足下にご注意ください
時間の感覚が狂っているせいなのか、あるいは今の状況が幻覚の影響でありそのせいなのか、それとも実は本当に時間が停止しているのか、さっきから生理的機能に関するものが微塵も起きてこない。つまり……喉が渇かない。腹が減らない。トイレに行こうという気も起きない。
けど、あまりに間が持たない。エスカレーターのステップに腰掛けて天井を眺めても、どれだけ経とうが同じベージュの天井に一定間隔で蛍光灯が設置されているだけだ。
時間を潰すように、カバンからペットボトルの麦茶を取り出し、飲む。
「あんた、何持ってんのよ」
「ん……麦茶だけど?」
「それ、コンビニが自社ブランドで出してる安いやつ?社会人でもそういうの買う人いるんだ。缶コーヒーでも買えばいいのに」
「……馬鹿にしてんの?安い給料で本代捻出するためなんだから仕方ねえだろ。
それに缶コーヒーとかさ、余計に喉渇かねえか?」
「あんたこそ馬鹿にしてる?」
「してねえよ。そっちが絡んできたんじゃねえか」
「……ふん」
また、すねた。
実際のところ、仕方無いとは思う。合コンなら相手を気遣いながらも楽しく話せるだろう。けど現状は一対一、それもエスカレーターのステップに座り込み、無限に続く上昇を続けているわけだ。さらに彼女は最初、パニックに陥ったせいで俺に食って掛かった。それを今さらにこやかに振る舞うのも不自然な話だ。こっちだっていきなり『さっきは……ごめんね?』なんてデレて来られても応対に困る。
しかし。
「……ねえ、ちょっと分けてよ」
「何を?」
「だからそのお茶。あたしも喉渇いたわけじゃないけどさ、何にも口に入れないまんまじゃなんか気持ち悪いよ」
「いいのか?間接キッスだぞ」
「小学生じゃあるまいし。緊急事態だしそんなの気にしないわよ」
「言ってみただけだって。キャップ、落とすなよ。下まで落としたら拾えそうに無いし」
「分かってるわよ」
自分の肩越しに、背後の彼女にペットボトルを差し出す。
彼女はひと口麦茶を口に含んだ(らしい)後、キャップを締め直して俺の方に返した。
「ありがと。そう不味くは無いね」
すこし小さな声の、感謝の言葉とともに。
常に喧嘩腰というのも疲れるが、食って掛かるのも、今の状況では大事なコミュニケーションなのだ。特に彼女の方を見ることが出来ない、俺にとっては。
スカートの中を覗いたとか言われるのは面倒なので、無理に後ろを向くことはない。けれどそうなると、俺の視界にあるものはエスカレーターと壁と天井、あとはエスカレーターの底にある深い闇だけ。多分一人でこの状況に陥ったら、もうとっくに発狂していたと思う。
そう考えると、案外彼女は俺に気を遣って声をかけてくれるのかも知れない。そんな風に考えると、彼女の言動にも愛情が含まれているように感じるんだから人間ってのは現金なもんだ。
ぽこん。肩に何かが当たった。彼女が俺の肩を軽く蹴ったらしい。ぽこん、ぽこん。二度、三度。
さっきの思いつきから、彼女の行動に対する評価は甘くなっている。俺を一人にしないようにちょっかいを出してくれてるんだろう。けど、ここは迷惑そうに応えておこう。
「何だよ」
「何でもない」
「何でも無いなら蹴ったりすんなよな」
「……きもっ。何あんた、彼女に言うような甘い声になってんのよ」
……あれ、そんなに俺の声、甘くなってた?
時間を調べる術は無い。居酒屋で同僚と飲んでいる時の時間経過をイメージして、大体の体感時間を計りつつ、ひたすら時間の経過を待つ。座り込んでからざっと三時間ってとこか。
暫く前から、彼女の声が聞こえなくなっていた。時間感覚が乱れてるのか、それとも寝ちまったか。
「あの……さ…あんた……」
彼女が、妙に間延びした口調になった。気になって彼女の方を振り返る。その瞬間。
ぐらり。彼女の上体が揺らぐ。危ない、俺が避けても彼女はこの無限のエスカレーターを転げ落ちる――
「うおっ!?」
俺は悲鳴のような声を上げながら、彼女の体を支える。何とか支えきった。不自然な体勢で、片手で手すりをがっちり掴み、もう一方の腕で彼女の脇を抱え込んでいる。そろり、そろりと彼女の体をステップに戻し、もう一度彼女をステップに座らせる。
彼女に何が起こった?考えを巡らせた時、気付いた。
視界が、うっすらと白く濁っている。まるで、もやがかかったように。
何だ?一瞬の混乱。そして――ぐるり。見上げた、真っ直ぐ直線に延びるエスカレーターが、視界の中で回転した。いや、回転したのは、俺だ。さっきの彼女のように、体が大きく揺らいでいる。
何とか手すりにしがみつき、転落をなんとか避けた。しかし、なおも意識は遠ざかる。
だから、何なんだよ、これ……。
薄れる意識の中で、俺は彼女が落ちないよう、覆い被さるようにステップに身を――
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