風の獣〈1〉



 風の獣がゆっくりと泉の水面に降りていく。


 揺れる水面に近付いて淡い輝きの中にその身が触れたのか、触れていないのか。


 ルファの位置からはよく見えなかった。


 ただ獣が近付いたせいなのか、泉の中に映っていた星々が、夜空が、星図が。



 一瞬、揺れて。



 歪んだ。



 そしてルファは視た。


 その歪みの中に、先程までとは違う夜空を。



 違う星図。



 違う星々。



───あの星は?



(視せて……もっと。近くで……)



「こら、ルファ! どこへ行くッ」


「ルファのバカ! 動くなってっ!」



 衝動的に立ち上がり、ふらふらと前に歩き出したルファの背中にラアナの声と、いつの間にか肩から降りていたココアの声が重なった。


(───だって。視たいの、私………)



 そこにある星の配置を。


 星の輝きを。


 まだ視たことのない夜空を。


 知らない星図を……。



 ルファはその一瞬の揺らめきの中に、淡い光の中に。


 泉の中の星を読み、そして星図を記憶した。



「ルファ、戻れ!」



 風の向きが変わった。


 深く被っていたはずの外套のフードが風にあおられて外れ、髪が靡いた。


 白金の長い髪が泉の光に反射し、重なるように煌めく。


 目の前には向きを変えた風の獣が迫っていた。


 大きな大きな口を開けて。


 きっとルファなど一口で飲み込んでしまうだろう。



 魚の口が────、



「───このバカっ!」



(え、───ばか?)



 突然、何か黒い影に包まれた。


 そう感じた。


 同時に足元がフワリと軽くなる。


 浮遊感と一緒にぐるぐると回る視界。


 身体は何か強い力で押さえられていて。


 どうやら誰かに抱えられているような。


 そんな感覚が把握できた。



 けれどそれは一瞬。


 その後すぐに身体に感じた鈍い振動。



「動くなよっ、絶対に!」



 今しがたルファが居た場所とは違う大樹の木陰に、彼はルファを降ろして言った。


 ひどく怖い声と刺すように鋭い青珠の瞳がルファの間近にあった。



「あ、あるざっ………」


 うまく声が出せなかった。


 アルザークはルファを一瞥しただけで、すぐに動き出していた。



 風の獣に向かって。


 あの巨大魚に向かって。


 剣を抜くのが見えた。



「だ、だめっ! 待ってッ」



 ルファは叫び駆け出したが、慌てて躓き転んだ。



「───痛っ」



「動くなと言ったろっ!」



 振り返ったアルザークがルファを見て叫んだ。


 その隙をつくように、風の獣が二人に向かって迫る。


────けれど。あと少し、というところで動きが止まった。


(この声……)


 ラアナの声が聴こえた。正しくは鼻音唄法ハミング


 歌詞のない旋律だけの響き。数え歌と言っていたものだ。


 そしてなぜなのか、風の獣は上昇をはじめた。悲鳴にも似た叫びを響かせながら、風の獣がゆっくりと離れていく。


 風音に混ざるその響きは、なんだかとても切なく聴こえた。



 そして風の獣は。


 精霊獣の魚は。


 春の季節風は……。


 現れたときと同じように、ぱっくりと宙を裂いたような暗闇の中に消えていった。


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