周りに見えますのは

 彼女は……二十代中盤、いや前半か?スーツ姿ではあるが、運動部の高校生のような負けん気を感じる。いや、それは俺とこの状況に警戒心が高まっているせいなのかも知れないが。

「……何よ」

「……別に」

 全くもってつれない態度だ。たった二人きりでこんな異常事態に放り込まれてるんだから、ちょっとくらい協力的な態度でも見せてくれりゃいいのに。

 そして、このエスカレーター。

 上の方に目をやると、途中までは駅の階段らしく蛍光灯がエスカレーターを照らしている。しかしさらに上の方になると……白くもやがかかったようにかすみ、上端がどうなっているかは見えない。

 一方で下の方に目を向ける。こちらも途中まではごく普通にある、駅の階段の様相を呈している。だが深い部分は――単に下の方、ではない。深いと表現した方が良いだろう――暗く、いや黒く闇が沈んでいる。まるで夜の海の底を覗いているようだ。

 俺の頭よりも少し高さのある、隣にある階段との衝立の向こうは見えない。

 そうやって彼女がふてくされ、俺がなけなしの分析力で現状を把握している間も――エスカレーターは、昇り続けている。


 やれやれ。日常よろしくエスカレーターの進行方向に向かい、ステップに立っているのも疲れてきた。下方にくるりと体を向け直し、ステップにどっしりと腰を落とす。

「ちょ、あんた何やってんの?エスカレーターに座るとか何考えてんのよ」

「どうせ終点まではしばらく着かないんだ。他の客もいねえし、これくらい良いだろ。あんたも疲れたら座りゃいいんじゃねえの?あ、ステップの端は指詰めるかも知れねえから気ぃ付けろよ」

 彼女も不承不承、小さなバッグからタオルハンカチを取り出してステップに敷き、その上に座った。

「……覗かないでよ!」

「覗くかよ」

 ……こいつ、ちょっと苦手だな。


「……で?」

 ふいに、彼女が俺に声をかけてきた。

「……何が?」

「だから、何か分かったの?」

 何でいきなり喧嘩腰で詰問されてんだよ俺。

「俺達はたった二人でエスカレーターに乗っている。このエスカレーターは上も下も、乗り口も降り口も見えない。以上」

「………は?」

「だから、以上」

「以上って、そんなんじゃ何も分かってないのとおんなじじゃない!」

「当たり前だろうが。常軌を逸してるんだよ、この状況は」

「……ふん」

 ……すねやがった。


 俺に向かって怒鳴りまくるのを見てると普段からそういう奴なんじゃないかと思ってしまうが、よくよく考えればこんな異常な状況で普段通りの冷静な態度を取れというのも無理な話だ。エスカレーターで座り込む俺を見咎めたり常軌を逸した現状を何とか受け入れたり、多分普段は理性的な女の子なんだろう。

 一息つき、時間を確かめようとスマートフォンを取り出す。

「……ん?」

「どうしたのよ」

「……充電切れだな。時間が分からん」

 おかしい。会社でパソコンに繋いで充電しておいたはずなんだけど。

「ああ、そっか。電話で助け求めればいいんじゃん」

 彼女も携帯電話を取り出す。ガラケーのようだ。だが、彼女は携帯を見て凍り付いている。

「どうかした?」

「あたしも電池切れ。おっかしーな、会社で充電100パーセントにしてたはずなんだけど」

 充電したはずの携帯電話が2台とも充電切れ。気になることが出て来たので、彼女に聞いてみる。

「あのさ、音楽のプレーヤーとか持ってない?」

「何よいきなり。持ってるけど」

「充電は?」

「ばっちりしてあるよ。いつも家に帰るまで余裕で保つから今でも……あれ?電池切れしてる」

「やっぱりな」

 もう頭を抱えるしかない。


 現状がどうしようもないという前提の下に、彼女に説明をする。

 俺達の携帯電話が単に電池切れしたんじゃなく、電気製品がすべて動かなくなっているということ。

 おかげで俺達には時間の経過を知る術がないこと。

 もしこの空間を作り上げた人間がいるとしたら、電気製品を使えなくしているのもそいつであろうこと。

「出来るわけないじゃん、そんなこと」

「そんなこと言い出したらさ、このエスカレーター自体出来るわけ無いんだよ。

 普通のエスカレーターなんて長くても4フロア分くらい、それ以上のエスカレーターなんて自重で壊れちまうんだよ。

 1フロアの高さを5メートル、エスカレーターのステップの高さを20センチとしたら1フロア分の高さはエスカレーターなら25段だな。見てみろよ、上下に何段ある?」

「……数えたくもない。少なくとも駅ビルの吹き抜けとかよりもずっと高そうだけど」

 分かりやすいご意見で。まあ実際、数えたくないよな。無限に続いて見えるわけだし。

「普通のエスカレーターの速度は分速30メートル。傾斜角が30度として上に登る速度は毎分15メートルだな」

「ちょ、なんでそんなのが分かるのよ」

「三平方の定理。数学で習っただろ?」

「……そんなの覚えてるわけないじゃん」

 まあそうだよな。

「とにかく、1分間で俺等は15メートル空に向かって昇ってるわけだ。それも多分……数十分か数時間か。もう時間の感覚もはっきりしねえなあ。

 仮に1時間と仮定して、もう900メートルは昇ってることになるな」

「ちょ、ちょっと待って。駅ビルってそんな高かったっけ!?」

「高くないよな。けど実際俺等はそれくらいの時間、エスカレーターに運ばれてるわけだ。スカイツリーと東京タワーを重ねたくらいの高さだな」

「その例え、全然わかんない」

 自分でも思ったが、説明がこなれてないからって仕方ねえだろ。学者だのテレビのレポーターだのじゃないんだから。ふてくされる彼女の顔を見つめる義理もないので、目を明後日の方へ向けた。……壁しかないけど。


 現状把握が完了してしまった。これ以降は何をどう考えても空想の世界に入ってしまう。

 いわく、空間がループして繋がってしまっている。つまり俺達はエスカレーターの同じ部分を無限に何度も繰り返し昇ってるということだ。

 いわく、俺達は幻覚に陥っている。となると、お互いにとって相手が現実の存在かどうかも疑わしいと言うことになる。

 いわく、軌道エレベーターならぬ軌道エスカレーター。秘密裏に日本政府が開発したもので、このエスカレーターで衛星軌道上まで物資を……考えてて馬鹿らしくなってきた。

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