第五十二話 世界を越える


 世界のこちら側と向こう側は、完全にではないが、隔絶されている。


 こちら側の大半ではそう考えられていることではあるが、エンダース山脈の麓、ここミュラキレイズまで来ると、あまりそういう意識では捉えられてはいない。細々としたものではあるが、一応は商いの道と呼んでもいいようなものは、確立されていた。


 春から秋までの間、何組かの商人が、エンダースを越えることは知られている。


 とはいえ、やはり人数は少ないし、それが今後大きくなっていくことも、あまり考えられない。


 何しろ、エンダースを越えて、一番近くの町まででもおよそ一月かかる、それだけでも往復ならば二ヶ月だ。その間はすべて野宿になり、水は途中で調達できるにしても、食糧などは自力で運ばなければならない。であれば、商売をするにしても、人力で運べる量はおのずと限界がある。小さくて高価な装飾品や、軽くて価値のある医薬品の類がせいぜいで、それが少々高額の取引になったところで、労力や危険をあわせて考えれば、これでは到底割に合わない。


「俺だってもういい歳だ、そろそろ止めにしたいんだが、こっちからも向こうからも頼まれるんでな、まあ人助けと思って仕方なしだ」


 とは、毎年のように、こちらとあちらを行き来するミュラキレイズの商人、パーオの弁である。旧知の人ではあるが、急に彼の店を訪ねたにもかかわらず、俺たちを快く歓迎してくれた。この店の小さな構えを見るだけでも、あちらとの取引が大した利益になるわけでもないことがわかる。


「しかし兄ちゃん、あんたまた行くのか? しかもあんたらだけで」

「ああ、行ってこようと思う」


 前回行った時は、往路だけではあるが、荷物持ちとして、この人のお供をさせてもらったのだ。


「エンダースを越えたいだなんて、前の時も珍しい兄ちゃんだと思ったが、とことん変わった兄ちゃんだったってわけかい。それともあれか、あんた確か結構な学士様だったよな、そんなら何かすげえ儲け話でも思いついたってのか?」

「……悪い、そいつは言えねえ」

「訊かねえよ、そんな野暮はしねえ」

「もし用事があるんなら、代わりに済ましてきてやっても構わないが」

「ちっ、そいつはありがてえが、あいにく俺はこの前帰ってきたばっかりでな。兄ちゃんたちが来るってわかってたんなら、頼んだんだがな」

「そりゃ残念、ときにブーランは元気か?」

「ふん、やっぱりそいつが目当てか、わかってるよ、みなまで言うな」


 そうして案内されたのは、店の裏にある厩舎だった。


 エンダースは馬では越えられない、その常識はこの町でももちろん同じで、だから俺たちは、この店に来る前に、これまで使ってきた荷駄馬と、ディデューンの乗馬とを預けてある。


 この先は完全に徒歩で、荷物も全て自分たちで背負わなければならない、と思うところだが、実はそうではない。


「こいつが途中までは荷物を運んでくれるってわけか」


 ティラガが感心したような声を上げる。


 俺たちの前には一頭の驢馬がいた。こいつがブーランだ。


「おう、久しぶりだな、俺のこと覚えてるか?」


 俺も自分の顔をくっつけるように近づけて、そいつの頭をガシガシと撫でてやる。お返しとばかりに顔を舐められて、よだれでベタベタにされた。このブーランが、あと半月ばかりは、俺たちの荷物を運ぶ手伝いをしてくれるのだ。


「適当なところで、放っぽらかしてくれていいからな」


 パーオがそう説明したように、この先を進むにあたって、四本足のものが完全に通れなくなる所で解放すれば、こいつは勝手にこの町まで戻ってくるように調教されていた。頭の悪そうな顔をしているが、なかなか賢い。


「助かる、恩に着る」

「いいってことよ。すぐに借りを返せとは言わねえが、ちょろっと恩には思っといてくれ。そんであんたが出世したら、十倍返しでいいからな」

「たった十倍でいいのか?」


 笑いながら、冗談を返す。


「はっ、こりゃ失敗したかな、百倍とか千倍って言っとくんだった」

「……帰りはあんたの迷惑になるかも知れねえんで、たぶん顔は出せない」

「ふん、仕方ねえさ。ま、俺は兄ちゃんが元気そうなのが見れただけで充分だ、また何年かしたら、また顔を見せに来な」

「ありがとう、また必ず」


 ブーランの借り賃だけでいえば、十倍になったところで、今の俺にはそれほど大きな負担ではない。そんなことよりも、その気持ちに対しては、何らかの形で恩返しがしたいと、そう思いながら、俺たちはミュラキレイズを後にした。




 エンダースの山道、休憩をとれそうな所、野営に適した場所は、長年にわたって旅をしてきた者たちの手によって、次第に手が加えられ、何となく整備がされている。


 それでも獣道に毛が生えた程度であるには違いなく、道行きが厳しいことには変わりはない。平地よりも起伏の方がはるかに多く、急な登りが続くと思えば、長々とした下りで、転ばないようにいちいち脚元に気をつけていなければならない場所もある。


「…………暇だな」

「しりとりでもしようじゃないか」

「するか!」


 そうであるにも関わらず、出発から十日ほど経っても、同行者たちの態度にはわりと余裕がある。もともと俺よりもかなり体力のある連中であるのは間違いないのだが、ここまで何も問題なかったとはいえ、緊張感というものがまるでない。


 景色も山と森ばかりの単調なものであるのも確かなのだが、これから言葉も通じないような所へ行くというのに、恐怖心というものがないのか、こいつらは。


「…………りんご」

「だからしなくていいんだよ!」


 などと言おうと思ったが、もしこれがディデューンの超くだらない提案を受けて、頑張って仲良くしようと、イルミナが必死で絞り出した一言であるのならば、それは尊重してやらなくてはならない。


「……ほら、イルミナがりんごって言ったぞ、ディデューン、続けろ」

「ご……ご……業突く張りのウィラード。……うん、まったく、ウィラードはいいお父さんにもなれそうだ」

「ほっとけ! あと誰が業突く張りだ!」

「いやいや、もちろんいい意味でケチだよ、しっかりしている」

「ケチにいい意味も悪い意味もあるかっ!」


 その後のイルミナからは、しばらく待っても次の答えは返ってこなかった。しかしまあ慌てることはない、一言だけでも出せたのならば、次もまたもう少しだけ頑張ればいいことだ。


 俺たちが呑気でいられたのは、だいたいそのあたりまでだった。


 その日の夜は、向こう側から戻ってきた一人の商人と一緒になった。本格的に夏になる前のこの時期は、比較的行き来が盛んらしいが、この道中、俺たち以外の人間と行き遭ったのは、結局この一回が最初で最後だった。


「ちい、もう二日ほど遅く帰ってくるんだった」


 その商人は、ブーランを見ながらそう言った。これもただの冗談の部類だが、俺たちはあと二日ほどでブーランと別れることになる。その時に彼と出会っていれば、彼は帰りの荷を背負ってもらえて助かったと、そういう寸法だった。


「まあ俺たちが放したら、そのうちあんたにも追いつくだろ、そしたら載せてってもらえばいいさ」

「せっかくだから、そうさせてもらおうか。ふむ、一週間ぐらいは楽できるかな」

「パーオさんとこの驢馬だ、知ってるかい?」

「ああ、ここを通る奴は少ないからな、あの人ならよく知ってる」


 焚火をしながら、互いの食物などを交換したりする。俺は以前にも食べたことはあるが、彼がくれたあちら側の保存食は、皆には珍しい味であるようだった。


「かーっ、帰りの道中でこいつはありがたい」


 こちらから渡した酒などは、かなり喜んでもらえた。こういうものは荷物になるので、俺たちも純粋な娯楽として飲めるのは、ブーランがいるうちだけだ。その先は、消毒や気付けの意味で、ごく少量の強い酒しか持っていくことはできない。


「それよりな」


 と、彼は声をひそめた。


「今晩はまだ大丈夫だと思うが、この先は気を付けた方がいいかもわからんぞ」

「何かあるのか?」

「脅かすわけじゃないが、もしかすると虎がいるかもしれん、」

「……何でわかんだよ」

「……こっちにも確証があるわけではない。俺もこの眼で見たわけじゃなくて、そうかもしれない遠吠えを聞いた気がするだけだ。しかしあれは、これまでに聞いたことのないような恐ろしい声だった」

「……マジかよ。あんたよくそんなとこを一人で帰ってこれたな」

「俺だって生きた心地がしなかったがよ、だが相手がどこにいるのかわからんのだから、進んでも引き返しても一緒のことだ、進むしかないだろ」

「……そりゃそうだな」

「なあなあ、虎ってなんだ?」


 横からティラガが疑問を挟んできた。これはまあ当然で、その猛獣の存在は一般にあまり知られたものではない。俺も知識として知っているだけで、実物は死んだ奴の毛皮を一度見たことがあるに過ぎない。しかしその大きさだけでも、それが脅威であることを想像するのは容易い。だがこの辺りでもごく稀に目撃情報がある、というだけで、主に警戒されているのは狼や猪、たまに熊だ。


「猫のばかでかいやつだ」


 と説明してから、おそらくティラガの頭の中には別のものが思い浮かべられたことに気が付き、訂正を付け加える。


「違う、それは山猫だ、虎はもっとでかい」

「よく俺の考えたことがわかったな」

「わかるわい」


 俺たちの所属が一体どこだと思ってんだ。




 次の朝、商人と別れた後は、当然に旅を再開させなければならないのだが、足を前に動かしながらも、果たしてどうすればいいのか、思案が定まらなかった。


 やはりどうしても虎の噂は気にならざるを得ない。


 ――騒げばいいのか、それとも静かにしてりゃいいのか。


 野生の動物は大抵が臆病なものだ、大きな音を立てていれば、近寄ってくることは少ない。しかし虎の生態などは、一体どんな物好きが調べるのだ、という話で、王立大学院アカデミーにある文献にも載っていないだろうし、経験則として知っている奴がいるのかどうかすら、甚だ疑問である。俺の感覚で考えれば、そんな猛獣が何を恐れてそんな臆病になる理由があるのか、とも思ってしまう。


 それでも二日を過ぎ、そろそろブーランを捨てなければならない地点に差しかかった。


 そこは、大した高さでもないが、低くもない崖になっている。上からはかつて誰かが備え付けたのであろう、太い縄が補助として垂れ下がっていた。俺たちはここをよじ登らなくてはならないが、もちろん驢馬にそのような芸当ができるはずもない。


「ふむ、帰りはこんなところを降りてくることになるのか」


 ディデューンが心配したのは、自分たちのことではない、この旅の目的のことだった。


「エンダースは馬で越えられない」


 その常識は、半分は正解で、半分は誤りなのだ。


 本当は、馬は、向こう側からならば、来れるのだ。他の誰でもなく、俺自身がそのことを証明したのだから。


 以前に俺があちら側に行った時、縁あってとある遊牧の一族のもとに身を寄せていたことがある、というか、滞在期間の大半をそこで過ごしていた。


 彼らには客として、あるいは友人として扱われ、ともに一月ばかり暮らしたのち、俺は別れ際に一頭の馬をもらったのだ。


 馬は彼らにとって、大事な財産であり、友でもある。その時はどうせ帰り道の途中までしか使えないと信じていたので、さすがにもらえない、と断ってはみたものの、強く押しつけられれば、それ以上固辞することもできなかった。


 もらった馬は、特別駿馬ということもなく、駄馬でもなかったと思う。


 それでもいくつかの難所で、そろそろ捨てなければならないかと思った所のことごとくを、そいつは見事に越えることができたのだ、もちろんこの場所も例外ではなかった。


 そうして俺は、過去に馬でのエンダース越えを果たしていたのである。


「ウィラードのケチは役に立つな」

「だからケチじゃねえ!」


 しかしまあ、ここを馬で飛び降りる恐怖心と、馬を捨てるのを惜しむ気持ちを天秤にかけて、貧乏性が上回ったというのはあながち間違いでもなかった。


 ちなみにその時の馬は、ヴェルルクスに帰ってすぐに、旅費として作った借金を返済するために早々に売り払ってしまっている。


「さすがにここを飛び降りるのには勇気がいるな」


 崖を見上げながら、ディデューンが呟く。


「大丈夫だ、おまえらには無理でも、俺が一人で全部下ろしてやる」

「それは頼もしいな」


 俺の騎乗の達者は、その遊牧の民によって体に叩き込まれたものだ。その一族の若者は、地上よりも馬上にいる時間の方が長いとも言われる、そんな環境に放り込まれれば、誰であろうと嫌でも上手になってしまうだろう。


 ティラガにもディデューンにも、剣では敵わないが、この技術があるから、少しは偉そうにもしていられる。


 ……この先はわかったもんじゃねえが。


 そうなのだ。


 この旅の目的は、あちらから大量の馬を引っ張ってくることなのだ。そうして騎馬隊を編成し、単純に力でもってビムラ中央会議に対抗する。


 これは本来、俺がいつかどこかの国でしかるべき地位についたならば、そうして精鋭無比の騎馬軍団を作り上げようと計画していたことなのだった。


「まさかこれを自力ですることになるとは思わなかった」


 もちろん、もともとの計画からは、その規模はずいぶん縮小されている。これをもし千や二千の単位で行えることができたならば、どの国でも周辺国を震え上がらせることになるだろう。


 今回俺がかき集めることができたのは、金貨が一二〇〇枚ほど、これは相場で単純計算してみても、ビムラ近辺であれば、馬三十頭が買うのがやっとの金額になるか。しかも馬商人ギルドが俺たち傭兵に対して、おとなしく売ってくれるとも考えられない、かなり吹っかけられて、上限五頭とかがせいぜいか。


 しかし、彼の一族からならば、この金額でも百頭ぐらいは購えるはずだ。金や銀は向こう側でもあたりまえに価値がある。


 とはいえ、それ以外にも様々に問題はあるのだ。


 まずこの先、彼らに会えるかどうかがわからない。彼らは広い草原を移動しながら暮らしているのだ、その所在を突き止めなければ、とにかく話にならない。届くかどうかもわからない手紙は何通も出しているが、ほんの気休めのようなものだ。下手をすると、一族自体がなくなっている可能性もある、彼らにとって、族長が別の者に取って代わられたりすることは、稀によくあることらしいのだ。


 それから無事に会えたとして、首尾よく馬を売ってもらえるとは限らないし、売ってもらえたとしても、俺たちたった四人では連れて帰ることもできない、少々の人員は貸してもらわなければならない。


 それにこちらに戻ってからも問題はある。普通、馬商人でも一度に扱う馬の量は十頭でも多い方だ、それを傭兵の身分で百頭もの馬を素通りさせてもらえる国境や関所が、そうそうあるとも思えなかった。これについては、王立大学院アカデミーの威光とコネとを最大限に発揮しなければならないだろう。


 あとはビムラに帰ったら帰ったで、その維持がどれほどのものになるかは見当もつかない。用地や糧秣の手配はソムデンには頼んではいるが、一時的なもので、それ以降はどれほどの金が必要になってくるかはまだわからない。すでに団の金庫はすっからかんだ、モグリの商売をすぐに再開できればどうとでもなるが、それもまた不確定事項ではあるのだった。


 しかし、それらの困難を乗り越えられたならば、山猫傭兵団ウチはどこにもない規模での騎馬隊を手に入れることができるのだ。


 ところどころに大穴が開いているが、これが俺の計画の骨子だった。


 この計画について打ち明けたとき、ソムデンには相当喜んではもらえた。別に喜んでほしくもなんともなかったが。ミールマリカ先生に話したとしても、たぶん面白がってはもらえたのではないかと思う。面白がってほしくもなんともないが。


 どこでどう頓挫することになるかわからない、それでも考えた末に、俺はこうすることを決断していた。成功も、失敗も、全部おのれで飲み込んでみせる、と。


 後悔は、していない。




 ブーランから荷物を下ろしている時、イルミナが何かに気づいた。


「あれ」


 その声を聞くまでもなく、全員がほぼ同時に、警戒を飛び越えて戦闘態勢に入った。


 左右と背中で、抜剣の音が聞こえる、それらに遅れることなく、自分も剣を構えていた。


 それは、森の中からその姿を見せたにもかかわらず、草を踏む音、枝を引っかける音などの一切を立てず、静かに俺たちの前に現れた。


 ――虎。


 それは不吉な言葉だ、一昨日の夜もなるべくなら聞きたくはなかった。しかしそれがこうして事実であったのならば、心構えができていた分、話を先に聞いていたことは幸運なのかもしれない。


 それでもその大きさは、頭に思い描いていたよりも、さらに大きいように思えた。


「後ろへ」


 ティラガが全員をその背に庇うように、一歩前に出る。


 ――さすが大陸一の勇者を自分で言うだけのことはある。


 この男はその頭の中に、どれほどの敵を思い描いていたのか、今目の前にいるそれは、想像と比べて強そうなのか、そうでもないのか。


「だがまあ、お前ばっかりって言うのもな」


 自分一人では、あのようなものと戦えば、ひとたまりもない。立ち向かおうとも思わず、無様に逃げて泣き叫んで、それから抵抗する間もなく、たちまち餌にされてしまうだろう。


 しかしこいつらの前では、そんな醜態は晒せない。


 それどころか、こいつらと一緒ならば、おのれをそれほど奮い立たせなくても、この程度の困難ならば自然と立ち向かえる勇気が湧いてくるのだった。


 この程度、と心の中で侮ったのを理解したわけでもないだろうが、ぐるる、と虎は威嚇の声を上げた。


 ――去れ。


 そう思った、それがお互いにとって一番いい。しかしそうはならないことも、同時に悟った。その目はこちらが獲物であるかどうかを測っているわけではない、すでに獲物と思い定めたうえで、単にこちらの隙を窺っているだけだった。


 相手は所詮畜生だ、こいつの目の前にあるのは、自らの命を奪う五本の剣だということも理解はできない。


 虎が何をどう勝機と判断したのかはわからない、しかし戦闘は突然に始まった。


 ゴオオオオオオオオオオ!!!


 暴風を思わせるような咆哮とともに四肢を跳躍させ、彼我の距離は一瞬にしてなくなった。飛び掛かる虎、それを真っ向から迎え撃つティラガ、その爪と大剣とがまともに激突した。


「がっ!」


 ティラガもそれまで寸毫たりとも集中を切らせてはいない、それは充分に溜めた一撃ではあったが、それでも討ち取ることは敵わず、単純な力ではやはり虎の方に分があった。押し負けたように数歩を後退する。


 同時に俺たちも虎を取り囲む形で散っている。


「だああッ!」


 背中側から自分で斬り込む、尻に近いところに打ち込んだそれは、頑丈な毛皮に阻まれ、打撃とはなっても、斬撃とはならなかった。


「硬ってえ!」


 むろん岩や木のような硬さではないが、俺の攻撃は皮膚の表面をわずかに切り裂いただけに過ぎなかった。虎はぎゅおんと体をねじり、邪魔者を追い払うかのようにこちらに爪を伸ばしてくる。


「っぶねッ!」


 それを剣で受け止める。しかし膂力の違いは歴然だ、正面からでなく、軌道を逸らすような形であったにも関わらず、俺の体は大きく持っていかれ、背中を見せるような体勢になってしまう。


 しかしそのまま俺を見殺しにするような仲間たちではない、早くも体勢を立て直したティラガが、左右のディデューンとイルミナが、同時に攻撃を加える。


 しかも、俺の攻撃が通じなかったことも見て取っている、それらのすべては、斬撃ではなく、刺突だ。


「しゃあああ!」

「むんっ!」

「せいっ!」


 三者三様の気合とともにねじ込まれたそれらは、命を奪うことまではできなくても、負傷させるには充分だった。虎の急所がどこかまではわからないが、効果があるだろうと思われる箇所にそれぞれ突き刺さった。


 ガアアアアアアアア!!!


 苦痛の叫びを上げながら、虎がその身をよじらせる、それも恐るべき力でだ。下手をすれば、体に打ち込んだ剣身を持っていかれる。だが俺の味方には、そんなへまをするような奴はいない。


 ――……俺なら持っていかれてたかもな。


 畜生でも不利は悟るか、それとも本能か、僅かばかり地面をのたうち回った後に殺気は掻き消え、そこにあるのは逃走の意思だけになる。


 俺とイルミナの間を抜けて、虎は弱々しく跳ねる、それでも常人には対抗できない勢いだ、それを遮るような真似はしない、このまま逃げるに任せようと思った。


 ――ちっ!


 しかしその先には、立ち木に繋がれたままのブーランがいた。餌にするつもりでもないだろうが、あのままでは逃げる駄賃に一撃ぐらいは食らう、あの爪に引っかけられれば、驢馬ならば致命傷にもなりかねない。


「させるか!」


 虎の後ろを追いすがる、


 このままむざとやらせたら、パーオさんにもブーランにも申し訳が立たない。


「ああああああッッッ!!!」


 飛び込みざまに繰り出した刺突は、間一髪だったのだろう。


 俺の剣は虎の肛門の横から入り、そのままずぶずぶと柄までめり込んだ。


 いかに猛獣とはいえど、体表と筋肉までは強靭ではあっても、その体内まではそれほどの耐久力は持ち合わせてはいなかったようだ。


 さすがにこれは致命傷となった。


 口と、剣を抜いた尻から、無限にあるかとも思うような鮮血を吹き出させながら、それでもしばらく断末魔の足掻きを行った虎は、やがて永遠に動かなくなった。


「……派手な景気づけになっちまった」


 いくらなんでも、俺の人生でこんな武張ったイベントがあるとは思ってもみなかった。


「くそ、虎殺しの名をウィラードに持っていかれた」


 ティラガが文句をたれるが、悪いがそんな名前を名乗る気はないからな。


 ――そもそも俺一人でこんなことができるわけじゃなし。


 それにしても、こいつも、もっと近場で出てくれりゃあ良かったのに。


 この毛皮は、売ればかなりの金額がつくだろう、しかしこんな場所では、皮を剥いで持っていくこともできはしない。


 などと考えている俺は、やはりケチで業突く張りなのだろうか。


 エンダース越えは、まだ半分に達したところだった。

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