第四十九話 落第?


「やあ、しばらくだったね、ウィラード。元気にしてたかい?」

「ご無沙汰してました。お蔭さまで、健やかにはさせていただいておりました」

「うんうん、それは何よりだよ」


 研究室に足を踏み入れた俺を出迎えたのは、それなりに美形であるにもかかわらず、二十代までの若い期間を学問に費やして結婚を棒に振った、いささか残念気味の三十過ぎの女性だった。ちなみにこのご時世、女性が三十を過ぎてから、誰かのところに嫁に行くようなことはまずない。


「……君、何か失礼なことを考えていないかい? おもに結婚のこととか」

「……いえ、特には何も」


 名前はミールマリカ・スファルツァ。王立大学院アカデミーでもあまり多くない女性の教授で、その中では最年少、休学する前には、俺の直接の担当教官でもあった人だ。少し変わった人だが、王立大学院アカデミーにいる人間は、学生も教師もほとんどがどこか変わっているので、特筆するにはあたらない。


 この人自身の専門は民政、教育で、俺の専門とは少し離れてはいるのだが、この一年の傭兵生活で、俺がしてきたことは、この人から多くの影響を受けていた。心の中で恩師と呼べる一人には数えている。




 王立大学院アカデミー


 改めて言うが、大陸中最高の権威を誇る、学問の府であり、高級官僚、技術官僚の養成機関でもある。ここの卒業生で、現在大陸各国の要職にある者は多く、大臣級はもとより、人臣最高の地位に登りつめた人物もかなりの数に及ぶ。


 俺もそれらに続くために、去年まではここで勉学に励んでいたのだ。今ももちろんその気持ちが薄れたわけではないが、二年と区切ったはずの休学期間も半分を過ぎて、予期せぬ多くのしがらみがこの身に憑りついている。それらをどうにかしてしまわないことには、簡単に学生には戻れなくなってしまっていた。


 ビムラを出発しておよそ一月、一年前に通った道を、逆に辿り、俺はまた再びここに帰ってきていた。


 何のために、といえば、学生には戻れなくても、あわよくば強引にでも卒業するために、だった。むろん今の俺は休学中の身で、ここ一年間は授業にも出ていない。だが、ここを卒業できるかどうかは、出席や試験がどうのよりも、ひとえに研究の実績がすべてになる。


 その採点は厳しいが、ここを休学するときにミールマリカ先生から言われた、


『戻ってきたら傭兵制の現状と展望でレポートを書きなさい、出来が良かったらそれで卒業にしてあげる』


 との言葉に一縷の望みをかけて、二〇〇枚にも及ぶ論文を書き上げてきていたのだ。出立前の不眠不休に近い忙しさの半分は、これを書き上げることに費やしていた。在学中に卒業生の論文はいくつも見てきたが、俺の論文はそれらに比べて優れているとは言えないものの、おそらくは誰もしていないような実地研修を基にしたその出来栄えは、決して劣ってもいないと思えるようには仕上げてきている。


 つまり今日は、俺の卒業試験に近いものなのだった。


「君のレポートは読ませてもらったよ」


 それは、俺がビムラを発つ以前に、すでに送ってあり、無事に届いていて彼女の手元にあった。これで卒業できなければ、俺たちのこれからの旅は、不可能になるとまでは言えないものの、さらに困難なものになることは、間違いなかった。


「ありがとうございます」

「教官たちの間でも評判になっている」


 ――……どっちだよ。


 そんな不安な言い方をされても心配になるだけなのだが。


 いい評判なら文句はないが、悪い評判では困るのだ。俺が提出したそれは、日記や感想文ではなく、きちんと学術論文の体裁にはなっているが、俺が現実に体験したことだ。決して的外れなものではないとは言い切れる。しかし、教官たちは、基本王立大学院アカデミーに閉じこもって学問ばかりしているわけで、傭兵の実態がこれほどまでに馬鹿であったということは、彼らの想像を超えているのかもしれない。だとすると、逆に現実味のないものとして捉えられている可能性もある。


「それでひとつ訊きたいんだが」


 先生は、真剣な表情になった。


「……何でしょう」

「君はあのレポートの内容を、本当に実行したのかい?」

「……しましたが、それが」

「わはははははは! したのか! あんなことを本当にやったのか! うはははははは!」


 先生は突然、弾かれたように大爆笑し、それから、


「きみはじつにばかだな」


 と、まじめくさった顔に戻って言った、というより、思いっきり馬鹿にされた。


「わはははははは。いやあ、若いというのは恐ろしいな。私なんかはあんなこと、思いついても怖くて絶対に実行には移せない」


 ――……内容の信憑性じゃなくて、そっちの方かよ……。あと、あんたも若くないけど、それほど年齢いってるわけでもないぞ。


 ただまあ、俺の馬鹿さ加減を笑いたくなる気持ちも、わからないではない。俺が一年前に戻ったとして、同じことをするかと問われれば、この人の言うように、絶対にやらない。若いというのは恐ろしいとは、全く同感で、すなわちそういうことだ。


 ……しかしここにもソムデンみたいな奴がいるとは。


 というより、ある程度頭が良くて、少し経験を積んだ人間ならば、あんなことをすればドツボにはまるというようなことは、自明のことだったのかもしれない。そういう人たちにとってみれば、俺のしてきたことは、わかりきった結果を超越してきたということで、なるほど興味深いことではあるのだろう。


 ――興味本位で大笑いされる方が、自分の利益を絡めながら背中を押してくるような奴よりは、まだましか。


「……それで評価の方は、どうなのでしょうか」


 それだけ笑わせて差し上げたのだから、こちらにもある程度還元してもらってもいいはずだ、さもなければ命を賭けた甲斐がない。


「評価かい、現状の分析、問題の把握、仮説、解決方法、実践結果、さらに問題点の洗い直し、どれもよくできている。何より、各方面との軋轢を実際に体験してみたというのが、実にいい、あははははは」

「でしたら――」

「しかしね、あれは君――」


 続く言葉は、自分でもあたりまえに気づいていた、俺の論文の最大の欠点を指摘するものだった。


「未完成じゃないか。あれでは卒業しようとは、厚かましいにもほどがある」

「それは――」

「わかるよ、あの続きは卒業してからでないと書くことができない、そう言いたいんだろう」

「……その通りです」


 俺が論文に書くことができたのは、どれほど詳細であったとしても、これまでのことだけだった。これからのことは、わずかの人間が知るだけで、この段階で書き記すわけにはいかない。そしてその部分を抜きにして、さらに将来を見通すことなどは、まだ不可能だった。


 その欠点は、やはり見逃されるはずもなかった。こんなことを見落とすようでは、ミールマリカ先生に教官の資格はないだろう。


「ま、内容を見れば、君が今現在困り果てているのもわかるんだけどね、それでも君だけを特別扱いすることはできない。君のレポートは内容の出来不出来とは関係なく、あくまで未完成品だ、ゆえに評価には値しない、従って卒業させることもできない」

「…………ぐ」


 それは残念な落第の宣告だった。


 再提出をするにも、このままでは中途半端なものしか完成させる自信はない、それではやはり卒業は覚束ないだろう。


 泣き落としで温情に縋りつく、学問をする身の態度としては失格には違いないが、ここで何としてでも卒業を勝ち取ってしまおうとも考えていた。しかしその期待も早々と封じられてしまった。


「……とはいうものの、私だけでなく、他の教官たちも、あのレポートは完成させてほしい、続きを読んでみたいと、そう思っていることも間違いはないのだ」


 先生は机の上に乱雑に積まれたいくつかの書類の中から、俺に一通の封筒を差し出した。


「だからこんなものを用意した、卒業見込証明書だ」


 ――何それ?


 その名前からして、非常に貰いやすそうな物であるような気がする。ちょっと手続きをすれば、簡単に発行してもらえるような。


「一年間の期限付きだが、これがあれば、その間なら、卒業生と同じ待遇とはいかないまでも、大抵の国と、それから王立大学院アカデミーの卒業生たちからも、相応の便宜を図ってもらえるだろう」

「そんなもんがあんのかよ!」


 思わず素に戻ってしまった。


 この人の前でこうなってしまったことは何回もあり、今さら驚かれたりはしないのだが、失礼なことは失礼だ。


「ああ、君は仕官運動に入る前に休学したから、この証明書の存在を知らなかったのか、だからそんなに焦ってこれだけの枚数のレポートを書いてきたってわけか。ばかだねえ、じつにばかだね、うはははははは」

「人を指さして笑うな!」


 失礼なことは失礼なのだが。


 ここの学生たちは、卒業の目処がついたら、各々の仕官先を決める活動に入る。放っておいてもいくらでも勧誘はあるのだが、各地を回って、仕官候補先の様子を自分の目で見てみようとする者も多い。ならば通行や宿泊、身の安全を守るために、身分を証明するそのような書類があったところで、何もおかしいことはなかった。


「くそう……こんなもんがあると知っていれば、もっと楽ができたのに……」

「何を言ってるんだ、休学中の君に、この証明書を発行するだけでも、それなりの厚意なんだよ。君の努力に免じてわざわざ用意しておいてあげたんだから、そこは感謝してもらってもいいんじゃないかなあ。じゃないとこれはあげないよ」

「……ぬぐ、ありがとう……ございます」


 俺は伏し拝んで、その書類をありがたく頂戴した。


 ――これで何とかなった、のか?


 この書類にどれほどの御利益があるかはまだわからないが、何もないよりははるかにましだろう。いくらなんでも、手ぶらであれほどのものは、どこの関所も国境も通せない。ひとつふたつなら力ずくでぶち破ることもアリだが、いくつもは途中で力尽きる。


「しかし君、よくこの続きを書く気になったね」

「おっしゃる意味がわかりませんが」

「いや、あのレポートから察するに、君の所へはかなりいい条件で懐柔の話が行ったんじゃないかと思ってね、それこそ途中で投げ出してもおつりがくるぐらいのさ」


 ――よくおわかりで。


 だが俺はあくまで傭兵制度についての論文を提出したのであり、俺の個人的な体験談まで書いてはいなかった。まあこの人のことだから、前後関係を考えれば、その程度はどうやらお見通しのようだった。


「……たいしたものじゃありませんでしたよ」


 負け惜しみだ。セリカの顔を思いだして、少しだけチクリと心が痛んだ。


 それでも、投げだせないものは大きかった。それに、あれほどの女性を手に入れるならば、あんな誰かにあてがわれるような方法ではなく、もっと堂々とした手段でなければ、罰があたる。


「何だい何だい、いい顔するようになったじゃないか。こりゃ女だな、しかも相当いいお嬢さんを持ってこられたと見た」

「ちくしょう! 何でわかるんだ!」


 ――人の切ない思い出に余計な茶々を入れんでくれ。


 うははははは、とひとしきり笑ったのち、ミールマリカ先生は再び質問を続けた。


「それで君、この次は何をするつもりなんだい? どうせまた、めちゃくちゃなことなんだろう?」

「それは、まだ言えません」


 ここからどこかに漏れるとも思わないが、先は長い、用心するに越したことはない。


「まああれだけのレポートを書いてきた後だ、今度はそれがめちゃくちゃだと判って敢えて実行するんだろう?」


 その通りだった。かつては無意識にやってしまったことを、今度は意識的にする。それをすれば、今以上に敵も作るし、危険視もされる。だが同時に、容易に手出しもされなくなる。どこかに上手に売り込めば、均衡状態を作り出せるだろう。俺たちの活路は、そこにあるのだ。


「怖いもの知らずの若者が、恐怖を自覚して、なおそれを乗り越えようとする、立派なもんじゃないか。王立大学院アカデミーの学生はそうでなくちゃいけない、君は本校の誇りだよ」

「……光栄です」


 一応褒められているのだろうが、単にふざけているだけのようにも思える。


「君が志半ばにして斃れたとしても、君の業績は次代への礎となる、安心して進みなさい」

「安心できるか!」


 しかしここにきて、俺の計画に必要なピースは、全て埋まったことになる。完成してもいまだいびつな地図ではあるが、これ以上のものはもう望めない。


 あとはもう、これを信じて進むより、他に道はない。

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