カウントダウン
経理のデータを覗いてみよう
私の最近の仕事の中でも、今日の仕事はハードすぎた。
やばい。眠い。乗り過ごす。
帰りの電車の中だ。何とか疲れ切った身体を引きずって乗り込んだ電車で何とか座席をゲットしたことだけは今日の幸福だ。
隣のサラリーマンの肩に一瞬もたれかかってしまう。すぐに覚醒してそのリーマンの顔を見上げると、少し鼻の下が伸びている。こっちがガンを飛ばすと向こうも不機嫌そうな表情を見せた。この間、覚醒からほんの数秒間の攻防。
そりゃもたれ掛かったのはこっちの方だから自分に非があるのは分かってる。けど電車の中で居眠りした女の頭を肩に預けられたくらいでデレッとなる男を見るとイラッとしてガン飛ばしてしまうのは多分、私のせいじゃないだろう。
眠気をごまかすためにスマホを取り出し、コラム中心のニュースアプリを読もうとする。けど頭が芯から麻痺してるみたいな感覚。疲れが酷すぎて書いてある文字が全然頭に入ってこない。
いや、文字が頭に入ってこない原因はもうひとつ思い当たるのがあった。
仕事中に見た、いつもの現象の発展形だ。
「ねえ木村君。ダメだよそういうの」
始業から一時間。ひっ、と悲鳴を上げそうになるのを必死でこらえてゆっくり振り返る。眼前には課長の顔がドアップで突き付けられていて再び悲鳴を上げそうになるのを我慢する。朝イチからこの絵面はとてもキツい。
「……やっぱ、ダメですか?」
「どこまでやったの? 今日やったぶん、一から正しい手順でやり直しね」
それだけ言って課長は去って行き、私はげんなりしながら計算処理をやっていたワークシートを削除した。そこから流れるように用済みのメモの山から紙を数枚つかみ取り、雑巾絞りにねじり込んで怒りのやり場にする。
現在は会社の業績締め日から三日。我等経理部が一番忙しい週のど真ん中。営業その他各部門がデータで上げてくる売上だの経費だの何だのを費目別に集計して部門の入力ミスがあったら連絡して修正してもらい再チェックを行うという作業をひたすら繰り返している。
こんな作業は自動化すれば良い。入力が発生した時点でデータベースをチェックするとか、毎日その前日のデータを巡回チェックしてその日のうちに直してもらう。そうすればうちも楽だし修正する側だって「昼休みまでに修正しろ」とか無駄にプレッシャーを感じることを言われなくて済む。私が作っても良いし、会社的に頼む必要があるなら社内のデータを一括管理してる情報管理部に依頼しても良いんじゃないか。
そう思って進言するのも最近数年で十回を超える。けど。
『何、それって君が楽したいだけでしょ』
『コンピューターがちゃんと計算してくれると思ってるの? 間違ってたら誰が責任取るの』
『情報管理部ぅ? あんな誰も使わないもの作って給料取ってる詐欺師みたいな連中に』
すべてさっきの課長の言葉だ。さっき注意を受けたのも、桁間違いとかおおまかなチェックをワークシート関数で進めてたのを見つかったせいだ。電卓で計算しろという。電卓だって機械が計算してるじゃない、という怒りの言葉も最近は湧かなくなってきた。
「なんで自動化ダメかなー」
私のぼやきに、隣に座る新人の笹木さんがが応える。
「パソコンできないんじゃないですか? 課長」
「えー、そんな理由でそこまで嫌うかなあ」
「そんな理由よ」
え、と私達二人は目を点にした。
「重役に見せる業績データを課長がグラフにしたんだけどね。課長、入力ミスあったの気付かずにそのままプレゼンしちゃって、発表中に常務に指摘されて赤っ恥かいたらしいよ」
「データ用意したの私だったんだよなあ……。課長のパソコンでも受け取ったデータは間違ってなくて、資料にするときに入力ミスあったの丸わかりなのに言い訳に私を吊し上げようとして、今度は部長に大目玉食らってた」
先輩二人、若本さんと木戸さんが教えてくれた。
「そんなことで私達までマクロとか使えないんですか……ひどすぎる」
嘆く笹木さんはさておき、ついでに質問してみる。
「それじゃ情報管理部に頼むのがダメっていう話は?」
「ああ、それはパソコンどうこうじゃなくて課長の嫉妬」
今度は木戸さんが一人で教えてくれるらしい。
「情管の部長ってさ、中途採用で課長より若いじゃん? それだけの話」
……はぁ。ダメ過ぎる。
いつもなら就業時間近くまでマクロ活用した計算やったのを課長に見つかって、若本さんが「やっちゃったもんは仕方ない」っていう説得を試みてくれるところだけど、朝イチから捕まっちゃうと……今日はマル一日手動計算か……。
「まあ、不運だったと思うしかないわね。いつもは木村さんが色々技を利かせてやってくれてるから、今日はみんなで頑張りましょう」
おう、と体育会系のノリで応える木戸さん。笹木さんも嫌そうな顔をしてるけど、仕事自体は真面目に取り組む良い後輩だ。
改めてパソコンに向かい、数字をチェックしながら……。
検算のための電卓を叩く。
やっぱり空しい作業だな、これ。
あー、出て来た。
午前中みっちり数字と格闘、お昼ご飯をさっさと済ませてお昼寝もしたけど疲れは十分抜けてなかったらしい。数字がゲシュタルト崩壊しかけて視界を流れていく数字の意味が分からなくなってくる。そのたびに顔拭きシートで顔を冷やすけど、それでも三十分保たない。
そして、出てくる。
山ほどの数字の中に、見覚えのある数字が。
体調が整っているうちは、業績数字なんて単なるデータとして右から左へ流していくものだ。けど疲れが溜まってきたり体調が崩れると、数字の中から自分にとって意味のある数字をピックアップしてしまう。
あ、私の大学時代の学籍番号。
次は私の誕生日。
これは私の入社年度と初任給。実家の番地。昨日帰りに食べた牛丼の税込み価格。
数字を見ただけで心が乱される。幸せな思い出が思い起こされて集中力を失くし、嫌な思い出が湧いてきて怒りが込み上げやっぱり仕事が雑になる。また顔拭きシートで目頭を冷やす。
と、背後に課長の気配を感じた。下手に振り向いて目を合わせると説教が始まり、仕事が進まないままに余計な疲れを増やすことになる。完全に気付かない素振りで「あ~~」とオッサンくさいため息をつき、再び電卓でのチェック作業を再開した。
家の近くを通っている国道の番号。
スマホの電話番号。
三ヶ月前に別れた元彼の車のナンバー。
先月通販で買った毛布の値段。
高校時代の初カレの誕生日と靴のサイズ。
大学時代の彼氏に振られた日。
……おかしい。
多すぎる。いつもなら数個、それも三~四桁の数字を見つけるのがやっとなのに。今日に限ってやたらと頻繁に、それも十桁前後の数字で自分に関わりのありそうなのがぼろぼろと目に飛び込んでくる。その度に精神力が削られていく。これが「正気度が下がる」とかいうやつだろうか。
何とか一時間までは処理を続け、目を休めるために休憩に立つ。
もうメイクが落ちるだの何だの気にしてる場合じゃ無い。ハンカチを給湯室の流しで濡らし、軽く絞って目に被せる。こめかみに水が細く流れていってブラウスを濡らしているが、そんなのどうでもいい。とにかく少しでもいいから疲れを取り除く。
仕事中も何度か背後に感じた気配を前方に感じる。気付かない振りで通したいところだけど。
「ねえ木村君、何サボってるの」
さすがに名前を呼ばれると無理か。
「課長、厚生労働省の労働衛生管理ガイドライン見て下さい。一時間に十分の休憩と適切な業務量になるよう配慮するのが義務づけられてますよ」
「そんなネットで仕入れた話持ち出してさ、自分が上に立ったつもり? そんなことやるのは現実的じゃないよ」
計算の自動化は十分現実的だ。っていうか現実にしてやろうか? 社内のコンプライアンス窓口に送るメールの文面はもう私達で作ってあるんだぞ? ……なんて脅しにも言ってやる義理は無い。私達のうち誰かの限界を超えたらその誰かが出す、それだけのことだ。
「休憩時間過ぎたんで仕事に戻りますねー」
何かを言いたそうにしている課長を、仕事を理由にして置き去りにして仕事に戻った。
自席に戻って気合いを入れ直し、パソコンに向かおうとすると、隣の笹木さんが声をかけてきた。
「木村さん、さっき課長がそのパソコン触ってましたよ?」
「えっ、何で?」
とっさに疑問だけを返してしまう。困っている笹木さんを助けるように若本さんがフォローした。
「何でかは知らないわ。なんかカチャカチャやって、『このパスワード、誰か知らない?』とか言って来たの。『他人のパスワードを知ろうとするのは社内セキュリティ違反ですよ』って言ったら舌打ちしてどっか行っちゃったわ」
はぁ。ガックリと肩を落とすしか無かった。色々まとめて明日コンプライアンス窓口にメール出そう、そう思いながらパスワードを入力してロックを解除し、仕事に戻った。
最初に目に飛び込んできたのは、私が給湯室に行った時間と、その後ろに続く、やたら九の並んだ数字だった。給湯室での課長とのエンカウントが予言されてたんだろうか?
ビクン、と身体がけいれんを起こして目覚める。いかん、また隣のサラリーマンの肩にもたれ掛かって居眠りしていたらしい。再び見上げると彼の鼻の下が伸びている。私の反射的なガン飛ばしで彼の顔も険しくなる。自分に非があるのは分かって以下略。
それでもごく短い睡眠で、少し頭は覚醒した。スマホで時間を確認して、この調子なら家の最寄り駅まで問題なく起きていられるだろうと目算を立てる。
そして、そのまま滅多に使うことの無いメモアプリを開く。
あの後も何度か今日の日付が数字の海の中に見て取れた。その度に日付に続く数字が変わっていたので何となくメモを取って比較してみると、それはどうやら秒数らしいという結論に至った。
午後の作業を開始してしばらくした十四時頃に約三万、そこから一時間ちょっとで四千弱減少。これが何かのイベントまでのカウントダウンであることはどうやら間違いなさそうだ。何のイベントかは分からないけど、その時間は夜十時を回ったあたり、今日の仕事の感じだと駅を出て自宅マンションに戻る途中くらいの時間かな。
発生するイベントって……サプライズ? って、そんなことをしてくれるような人はいない。同僚は私に負けず劣らず疲れ切っている。彼氏は暫く前に別れてからまだいない。友達も近場には住んでいないし。
んじゃ、ご飯を食べに行ったお店で「貴方は○万人目のお客様です!」なんてサービスが……あったところでいつものチェーンの定食屋や丼屋じゃなあ。
そんなことを考えているうちに最寄り駅に到着。考え事をしていたせいで居眠りもしてないのに危うく乗り過ごすところだった。慌てて電車を駆け下りた。
改札を抜けて帰路につく。体力に余裕があれば駅前の本屋に寄ったり定食屋でご飯を済ませたいところだけど、今日の体調ではとっとと帰った方が良さそうだ。コンビニでおむすびふたつとサラダを買って、袋をぷらぷらぶら下げて家に向かった。
ぶらぶらと歩くうちに工事現場に差し掛かる。何か新しいショップが出来るらしく、この時間でも大きなクレーンがビルの上で稼働している。完成したらどんな風景になるんだろうか。通いたくなるようなカフェやショップは出来るだろうか。ちょっと楽しみだ。
そう言えば、そろそろ十時を回った頃だ。例のカウントがゼロになるのは何分後くらいだろう。そう思いながらスマホを取り出そうとして、手から落としてしまった。カツン、カツンと音を立ててスマホが路上を転がっていく。
嫌だなあ。最近機種変したばっかりなのに。かわいいピンクホワイトのを選んだのに、もう傷が入っちゃったかな。そんなことを心配ながらスマホに駆け寄り、拾い上げる。それだけでクラリとめまいがする、疲れの溜まった身体がめんどくさい。早く帰ってご飯食べてシャワー浴びて寝よう。
何気に手に持っているスマホで、メモしておいたカウントダウンがゼロになる時間を見る。
ちょうど十秒前。もしかしてこのカウントダウンは、スマホに傷を付けちゃうことを予知してたんだろうか。くそう、それを知っていればもうちょっと注意したのに。
ふう、とひと息つく。その頭の中で、何となく十秒前からのカウントダウンが始まった。
九、八、七、六。
別に何があるわけでもない。
五、四、三。
何が起きるんだろう……と思っている私の頭上で。
ビン、と、まるでベースの弦を弾くような低い音が聞こえた。
二。
頭上を見上げると、空の真ん中に黒く四角い穴が見えた。
その穴は、どんどん大きくなる。その穴の中には星も無く、周囲の町の灯り、ビルの陰も無い。
一。
ああ、もしかしてこれって工事現場の鉄板が落ちてきてるのか。
このままじゃ私、潰れちゃうのかな。
買ったおむすび、どうしよう。
課長のコンプライアンス違反のメール、どうしよう。
労災、下りるかな。
―――ゼロ
―了―
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