない。
剣を構えて対峙する格好になったものの、ここからの攻め手は何もない。
ネクセルガの後ろから隊の連中が詰めてくるが、それが包囲するのを待ってくれるほど悠長ではないだろうし、それまで保たせられる自信はない。このまま切り結べば、一合か二合で、勝負は決まってしまうだろう。
睨み合いは一瞬で放棄したし、放棄された。
俺は直ちに遁走することを決め、相手にはもとより、俺のような戦士として格下相手に、睨み合いなど続ける理由はない。
その場から逃げ出してはみたが、もちろん絶体絶命なのは変わらない。自分の脚力は人並み以上にあるとは思っているが、ネクセルガのそれは、おのれとは比べようもないぐらいに化物だ。しかし右手の方向からは、希望の光が差してきていた。
荷物の辺りに陣取っていたバルキレオの隊、それが俺の窮地に駆けつけようと急いでいる。その横にはなぜか、スカーランで雇った者たちまでもが、得物をそれぞれの手にして並走していた。知らない間にバルキレオが指揮下に組み入れたか、それともわけもわからず戦いの狂奔にあてられたか。
どちらでもいい、ただ、あの中に入ってさえしまえれば、とりあえず命は助かる、はずだ。
必死で走った、それでも足音はたちまち近づいてきた。
追いかけられる方は圧倒的に不利だった。相手は追いかけながら全く無言で、こちらの背中を狙ってくる。
不穏な息遣いを感じたときは、走る方向を急に変える、あるいは思いっきり前傾姿勢になる。目視はしていないが、それでおそらく何回かの斬撃は躱した。
それでも何度か、背中を、肘を、斬られたような感覚はあった。しかし、かすっただけで、いずれも浅手だ、このまま走り続けることに支障はない。
「はっ、はっ、はっ、はっ」
全力疾走の、さらに上、これまでに出したことのない速さで走り、心臓が口から飛び出しそうになるのを、飲み込み、飲み下した。
味方も懸命に急いでくれているが、それでもまだ距離があった。もはやなりふりは構ってはいられない。
どれほどみっともなかろうと、俺は逃げ切らなくてはならない。だから、走りながら剣も捨てた。それを自分の剣で受け止めたか、後方で金属のぶつかる音がした。
「つあっ!」
逆にネクセルガが俺の足元に向かって投げつけた剣を、その気配を読み、飛んで躱すことができたまでは上出来だった。
しかしその後が続かなかった。
降りた場所には窪みがあった。それに足を取られ、体勢を崩し、俺はつんのめって倒れた。
ごろごろと地べたを転がり、座ったまま向き直った時には、ネクセルガは自らの投げた剣も拾い、双剣を構えて目の前にいた。
「クソがあッ!!!」
――こんなとこで死ねるか!
もはや手持ちの武器はなにもない。それでも、手の一本や二本を犠牲にしてでも、ここは生き残らなくてはならない。
俺にはまだやらねばならないことがあるのだ。こんな時に、こんな場所で、こんな理由で、傭兵の身分のままこんなクソくだらねえ死に方などしてやるものか!
「来やがれ!」
ネクセルガの剣は、当然のことながら、それぞれ片手持ちだ。速さはあっても、重くはないはずだ。実際に斬られてみるまではわからないが、俺の両腕を切断し、皮兜、もしくは皮鎧の上からなお致命傷を与えてくるとまでは思えない。
――一回は耐える、耐えてみせる。
耐えた後に地を蹴って立ちあがる、そのために歯を喰いしばり、足を縮めた。
双剣がまさに振り下ろされようとしたその刹那、
「頭を下げろ!!!」
どこからともなく、そんな指示が飛んだ。俺は反射的にそれに従った。頭をかばい、地に伏せる。それでも斬られることを覚悟して、体中の筋肉に力を込めた。
ヒュンッ。
何かが風を切る音がした。いや、音は後で聞こえたのだ。その時にはすでに、ネクセルガの胸には何かが屹立していた。
ヒュンッ。 ヒュンッ。
さらにいくつか、別々の場所からその音は続き、
「があッ!」
という呻き声が聞こえた。それがネクセルガの声を聞いた、最初だった。
――矢。
弓矢、おそらくは弩から放たれたそれが、ネクセルガの体にいくつも突き刺さっていた。目と、首と、胸と、腹と、そしてまた一本が新たに、その胸に深々と突き立った。
ソムデンが敢えて俺を殺させようとする理由はない、ということは予測がついていた。気分の悪い話だが、あいつにとって俺は、この先まだまだ有益な駒であるはずだ。おそらくは簡単に捨ててしまってはもったいない、と思えるだけの値打ちはあるだろう。それから友情も、少しぐらいは期待していいはずだ。
今回あいつは、俺を芋洗傭兵団、そしてこのネクセルガとやらを釣り上げるための餌には使ったものの、本当に食わせてしまうつもりは毛頭なかったに違いない。
絶対とは言い切れないが、なるべくなら死なせないようにする算段はあったはずなのだ。
まさに危機一髪だったが、それらが、この矢の正体だった。
俺の周りには、密かに護衛がつけられていた。
この間から、時おりイルミナが気にし、ディデューンが勘づいていた気配、それは刺客のものではなく、それら護衛が発するものであったのだ。
――ギルドの
どちらかといえば、彼らにとっては、俺を護ることは副次的なことだったのだろう。俺を狙ってのこのこ現れたネクセルガを討ち取る、それこそが主たる目的ではあったに違いない。
スカーランで雇った傭兵たちの中から数名、そして草むらの陰からも、それら
やはりその顔は、いつかのソムデンとの面会時に、あいつの部屋に入ってきた面々だった。
「馬鹿にすんな!」
手前てめえらもそのつもりで、この機会を待ってたんだろうが、いいとこ取りは許さねえ。
飛び上がって立ち上がり、ネクセルガの顎に頭突きをかます。同時に両手を掴み、剣と体の動きを封じた。驚異的な瞬発を誇ったこの男も、その耐久は常人とさほど変わらなかったのだろう、致命的な箇所に何本も矢を受けて、血塗れになったその身体には、すでに大半の力が失われている。
「イルミナ! 早く来い!」
「わかりました」
俺の所に、
誰かが背後から接近することに気づいたネクセルガが、俺の束縛から逃れようとする。しかし抵抗する力はもうそれほど残されていなかった。
イルミナが走りながら体当たりをするように、その背中にナイフを突き入れた。それは骨の隙間をかいくぐり、過たず心臓の位置。
「グバッ!」
口から吐き出された血液が、俺の胸元からつま先までを汚した。握りしめた腕から、命を感じられなくなるまでには、それほど時間はかからなかった。
「お手柄だ」
崩れ落ちた身体の向こうから、イルミナが泣きそうになりながら微笑む顔が覗いた。今だけは、勝利の女神は普段は不愛想で、その胸は男のようにぺったんこで、微笑むと輝くように美しい、そう言われたら信じてやってもよかった。
止めを刺したのはイルミナだが、こいつは勝ち名乗りを上げられねえ。手柄を横取りするようで申し訳ないが、ここは代わりに上げさせてもらう。
「賞金首、ネクセルガ・ジーカー、このウィラード・シャマリが討ち取った!」
ソムデンさんよ、悪いが手前てめえんとこの
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