第四十五話 人妻の優しい誘惑



 マイアさんは、俺とソムデンが向かい合って座っていたテーブルの横に、仁王立ち、という感じで、胸を張って立った。マイアさんはやや小柄ではあるが、位置関係上、見上げる視線になり、変に気後れがしてしまっている。


「……頭をはたいた理由を、教えてほしいんだが」

「それは、ウィラードくんがろくでもないことを考えていたからです」

「ろくでもないことって、それに何考えてたかなんて、わかんねえだろうが」

「わかります。怖い顔になってたからね」


 ――ちっ、顔に出てたか。


 それでも、考えている内容まではわからないと思うのだが。


「どうせ、もう王立大学院アカデミーに戻れない、とか考えてたんでしょう」

「……む」


 ――何でわかんだよ。


 そこまで決断したわけではないが、ずいぶん近い所まで迫られていた。この人は仕事ぶりも優秀だが、なかなかに鋭い。そうでもないと、ソムデンの奥さんなんか務まらないのだろうか。


 しかし、ビムラ中央会議を相手に、本気で喧嘩を売るとなると、一筋縄でいくわけがない。それなりの犠牲はどうしたって必要になる。それともこの人は、そんな喧嘩なんかやめておけ、とでも言いたいのか。


 ……それより、この知り合いのお姉さんに叱られている雰囲気は、どうにかならないだろうか。


 マイアさんは、ソムデンの前に置かれていた飲みさしのコーヒーを、腰に手を当てて、ぐいっと飲み干した。


 ……行儀悪いな。


 そのふるまいは、いっそ爽やかさすら感じさせるのだが、どう考えてもメイドのやることではなく、もはや完全に仕事の体勢ではなくなっている。


「ウィラードくんのことは、ずっと見てますから、ぶつくさ文句を言いながらも、何でも自分の責任で抱え込んじゃう頑張り屋さんなのは知っています」


 だから、いかにも子供の頃から知ってます、みたいな言い方すんな。ここに来てからまだ一年も経ってねえ。しかも頑張り屋さんて、完全に子供扱いじゃねえか。


「そういうウィラードくんを、ウチは夫婦揃って応援しているのです」

「……そうなの?」

「ウチでは夫婦の会話に、ウィラードくんの話題がよく出てきます」

「はあ!?」


 あまり考えてもいなかった言葉に、思わずマイアさんとソムデンの顔を、交互に見比べた。ソムデンは、その通りですよ、とでも言いたそうに、涼し気な表情をしているが、内心で何を考えているかはわかったものではない。


「まあソムデンくんはこんなうさんくさい人だからね、ウィラードくんが警戒してるのも知ってるけど、そこは信じてあげてほしいな」

「別にうさんくさくはありません。それに私は公私混同はしませんから」

「こんなこと言ってるけど、前の賞金首の件も、処刑人ハンターの皆さんに、ウィラードくんの安全はくれぐれも、ってお願いしてたんだけどね」

「……危機一髪だったけどな」


 しかし、ソムデン自身に言われたのならまだしも、マイアさんの口調には、ちゃんと真実がこもっているように思える。密かに警護をつけていてくれたのは知っているが、処刑人ハンターたちも適当にではなく、本気で守っていてくれたのかもしれない。


 ――感謝、しなきゃいけねえのかな。


 それなら、懸賞金を掻っ攫ってやった、などと嬉し気に思っていたのはガキっぽい自己満足に過ぎない、ということになる、実に汗顔の至りだ。


「お姉さんがそんなウィラードくんに言いたいのはですね、ウィラードくんは、もっと欲張って、それからいい加減になっちゃってもいいんじゃないかな、ってことなのです」

「もっと、って。これまでも結構欲張ってきたような気がするんだが」


 常に自分たちの利益を念頭に置いてきたわけだし、半分は故意に、もう半分は知らず知らずのうちに、他者の権益を脅かしてしまっている。その結果が、ビムラ政府に最大限に危険視された、今だ。


「でもね、それでウィラードくん自身、何か得した?」

「……う。……してない」


 よくよく振り返ってみれば、マイアさんの言う通りなのだった。団としては儲かっているとはいえ、俺自身の給料はそれほど増やしているわけでもない。金銭のことを考えなければ、俺の望む利益からは、むしろ遠ざかっているともいえた。


「でしょ。それはウィラードくんが自分の得じゃなくて、みんなの利益を考えてるからだよ。そんな無欲なウィラードくんが仕切ってるから、ここに来る見習いの子たちを見ても、町で山猫さんとこの傭兵さんたちを見ても、ずいぶんちゃんとしてきて、変わってきてるな、と思うのですよ。これはやっぱり、ウィラードくんのお蔭で、それってすごいことだよ」

「……変わって、きてるか?」


 見習いどものことはともかく、それ以外の連中については、相変わらずガラの悪いチンピラ集団のようにしか思えないのだが。


「きてるよ! ウィラードくんからしたら、あんまり変わってないように思えるかもしれないけれど、お姉さんも何年も傭兵さんたちを見てきているわけだから、そりゃあもう、全然違うわけですよ。何というか、変なことをして、今の生活を手放したくない、って思ってきてるんじゃないのかな?」


 マイアさんは、そのような分析をしてみせた。もしそうであるのなら、俺にとってもありがたい話、ではあった。


「さっきソムデンくんは、この後ウィラードくんの真似をする人が出てくる、って言ってたけど、誰がやったとしても、こんな風にはならなくて、もっと殺伐としたものになるんじゃないかな。だからね、お姉さんとしてはこの先、時代の変化が避けられないとしたら、他の誰かじゃなくて、このままウィラードくんが続けるのが、一番いいと思うのです」


 ――そう、ですか。


 こんな視点での評価は、これまでにされたことはなかった。しかも今までに、見知ってはいたが、話したこともないような人からのそれだ。そんなふうに見られていたことは、嬉しいとも思うし、気恥ずかしいとも思う。しかしそのことは、今後続けていけるかどうかもわからない瀬戸際にある。


「もちろん、先頭切って走っていくわけだから、その辺はやっぱ危険なわけで、無理強いもできないんだけど」

「……犠牲だって出るしな」

「あのね、ウィラードくん、そこはそんな深刻に考えなくてもいいと思うんだよ」

「何でだよ?」

「嫌がってる人を、無理やり付き合わせるのはよくないけど、そうでないなら、それがどんな結果になったところで、ウィラードくんが責任を感じることはないんだよ。ウィラードくんは頭がいいから、他の人が見えないようなずっと先を見通してて、それらのいろんな可能性が、全部自分の責任だと思うのかもしれないけれど、世の中っていうのは、もっといい加減なもんなんだよ」

「そりゃ無責任ってもんじゃ――」

「そんな因果関係を逆算するみたいにして、責任を考えるのは、ウィラードくんが、自分で勝手にそうしてるだけ。王立大学院アカデミーに戻らないとか、命を賭けるとか、そんなことまでして、責任なんか取らなくてもいいの。みんな子供じゃないんだから、ウィラードくんがどこまでも面倒みてあげるなんて、それって逆に傲慢なのかもしれないよ」


 ――思い当たる節が、ないでもない。


 他の連中を、馬鹿だと思って、全部を自分で背負いこんできた。今となっては反省もしているが、それで何度か痛い目も見ている。マイアさんの目には、俺がそうして反省し、成長もしているように、他の連中もまた、成長しているようにも映っているのか。


「……結局、何が言いたいんだよ」

「そんな怖い顔して言わない」

「……う。じゃあ、俺はどうすればいいんだ」

「ウィラードくんはね、自分のことだけを考えて、やりたいようにやればいいんだよ。ウィラードくんなら、ちょっとぐらい好き放題したって、そんな悪いことにはならないように思えるからね。でもね、全てを投げうつ必要なんかないの。やりたいようにやって、しっちゃかめっちゃかになって打つ手がなくなっても、それこそ王立大学院アカデミーに逃げちゃえばいいだけなんだから」

「……いいのかよ、それで」

「いいんです。ウィラードくんが頑張るんなら、結果がダメでも、お姉さんは許します」


 ――マイアさんに許されてもなあ。


 そうは思うのだが、心は、救われたような気もする。逃げてもいい、そう思い定めることができるのならば、逃げられなくてもいいと、逆にそうも思える。


 あるいは、現状にはとりあえず立ち向かってみて、逃げるか逃げないかの決断は、先延ばしにしたってもいいのだ。


「ソムデンくんは、ウィラードくんを追い詰めて、開き直らせようとしてたみたいだけど、そんなやり方ばっかしてるから、ウィラードくんに嫌がられちゃうんだよ」

「あらら、わかっちゃいますか」

「わかるよ、君の奥さんだからね」


 ソムデンが思っていたことを、ある程度はマイアさんが代弁してくれた、ということになるのだろう。それは困ったことに、ソムデン自身に言われるよりも、はるかに受け入れやすくなってしまっていた。


「ですが、そういうことです。私としても、この先を歩くウィラードさんが見てみたいと、そう思っています。ただマイアも言った通り、強制はできません、何だかんだ言っても、危ない道ですからね、それに、現状での打開策も、私には見つかりません。そんなところを徒手空拳で進んでくださいと言うのは、さすがに無責任ですからね」


 ――打開策、ね。


 あるかないかと問われれば、それはあるのだ。


 というか、あるからこそ、俺はこうして悩んでいたのだ。それがなければ、店じまいをして王立大学院アカデミーに戻ることだけは、とっくに確定している、あとは縁談を受け入れるか受け入れないか、問題はそこだけだった。


「……まあ、話としては、そう難しくはねえんだ」


 結局のところ、力があればそれでいいのだ。


 ビムラを全て敵に回して勝てるほどの力、そこまでは必要ない。


 ビムラ独立軍をして、山猫傭兵団ウチを相手に戦えば、勝ったところで被害は大きい、できるならば戦いたくない、そう思わせるだけの力があればいいのだ。そうすればビムラ中央会議とも、互いに妥協点を探ることができるだろう。


 究極的には、戦いたくないと思わせることができるならば、実際に力すら必要ない、それは張りぼてでも構わないのだ。


「何か、策がおありですか」

「ある、とっておきのが」


 それは、いずれ俺がどこかの国に仕えることになった時のために、温めていたものだった。


 このような場所で小出しで披露して、後で誰かに大規模に真似をされることにでもなったならば、痛恨の極みではあるが、そんなあるかどうかわからないような未来の話よりも、何とかしなければならないのは、今だった。


「だが、金が足りねえ。時間も足りねえ」


 その策を実行に移すためには、その両方が必要だった。今手持ちの分だけでも、できないことではないが、それでは俺が必要とする規模には達しない、先々はかなり分の悪い博打になる。


 ただ、金については、あと数ヶ月の猶予さえ与えられれば、最低限必要なところまでは、手に入れられるはずだ。


「ふむ、時間稼ぎができればいいのですか?」

「それもあるし、金と時間が用意できても、他にまだまだ準備が必要なことは残ってる」

「詳しい話を聞かせてもらってもよろしいですか?」


 これまでならば、ここでソムデンに褌を預けるような真似は、恐ろしくてできなかった。しかし今なら、背に腹は代えられないという以外の意味で、それができるようにはなっていた。




 盤面をひっくり返してしまうための、極秘の打ち合わせは、深夜まで続いた。もちろんこんなことは一度で終わるわけもなく、伯父貴の了解や、物資の手配など、この先詰めなくてはならないことが、山の様に残っている。


 それでも、先ほどまでの悶々と悩む気持ちはなくなっていた。


 帰りがけにまた、マイアさんから声をかけられた。


「あ、ちょっと待って」

「何だよ」

「さっき言い忘れてたんだけどね、セリカ様のことはね、最終的にウィラードくんが分捕ることになっちゃってもいいと思うんだよ」

「いいわけあるか」

「そんなことないよ、ウィラードくんはいい男だからね、ビムラの歌姫様でもパンジャリーのお姫様でも、全然釣り合いがとれると思うよ、ううん、そんぐらいじゃなきゃ、到底釣り合いがとれないんじゃないかな」

「やめてくれ、買いかぶりだ」

「お姉さんも独身なら放っとかなかったんだけどね、残念ながらもうソムデンくんのものなのでした。……あ、でも一回ぐらいならいいかも」

「よくありませんよ、と言いたいところですが、それでウィラードさんに兄弟だと思ってもらえるのでしたら、一回ぐらいなら構わないかも知れませんね」

「よくねえよ!」


 これを少しだけ魅力的な提案だと思ってしまったことは、一生の不覚かもしれなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る