支払
雑居ビルを出るとすっかり夜だった。まあテレビ番組でおおまかな時間は分かっていたんだが。駅に向かおうと踏み出すと、
「あの、すいません」
遠慮がちな声が、ビルの陰から聞こえてきた。普通なら夜道で物陰からかけられる声なんて無視するに限る。だがその声の主に心当たりがあったので、声の主の方へ視線を送ると――予想通り。
「……埋木さん」
失踪した有名司会者その人だった。
「どうされてたんですか、今まで」
「いやあ、色々と転々としてまして。ようやく生活が落ち着いてきたもんで、ちょっと色々お礼やお詫びを、と思って」
気恥ずかしそうな笑みを浮かべつつ会釈する彼。
その服装は俺よりも酷い。何処かで拾ってきたとしか思えないようなジャージに身を包み、その上にボロボロのコートを羽織っている。これからの寒い時期が心配になりそうな軽装だが、何より気になるのはその軽装を突き抜けるように主張している、一年前と変わらず隆々としている厚い大胸筋だ。
「色々財産処分してたら勢い余って手持ち財産がほとんどゼロになっちゃいまして。住むところも失った状態です」
力なく笑う彼。だがその笑顔には、以前とは違う明るい表情が見て取れた。
しかしこの場合、俺は最も注意すべき事がある。
怨恨だ。
彼の生活や人生そのものを破壊した俺は、彼にとって恨みを持つに十分な存在の筈だ。この場で刺される可能性だって十分にある。それをそのまま仕方ないと受け入れるほどの善人じゃないが、彼の心情を考えれば彼がそうなってしまっても仕方ない。
「ああ、それでですね」
埋木氏がコートのポケットあたりをまさぐる。
「あれ……ああ、コートに穴が開いてたんだった。えーっと……これだこれ」
彼がポケットの中で、目的のものを探り当てた。
もし彼がナイフを突いてきたらどうする? 腕でガードしたり、かわして関節技を極めるような格闘技術は無い。どうにかして下半身や胴体に蹴りを入れるか。けど彼のビルドアップされた筋肉にそんな生半可な攻撃が効くだろうか。そのまま組み伏されて終わり、じゃないのか。押さえ込まれたまま頸動脈を狙われたら……。
そんなことを思い巡らせているうちに、彼は何かを握った手を差し出してきた。
ナイフでは無い。拳を見たところ、メリケンサックやスタンガンなど武器の類いが握り込まれているわけでもなさそうだ。その拳の先に見えるのは、数枚の紙切れ。
くしゃくしゃの万札が五枚。
「あの、少ないですけど、これ」
ぽかんと大口を開けてそれを見つめる俺に、彼は言葉を継いだ。
「あの……依頼料。最後の1ヶ月分、お支払いしてませんでしたよね? 少しですけど、取り敢えずお支払いできる分だけでもと」
欠片も邪気の無い表情で、彼は俺の顔を見つめてきた。
まさに無邪気という字面がぴったり合う、それでいて満ち足りた表情だ。あの晩、依頼を受けた時の顔に浮かんでいた迷いの表情がまるで嘘のようである。すべてを失って、普通の人間がこれだけ満足そうな笑顔を浮かべられるだろうか。俺にはきっと無理だと思う。
「すみません、今はあんまり収入が無いもんで。ギリギリの生活費抜いちゃうとこれだけしか……」
「いえ、良いんですよ別に。ところで……今はどうやって生活を?」
「はい、今はバイトをいくつか掛け持ちしてるんですけど。まあ生活パターンとか考えて配送業務メインとあとひとつふたつに絞ろうかと思ってます」
「天下の埋木氏が掛け持ちバイトですか……」
俺の言葉に、彼は照れくさそうに笑う。
「正直、最初のバイト面接前はそう思ってたんですよ。でもね、実際に面接受けてみたら全然顔ささないんですよこれが」
芸能人なら悔しそうな顔のひとつもしそうなタイミングで、彼は驚くほど嬉しそうに笑った。
「俺のことなんて日本人全員が知ってると思ってましたからねえ。それが面接してくれた三十歳くらいの社長が『おじさん、そんな歳になるまで何してたの?』とか聞いてくるんですよ。会社にはテレビを見る人がほとんどいなくて、俺の事なんて毛の先ほども知らない。俺が知ってたのはテレビの狭い世界なんだな、世界はその外にも広がってるんだなって痛感しましたよ」
普通の人間、普通の芸能人なら自分の知名度の低さに心を折っているところだと思う。だが埋木氏は芸能界の頂点のひとつを極めた人だ。彼にとって手の届かないところはある意味で芸能界の限界の向こうであり、未知の世界なんだろう。そこには恥も悔やみも無い、彼の目にはただただ希望が見えているんだと思う。
「あの結婚生活から解放して頂いて、さらにこんな世界までも見せて頂けるなんて。本当に貴方には感謝の気持ちしかありません。なのにこんな金額しかお支払い出来なくて……。後のお支払い、利子とかどうすれば良いでしょうか」
何処までも馬鹿が付くほどに真面目だ。あまりのことに俺もつられて微笑んだ。
「いえ、契約書には利子の項目は入れてませんでしたからね。将来的に全額お支払い頂けるなら、少しずつでも全然構いませんよ」
「そうですか、ありがとうございます。ではまた日を改めて」
ただただ喜びに満ちた満面の笑みを俺に向けて深くお辞儀をし、彼はそのまま夜の街へ消えていった。
「ふっ」
埋木氏から手渡された汚れた万札を見ていると、鼻息のような笑いがこみ上げる。
俺が破壊したつもりの運命が、人に幸せをもたらすだなんて。まさに噴飯ものだ。
受け取った金を返す事も考えた。代金として指定したものとは言え、これは「呪い」を成立させるためのものだったのだ。既に「呪い」は完成していて、俺が報酬としても過剰なこの金を受け取る理由も特にないのだから。
けれど。
俺はその金を受け取ることにした。来月、あるいは再来月、彼が数万を握りしめてやってきても、俺は恐らく受け取るつもりだ。
今の彼にとって、この支払いは今の自分自身が感じている安寧を自分自身で掴んだ、そう実感するための大切な儀式なんじゃないだろうか。そう思ったからだ。
さて、この金はどう使おう。
俺の生活費に充てるのは違う気がする。寄付するなんていうガラじゃない。パーッと遊ぶと言っても……。
そうだ。あの店だ。あの店しか無いだろう。
俺はふと思い立ち、埋木氏の万札を握り締めたまま繁華街へ向かった。
俺と埋木氏が初めて飲んだ、あの高級クラブへ。
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