Chapter1:ある日の始まり『イルダの場合』-2

「……」


 額から粘り付く脂汗を流しながら、イルダは書類との睨めっこを続けた。目の前に表示された数列が何を意味しているのか、イルダにはさっぱり分からなかった。いや、かろうじで金の流れを表しているということだけしか分からなかった。


「この……貸借対照表ってのは、いったい、なんなんだ……?」

「え、えーっとですね、その……これは、こう見るとですね……」


 絞り出すような声を出したイルダと、アルカは根気強く作業を続けた。経理は熟練と知識を要する作業だ。アルカも素人なりに勉強を重ね、表が読める程度には経験を積んできたが、イルダはそうではない。このような書類を見るのは生まれて初めてだ。生まれて初めて聞く言葉の数々が、彼の脳をシロアリのように蝕んで行った。


「……よし、分かった。俺が、ここでどうすればいいのか、分かったよ……」

 イルダは立ち上がり、ひとつ伸びをした。

「よし、コーヒー淹れて来る。ミルクと砂糖はどうする?」

「あ、はい。どっちもちょっとずつでいいです」


 アルカは呆れたような視線をイルダに向け、表に向き直った。イルダは逃げるようにそそくさと歩き出し、レクリエーションルームの片隅に設置された給湯室へと入って行った。コーヒーメーカーのような上等なものはないため、水から湯を沸かし始める。

 アルカは真剣な表情で資料を読み、参考書を紐解きながら試行錯誤を続けていた。あまりに真剣な姿に、イルダはしばしの間、言葉を失いそれを見ていた。


 シュウシュウと、沸騰したお湯が辺りを汚したのはそれから少ししてからだ。


■~~~~~~~~~~~■


 バルト地区の歴史は古く、凍てつく大地は何度も戦争を繰り返して来た。寒冷地でありながら年中凍結しない不凍港を持つこの街、スフィンデルは海外交易の要として、そして海軍の要として様々な国々から狙われ、戦火に飲み込まれてきた。

 宇宙時代が訪れ、人が空を飛ぶようになってもその重要性は変わらなかった。陸路よりも障害が少なく、空路よりも大量の物資を運ぶことが出来る海上輸送は、《星間戦争》が終わってもなお地上に残った30億の人間を満たすためには無くてはならぬものだ。キャリアードックにも様々な商船や艦船が停泊している。


「ここがスフィンデルか。ッカァーッ! ようやく、地に足つけることが出来らァ」

「そうですねー、お爺ちゃん。はー、この鼻につく潮の香り……」


 盗賊団狼の尻尾との遭遇戦の翌日、『ブルーバード』は予定通り、スフィンデルに到着していた。船の整備全てを預かるハンク=チャールストンとアクアの親子は、誰よりも早くスフィンデルキャリアードックに降り立った。船をドックに固定するためには、停泊してからも様々な作業を行わなければならない。それも整備士である彼らの仕事なのだ。一方で、ブリッジクルーとパイロットたちはブリーフィングルームも兼ねる、船内の中央に置かれたレクリエーションルームに集められていた。


「さて、我々が今回スフィンデルに停泊している理由は、すでに説明している通りだ」


 ブリーフィングルームのモニターには、スフィンデルの全景と小さな枠がいくつも配置されていた。枠の中には燃え上がる街と傷つけられた人々、そして被害が描かれていた。


「《アルフェンバイン事変》以降、テロリストの活動が活発化していると言われている。ここスフィンデルも、いまや例外ではないとのことだ」


 いまから二週間ほど前、西欧旧フランス領の周辺で事件が起こった。突如としてテログループ《太陽系解放同盟》が武装蜂起、いくつもの基地と街に襲撃を仕掛けたのだ。作戦に従事した傭兵を含め、多数の将兵や民間人が犠牲となったこの事件は、最終的にはグループの首領、レイヴン=ヴァンガードの死亡という形で決着がついた。

 二年前に集結した《星間戦争》以降、安定していたはずの世界が迎えた、突然の変化。それは様々な人々に影響を及ぼし、封印されていたトラウマを呼び起こした。それは同時に、潜伏していたテログループに決起の機会を与えたということでもあった。図らずしも露呈した《太陽系連邦》の脆弱な防衛体制を、ハイエナたちは見逃しはせぬ。


 《太陽系連邦》地球中枢であるワルシャワをはじめとして、分割された5つの地区の首都はまだ安定を保っているものの、地方都市は打撃を受け始めている。中央の復旧を優先した結果として、地方の守りはいまを持ってして薄い。そしてそうした隙間を、章吾たちのような傭兵がカバーすることによって、平和が成り立つことになっている。


「ここ、スフィンデルで活動を行っているテログループは古典的な爆弾テログループだ。まだ詳細は判明していないが、恐らくは小包や木箱のような物に爆薬を設置し、遠隔操作で起爆しているものと思われる。多くの市民が、その巻き添えとなっている」


 イルダは標的とされている場所を見た。時間帯はバラバラだが、人通りの多い時間に犯行が集中しているのが特徴的だ。確実に無抵抗な市民を殺傷するために爆弾を設置していることは間違いないようだ。完全な嫌がらせのために行われているのだろう。

 と、言うのも人間が携行できるレベルの爆薬ではもはや軍、警察といった治安機構に打撃を与えることは早々出来ないのだ。爆弾の探知技術が発達していることもそうだが、個人防御装備は爆発や破片によるダメージをほぼ完全にシャットアウトする。上手く建物の内部に仕掛けたり、装甲服を着込んでいない時を狙わなければならない。一般市民を標的にしているということは、そう言ったものがターゲットではないことは明白だ。


「反政府グループの犯行、なのか?」

「その辺を調べるのも俺たちの仕事だ。今回は警察や軍とも連携する、大掛かりな仕事になるだろう。各員、その辺りを頭に入れてことに当たってくれ」


 章吾はこれまでのブリーフィングの内容をまとめたファイルを全員の端末に転送し、レクリエーションルームの電気をつけた。パイロットたちの緊張が解けていく。


「……とは言っても、実際作業に当たるのは明日からだ。各員、明日からは忙しくなるぞ。それまでの間、しっかり体を休めておいてくれ。それから、ヨナ」


 章吾から放たれた意図しない言葉には全員が驚いた。ヨナが呼ばれることは珍しい。


「後で話したいことがある、解散後、俺の部屋に一緒について来てくれ」

 いったい何があるのか。無性にイルダは気になった。声を出そうとしたところで、突然重い塊が左肩にのしかかって来た。振り返ると、ダルトンがいた。

「悪いが、イルダ。買ってきてもらいたいものがある。ちょっといいか?」


 そんなやり取りをしている間に、ヨナは章吾と一緒にレクリエーションルームから出て行ってしまった。タイミングを逸したイルダは、ため息をつきながらダルトンに従った。


 スフィンデルの街は、以前滞在していたアルフェンバインとは対照的な、歴史を感じさせない無機質なものだった。整然と並べられた石畳、強化コンクリート製の背の低い建物。頭上にはいくつもの投影ヴィジョンが並び、人々の意思を吸い寄せる。


「スフィンデル行政部からの発表です」「爆弾テロの被害者はすでに100名以上に上っています」「怪しい人影を見たら即座に通報!」「安全が大事」


 人々の欲望を歓喜するコマーシャルの隙間を縫うように、スフィンデルで多発しているテロ事件の報道がなされている。目深にヴェールを被った人々の波をかき分けながら、イルダは一目散に歩みを進めていた。


「買い足さなきゃいけない小物リストって……ダルトンの野郎、このくらいなら自分で行けってんだよ。なんで俺がこんなことをせにゃならんのだ……」


 息を吐き、肩を落とし、なぜこんなことを任されるのかはすぐに思い至った。『ブルーバード』の面々の中で、自分が一番暇そうにしているからだ。

 あのあとも、アルカの作業を特に手伝うことは出来なかった。ヨナとシゼルは先日から続いていた整備班の手伝いもあって今日は一日非番、ダルトンには艦内の力仕事があるし、ジョッシュには章吾の事務仕事をサポートする役目がある。章吾は言わずもがなだが。誰が一番余裕があるか、と言われればイルダであると誰もが言うだろう。


「俺もいろいろ頑張ってやってると思うんだけどなぁ……」


 人生は思い通りにならない。それは10年前L3コロニーでキャバリアーに乗り、父の死を目の当たりにした瞬間から分かっているはずだった。それでも、二年前海東イスカの名を捨てて、イルダ=ブルーハーツになった時から、何かが変わると思っていた。だがそれはただの思い違いだった。名前の違う同一人物が生まれただけだった。


「あー、やめやめ。腐ってちゃいられん。いまは託された仕事を、成すべきことを」


 そう思って、イルダは心の中で気合を入れた。心の中でと思っていた気合が漏れ出し、体の動きにも反映されたがそれは気にしないことにした。隣を歩くお姉さんから可哀想な目で見られたことなどないのだ。

 そうしてまた歩き出そうとしていると、イルダはおかしなものを見た。目深にフードを被った、ロングコートの人物。それは街の片隅で、まるで誰かから隠れるようにしていた。粗末なドラム缶を、まるでのぞき込んでいるようだ。これではまるで。


(……あいつ、まさか爆弾テロリスト……?)


 ドクン、と心臓が嫌な音を立てるのをイルダは感じた。陽は高く、通りは人でごった返している。どこの誰も、装甲化しているとは思えなかった。もしこんなところで、粗末なものであろうと爆弾が爆発すれば? どんなことになるかは、火を見るかは明らかだ。


 犯人を刺激するわけにはいかない。まだ、不審人物がテロリストかも分からないのだ。仮にテロリストであったとして、騒げばどんな行動に移るか分かったものではない。イルダはそれが下策であることを理解しつつも、たった一人でその背後に迫った。


(頼むぜ、気が付くな……気が付いてくれるなよ……!)


 着込んだ軍用コートのポケットに入れた、折り畳み式ロッドがこれほど頼りなく思えたのは初めてだった。コートの下につられたホルスターに入った拳銃が、いやに重く感じられた。イルダは努めて足音を消し、自然な風体で歩こうとしていた。しかし、彼は気付かなかった。自分が緊張していることに。そしてガラスに自分が映っていることに。


 フードを被ったターゲットが、ふと顔を上げた。そこに映っていたのは、軍用コートを着込み、やけに緊張した面持ちで、不審な歩き方をしている男。コートの人物は音もなく立ち上がり、身を翻して路地裏へと入って行った。ちらりと、イルダは手元を見た。

 複雑に配置されたコード、樹脂製のパッケージで覆われた円筒状の物体。それらはビニールテープで粗雑にまとめられており、デジタル式の発火装置と思しき物がついている。もはや疑いの余地はなかった、コートの人物は爆弾テロリストだ!


 イルダが声を上げる前に、コートの人物は路地裏に滑り込んでいった。すぐに姿が見えなくなる。ここで騒いだとして、どれだけの人がそれを信じてくれる? あのコートの人物はどこに行く、少なくとも爆弾を処分する手段はあるのではないか?


 ほんの少し迷って、イルダは自らも路地裏に飛び込んで行った。狭く、複雑な路地を、イルダは走って行く。何か分からぬ液体で濡れ、何か分からぬ物体で汚れた床に足を取られ、つんのめりながらもイルダは懸命にコートの人物を追って行った。

 コートの人物の足は速い、すぐにイルダはその姿を見失う。だが、代わりにイルダには戦場で培ってきた先読み能力がある。直観とでも言うべきか。その状況なら、相手はどうするかを考えることがパイロットには必要とされている。磨き抜いて来た直観を信じ、走り続けると、大通りを横断しているコートの姿が見えた。振り返った顔がチラリと見えた。何もつけていない、裸の唇が覗いた。ささくれ立った唇が少し動いた。


 コートの人物は即座にイルダの追跡に気付き、また別の路地へと消えて行った。イルダは迷わず駆け出した、車道に向かって。左右からクラクションを鳴らされ、轢かれそうになりながらもイルダはその足を止めなかった。懸命に走り、コートの人物がいた対岸へと辿り着き、休む間もなく路地裏へと入り込んで行った。


「ああ、クソ! 逃げるんじゃねグワーッ!」


 路地に飛び込み、最初の曲がり角に入ったところで、イルダの胸に凄まじい衝撃が走った。胸に二本の脚が突き刺さっているのがかろうじで見えたかと思うと、まるでワイヤーで吊るされたかのようにイルダの体は後方に吹っ飛んで行った。

 背中からから背後にあった建物の扉にブチ当たる。蝶番の緩んでいた扉はイルダの体重に耐えられず、一緒に地面に倒れて行った。肺から空気がすべて出て行くのを感じた。


 頭を振り、立ち上がろうとするイルダだが、それすら許されずに押し倒された。両腕を足でホールドされている、馬乗りになっているのだ。コートの裾からナイフの刃が飛び出してくる。もがくが、体の自由が効かず押し退けることすら敵わなかった。目を向ける。フードの中は闇に覆われ、その中を伺うことさえ出来なかった。刃が迫る。

 甲高いサイレンの音が響く。住居の表の方から、ドタドタと慌ただしい足音が聞こえてくる。騒ぎ過ぎたのだと、コートの人物は即座に気付いた。素早く刃を仕舞い、イルダの顔面に一発パンチを見舞うと立ち上がり、裏路地へと消えて行った。


「おっ、おぉぉっ……!」


 顔を押さえ、イルダは立ち上がった。掌を見て見ると、鼻血がべっとりとついていた。ジンジンと鼻柱が痛む、骨折しているのかもしれない。


「動くなッ! 跪いて床に手を突けッ!」


 警察の対応は早かった。すぐに重武装の警察官が屋内に侵入してきた。真っ白な全身を覆うタイプのマッシヴな装甲服で、宇宙服のような印象を見る者に与える。握られているのはテーザー銃だが、抵抗の意思を見せるなら即座に実包入りの銃を抜くだろう。イルダは大人しく膝をつき、両手を床に置いた。


「待ってくれ、あー……俺は傭兵だ。怪しい奴がいたんで、追いかけてきたら返り討ちに遭って……もちろん、扉の弁償をしろってんならすぐに手配しますんで……」

「黙ってろ、詳しい話は署で聞かせてもらう」


 警察官は素早くイルダに近付くと、ゴツゴツした金属質の手錠をイルダの両手に嵌め、二つの鉄の輪を繋ぐ鎖を握り、引き上げた。かけられた手錠がイルダの手首を苛んだ。痛みに抗議の声を上げながら、イルダは立ち上がり、チラリと後ろを見た。彼をこんな目に遭わせたフードの人物は、跡形もなくその場から消え去っていた。


 近代的な警察署はガラス張りで、一見すると攻撃に弱そうに見える。しかし実際のところ、警察署を覆っているのは柔軟性に富む硬化プラスティックであり、銃弾や炎に対して高い防御効果を持っている。もし、警察署が攻撃に晒されるようなことがあれば即座に防衛プログラムが働き、署全体を鋼鉄のシャッターが覆うことになっている。


 イルダは巡回用のパトロール装甲車に乗せられ、警察署の裏門から取り調べ室に移された。手錠を嵌められ、両脇には屈強な装甲警察官。尋問官は警戒心をありありと読み取らせる目つきでイルダを見ている。まるで容疑者扱いだな、とイルダは思った。


「こっちの身元ははっきりしているんでしょう? 早くここから出してくれ……」

「そうはいかん。あんたがあそこで何をしていたか、はっきりとしたことが分かるまで介抱することは出来んよ。今時は、登録済みの傭兵だって言って泥棒まがいのことをするような連中までいるからな……」


 イルダは殺風景な尋問室に通された。窓一つない閉塞的な部屋で、左手には大きな鏡が設置されている。マジックミラーになっているんだろうな、となんとなく思った。強制的に歩かされ、小さな椅子に座らされた。目線に丁度電灯の明かりが当たる。


「んで、あんたなんであんなところにいたんだい?」

「あそこ普通に大通りでしょ……みんなから頼まれた買い物を……あっ」


 時間を確認することは出来ない。このあたりの天候では、陽の光さえも当てにならない。店舗が閉まる時間も、かなり早かったはずだ。


「あのー、俺ってどれくらいで外に出ることが出来るんでしょうか……?」

「さあな? あんたが協力的な態度を取ってくれれば……どうなるかは、知らんがな」


 尋問官はあくまで冷徹な表情でそう言った。終わった。直観的にそう思った。


 イルダが解放されたのは、それから4時間経ってからのことだった。事件の方を受けたジョッシュが迎えに来てくれたのだ。爆弾が発見されなかったことで、イルダは結局家の扉を壊しただけとなった。呆れたようなジョッシュの視線が忘れられない。章吾はイルダの証言を疑っているわけではないようだった。しかし。


「イルダ。お前は少し疲れているかもしれんな……明日は、ゆっくり休んだらどうだ?」


 彼の言葉は、ある意味疑われるよりもずっと辛いものだったが。

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