第五十六話 絡まる過去


 ――老いたな。


 それが正直な感想だった。


 俺たちが到着したその夜、野外で歓迎の酒宴が催されている。


 広場の中央には明々と篝火が焚かれ、その周りを二重三重に円を作って人々が取り囲む、その最上席に族長ケンモンティンの姿はあった。かつてここを訪れた時にはすでに高齢を過ぎ、もはや老境ではあったが、それでも矍鑠とし、並の若者では束になっても敵わない、そんな力強さも見せていた。しかしどうやらここ二年で一気に老け込んだようで、その緩慢な動きはもはや老人のものとなっていた。


 少し怪我をした、とも聞いている。怪我自体はすでに完治したらしいが、しばらく動けなかったことが、今のこの状態を招いてしまったようだった。


 それでも威厳だけは、さほど失われてもいない。俺たち客人に対してはそれが向けられることはないが、眼光はなおも鋭く、集落の者を畏怖させるに足る輝きを放っている。その世話をする者たちは、族長の一挙手一投足に目を配り、機嫌を損ねないように気を遣っているのがよくわかる。


「この度はかくも盛大なる歓迎をいただき、誠にもったいなく存じます」


 族長の従者を介してその場を作ってもらい、こちらから出向いて挨拶をする。この人に対しては、王に対する態度であらねばならない。


「よう来た、ウィラード」

「族長様におかれましては、ご健勝で何よりと存じます」

「ふふ、世辞はよい。儂が老いたのは自分でもようわかっておる。……この度の用向きについては、話は聞いている。それについては、別に場を設けるゆえ、今はただ皆と盃を交わすがよい」

「ご厚情、痛み入ります」


 もちろん、こんな席で自分の用件を話し合うつもりは最初からないのだが、それについてわざわざ族長の方から言及してきたことによって、この人は何かを隠している、そんな雰囲気が見て取れた。何となくそれは俺たちに対してではなく、別の誰かに対してのもののような気がした。


 従者から瓶が渡され、それで族長の盃に酒を献じる。次はこちらが返杯を受ける、そうしてから、自分の席に戻った。


「楽しんでいらっしゃいますか?」

「……? ありがとう」


 空になった俺の器に、酒を注ぎにきた男が誰であるのか、最初はわからなかった。


「……お前、……ペトラガーン、か?」

「はい、ウィラードさん、その節はありがとうございました」

「やめてくれ、礼は前に何回も聞いた」

「命のお礼は、何度言っても足りないものです」


 それは男というよりも、まだ少年だった。だが、顔はまだまだ子供の面差しではあるものの、その背丈は並の大人よりも高く、俺とほとんど変わらないぐらいだ。


「……でかくなったな」

「あれからずいぶん伸びました」


 ――ずいぶんすぎるな。


 ペトラガーンは族長ケンモンティンの末子、ヒルシャーンの弟にあたる。こいつは俺が前にここに来たときは確か十三歳、ここまで大きかったわけがなく、むしろその年齢にしてはずいぶんチビの部類だった、……それどころか死にかけてもいた。




 ――再び二年前。


 略奪者たちの最後尾に必死で食らいつきながら、やっと到着したウルズバールの集落で、俺がどう処遇されたかというと、単に放っておかれただけだった。俺がここにいていいか、族長に面通しをして、判断を仰ぐようなこともなかった。


 歓迎されるわけでもなく、知らない奴からは不審には思われるものの、特別邪険にもされない、これは案外気楽でいい。サファゾーンが飯と寝床の用意だけはしてくれたので、奴について馬の練習をしたり、そこらをぶらぶらと見廻ったりしながら、何日かを適当に過ごしていた。


「こんなもん、ヴェルルクスでも誰も持ってねえな」


 手持ちの銀貨は普通に銀として通用したので、コンフィス伯爵家の面々にも織物などの土産を買うこともできた。ミールマリカ先生にも、とは一応考えたが、あの人は物ではあまり喜ばない。喜ばない人に金を使うのは勿体ない、それよりも土産話の類を、と集落の人間に話しかけると、警戒はされたものの、雑談ぐらいなら応じてもらえた。


 ただ、何となくよくない気配だけはあった。


 一族の中で、やや身分の高そうな者の暮らす辺りが慌ただしく、それでいて陰鬱な空気が漂っていたのだ。いつもこうではない、というのはサファゾーンらの表情からしてわかる、だがそれが何に由来するのか、よそ者が軽々しく尋ねることはできなかった。


 二日ほどしたある夜、俺の寝所に、少々剣呑な様子でヒルシャーンが訪ねてきた。


「貴様はここに来なかった方が良かったかもしれん」

「いきなりかよ、何があった」

「……死霊憑きだ、俺の弟が死霊に憑りつかれている」

「……何だよ、死霊ってのは」

「……病、のようなものだ」


 ――病のようなものって、そりゃ病だろ。


 この世の中に死霊だの悪霊だのがいるわけもない、などと言わなくてもいいことは口にしないが、しかしこれで、ここにあったイヤな気配の正体だけはわかった。こいつの弟なら、そいつもここの王子様みたいなもんで、その方がご病気というのなら、雰囲気も悪かろうというものだ、しかも死霊などと禍々しい言われ方をするぐらいなのだ、その病状は重いのだろう。


「弟が五日ほど前から高熱が続いていて、眠ったまま目を覚まさない」

「そりゃ災難だが、五日前なら、俺が来る前じゃねえか、俺は関係ないだろ」

「わかっている、だが医者が言うには、これまで弟は元気で、どこも悪いところはなかった、だからお前が死霊を連れてきたのだと」


 ――医者が死霊なんて言うか!


 と言いたいところだが、医者はこういうことを言うのだ。ある程度進んだ地域を除けば、この時代巷間にいるのは、怪我を診る金創医ならまだしも、病に対する医師の半分ぐらいは、少し薬草の知識があるぐらいで、まじない師や祈祷師の域を出ない。おそらくはここの医者も、その類なのだろう。そしてそういった連中は、すぐに死霊だの悪霊だの、そんなもののせいにする。


「……弟はじきに死ぬ、そうなるとお前の責任にされるぞ」


 それは理不尽な話だが、ある意味当然のこととも言える。死霊だか何だか知らないが、ここの医者にとっては、よそ者がそれを持ち込んだことにすれば、自分の力不足を問われないだろうし、この一族にとっても、その方が仲間内での和が保てる。王子様の病気と、俺がここに来た時期、その時間の前後関係などには目を瞑ってもなんの問題もない。


 にもかかわらず、その前に逃げろ、とこいつは言いに来てくれたのか。だとするとありがたい話だ。できればもう少し詳しく見て回りたかったが、前の村でせっかく助かった命だ、おかしなことになる前に、お言葉に甘えてさっさととんずらを決め込ませてもらうしかあるまい。


 そう思った、だから俺の口から次の言葉が出たことに、それほどの意味はないはずだった。


「そりゃそうと、あんたの弟ってのはいくつだい?」

「十三歳だったかな、まだまだガキだ。死なせるには惜しいが、手の施しようがないらしい」


 ――なんとなくどっかで聞いた話だな。


 エンダースを越える旅路で、どんな病気をもらうかわからない、俺はこの旅をするにあたって、自分のために医学書、薬学書の類を一通り読み、医学を専攻する教授に少しだけ解説を受けていた。


 その中で、よく劇の題材に使われる『医聖ミラルトスの悪魔退治』、その裏話のようなものがあったように思う。高熱が続いて眠るように死ぬ子供、という部分は同じで、悪魔と死霊はまあ似たようなものだ。十歳をいくつか過ぎているならば、それほど子供とも言えないかもしれないが、個人差というものもあるだろう。


 その功を医聖ミラルトスに奪われた、王立大学院アカデミー謹製ガーミン印『悪魔退治の特効薬』。その薬効から悪魔退治の名は失われて久しいが、これは今なお高熱に対する基本的な治療薬として、広く流通していた。


「……効くかもしれない薬を、持っている」


 そしてそれは、俺の荷物の中にもあった。薬だから決して安くはない、買えば結構な金額になる。だが俺は、王立大学院アカデミーの研究室から、他のいくつかの薬とともに、わりと大目に失敬してきていた。


「もらってもいいのか」

「おう、持ってけ持ってけ」


 もちろん効くかどうかはわからないので、警戒は怠らない。馬小屋に身を潜め、何かあればすぐに逃げ出せるような体勢で待機していたが、薬を渡した翌日の夕刻には、ヒルシャーンの弟、ペトラガーンは意識を取り戻し、そのさらに翌日には、俺の扱いは居候から賓客に変わっていた。


 ここの連中には盛大に感謝され、熱心な引き留めもあって一週間ほどで切り上げるつもりだったウルズバールでの滞在は、延びに延びて、一月を超えるものとなってしまった。その間、みっちりと乗馬を仕込まれたり、ヒルシャーンと兄弟分の契りを交わしたりして、ずいぶん楽しく過ごさせてもらった。


 ちなみに、この時の俺の旅は、全部で五ヶ月近くに及んでしまっている。王立大学院アカデミーの休みはせいぜい二月なので、三ヶ月ほど授業をサボっていたことになり、危うく放校処分となりかけた。


 しかし、この時に書いたレポートがそこそこ評価されたので、事なきを得ることができた。そのレポートはエンダースの向こうを知る上の資料としては最新のものとなり、二年たった今も、かなりの閲覧数を誇っているというのは、俺のちょっとした自慢でもあった。




 本来の目的を忘れるわけもない、宴の酒をあとに残すような真似はしない。


 金貨一千枚と馬百頭の交換。それについての交渉が始まったのは、翌日の昼過ぎだった。


 そこにはヒルシャーンもペトラガーンもいない、いるのは族長ケンモンティンとおそらくは一族の会計を預かる中年の男だけだった。


 こちら側も俺一人、あとの連中はどこかへ元気に遊びに出かけてしまっている。


 幸いにして事前に送った手紙は届いていたので、そのあらましは伝わってはいたが、内容については改めて自分の口から説明を行った。


「……ふむ、その取引自体には異存はない」


 金貨千枚と馬百頭、俺たちの側なら自分たちに極めて有利な買物だが、こちら側ならそれほどおかしな金額でもない。売り物さえあるのならば、まとまる話だとは思っていた。


「しかし、輸送のための人員については、条件がある」


 ――来たか。


 だが人員の貸与については、簡単なことではないはずだ。エンダースを越えて、言葉も通じない世界まで付いてこいというのだ、俺たちがそうであるように、往復で半年ばかりの道程、しかも帰りは馬も使えない。


 だが、百頭もの馬を動かすには、その扱いに長けた人間が十人ばかりはどうしても必要だ。仮に馬だけ渡されたところで、ビムラに辿りつく頃には果たして何頭残っているものやら、という話である。


 帰りの路用と合わせて、こちらの手持ちはあと金貨二〇〇枚。労賃を金で買うにしても、半分は使えない、せめて六、七〇枚ぐらいで収めておきたい。


「……どのような条件でしょう」


 よほど無理な要求でもない限り、ここは呑まなくてはならない。


「ヒルシャーンを連れていけ」

「!!!?」


 それは、人員を出せない、というよりもはるかに意外な条件だった。


「……どういう、ことでしょう」

「言葉の通りだ、あいつを連れていけ。そしていいというまで、戻ってこさせるな」


 ――どういうことだよ。


 あいつはここの跡取りじゃねえのかよ。


 ヒルシャーンにしてもペトラガーンにしても、この老人の子としてはあまりに若い。息子というよりは、孫の年齢でもあたりまえだ。しかしケンモンティンの精力が老いてなお盛んであったことは別にして、他に年長の息子がいないわけではないのだ。


 それを差し置いてなぜヒルシャーンが跡取りであるかということなのだが、その理由は、遊牧の社会には、末子相続という習慣が根付いていることにある。


 その慣習の中では、族長の子は、成人してある程度の年齢になれば、一定の財産を分け与えられて独立し、新たな集落を作らねばならない。だがその末子は最後まで独立せず、族長が死ねばその財産の大部分を相続することになる。


 そうして、ヒルシャーンらの兄はすでに何人も独立を果たしている。次があいつの番なのは間違いないが、その次のペトラガーンは体は大きくなったとはいえまだ子供で、直ちに跡取りの任が務まるとも思えない。ヒルシャーンの独立は、その成人を待ってからでも遅くはないはずだ。


 そして今のケンモンティンの様子を見る限り、その寿命はあまり長く残っていないようにも思えるのだ。彼は、ペトラガーンが一人前になるのを見届けることなく、この世を去ることになるのではないか、と。


 族長は、自分の財産をヒルシャーンではなく、ペトラガーンに残したいと思っている。そう判断せざるを得ない。


「………………」


 ならば、迂闊なことを言えない。


 俺はこの一族の家督相続、ヒルシャーンの廃嫡について、おかしな役割を押し付けられようとしていた。俺が族長の条件を呑めば、俺の兄弟分は本来受け取ることになるであろう財産の大部分を、放棄させられることになるのだ。


 その理由は、わかる。


 ヒルシャーンとペトラガーンは母が違う。ヒルシャーンの母はすでに亡く、族長の現在の后は、ペトラガーンの産みの親だ。おそらくはその意向が強く働いているに違いない。


 もともとは、さっさとヒルシャーンを独立させてしまえ、という話だったのだろうが、これからまだまだ強くなるであろうヒルシャーンと、未だ少年のペトラガーンでは求心力が違いすぎる、族長が後見であるにしても、これも老いさらばえていくばかりだ。下手に独立などさせてしまうと、集落の戦力の中核をなす若者たちは、そちらについていってしまう。


 そこに都合よく俺がやってきたというわけだ。俺と一緒に天蓋の向こうまでやってしまえば、それについていきたがるような奴は皆無ではないにせよ、さすがに多くないだろう。さらにはそんな遠くでヒルシャーンの勢力が増したところで、兄弟で縄張り争いをすることもない。


「……あいつは、このことを?」


 このことについて、あいつが自分自身で納得しているならば、何も問題はない。


「知らん。儂からは何も、言っていない」


 なるほど、説得も含めて俺にやれ、ということか。


 ――くそったれが!


 しかし、これが条件だ、と言われてしまえば、俺に否も応もない、そうするより他に道はないのだ。さもなくば手ぶらで帰ることになるのだから。


 とはいえ、後ろめたさは並大抵ではない、普通ならこんなことは絶対にやりたくないのだ。


 ヒルシャーンは俺と同い年であるにもかかわらず、ここ二年の間で、この集落を大きく成長させた、それほどの器だ。今後も成長するであろうし、もしかすると、英雄と呼ばれる所まで到達するかもしれない。


 その道をここで断て、というのは、親のすることにしてはあまりに酷薄だと思えた。


 若い後妻の機嫌をとるために、それが産んだ子を贔屓したがる気持ちもわからないではないが、そんなことの手伝いをさせられるのは、極めて不愉快な話だ。かつてペトラガーンの命を助けたことは決して間違いだったとは思わないが、その結果はこうして兄弟分の首を絞めることに繋がっていた。

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