四章(急)・22



 瞳を開けた。

 目が合った。

 心拍数が、破裂した。


「ッ!?!?!?!?!?!?!?!?」


 有り得るはずがないもの。

 もう二度と戻らないもの。


 天使を見下ろしていたのはそれだった。

 穏やかな表情で、親しみの笑顔を向ける、女神だった。


「な、んなっ、なななななななな、なっ、」

「まあ、つまりはそういうことなんだろうねえ」


 女神を挟み、向こう。

 そこにいて、一部始終を見ていた田中が、「うはは」と笑う。


「ここは、【求めたものが現れる場所】だ」

「う、」

「言い逃れなんかしようもないよな。目の前に現れちまったんだから」


 柔らかさも、温度もある。

 けれど、これは人形だった。

 動かない。

 反応しない。

 非常に精巧で、真に迫った、偽物。 

 願望から生み出された、虚像。


「それにしても驚いたよ。気を失っている君の傍に、急にこれが現れた時は。おかげで、はは。格好悪い話だけど、見とれちゃってね。そうか、君と二人きりだったころの彼女は、こんな風に笑うものだったのか、ってさ」

「――――無駄だ」


 息を、深く、吐いて、吸った。


「貴様は残るべきではなかったよ、タナカ」

「ありゃ。ひょっとして、バレちゃってる?」

「わからいでか」


 考えるまでも無い。

 天使は田中にとって、目的の達成に立ち塞がる障害である。だというのに一度きりの奇襲が成功した幸運、意識喪失の好機、逃げも隠れも縛りも仕留めもしなかった、あまつさえその傍らで暢気に目覚めを待っていた、ということは、つまり。


「貴様の目論んでいるようなことは、決してしない」


 懐柔。

 敵を、味方に裏返させる、前準備。

 だから公務員は紳士を気取る。自分を信用させる為に。

 心を動かし、行動を操る為に。


「ああ、知っているさ。わかっているさ。そうか、そういう計算だったか」


 合点がいった。

 絶対絶命からの脱出。今を凌いでも決定的に活路が閉じる愚策――神剣・グヤンキュレイオンの、使

 問題なかったというわけだ。

 その狙いさえうまく行けば。


「“鍵”は、自分か。この先に進む為の手引きを、自分にさせるつもりだったのだな?」


 天使には、その権限がある。

 彼女が協力をしたならば、確かにそれは造作も無い。門にかけられているロックをこじ開け――


 ――【第四層】。

 ありとあらゆる、他の世界の人間が踏み入ることなき、【神殿】の存在する最下層に降りることなど。


 何しろ。

 田中を迎撃する為に、彼女はそこから来たのだから。


「は。生憎だったな、タナカ。その願いは叶わない。この、【満願の園】にあってさえ、部外者の貴様の思惑は、決して実らせぬよ」


 胸を張り。

 堂々と。

 そして、

 相応しい表情で、天使は言った。

 言い放った。


「自分は、大創造神ハルタレヴァの被造物である」

「…………」

「ぶふっ!? だ、お、おいっ! それは反則だろう、というか阿呆かおまえっ!?」


 はっきり宣言したまでは良かった。

 だが、それをされてはおしまいだ。

 田中に無言で、天使が創り出した【笑顔の女神】を指差されては、どうやっても、その、アレやコレやが保てない。


「ふ、ふざけるなよな!? 今の場面、わかってるだろう、タナカッ!」

「ああ。勿論、大真面目中の大真面目だぜ今の僕は。具体的には、休みの日とかに工藤さんとだらーっとしてる時ぐらい」


『それは前提がまずおかしいではないか』とごく真っ当なツッコミが飛ぶ。

 苛立ちと必死さを浴びせられて、田中はうんうんと頷く。


「いやそれが、案外大事なんだよ、天使さん。肩の力を抜くって言うのはさ。何事にも適切な、ほどほど具合ってのがあるんだ。そりゃあ真面目さってのは基本的に美徳だし、そうであるべきなんだけどね。困ったことに、結構な場面で食い違われる」

「……何?」

「“視野狭窄”」


 ふはは、と田中は笑う。


「参っちゃうよねえ。本人にしてみれば、それは集中してるつもりなんだ。決して仕損じられないからこそ、一心に、真剣に、ここだけは絶対にやり抜く覚悟で取り組んでる。しかしその状態は、結局、それしか見えていないのに等しい。それ以外のもの全部を、ただ無視をして、蔑ろにして、気を払う余裕が無いのと同じなんだ」

「……何が、言いたいんだ。貴様は」

「こういうこと」


 それは。

 何処から拾ってきたのか、この為に仕込んでいたのか。

 鏡だった。

 掌ほどのそこに、

 確かに、映り込んでいた。


「なあ。君、本当に、自分でも気付いていたか?」

「――――な、にを」

「【おまえには協力しない。ハルタレヴァの望みを叶える】――女神様を犠牲にさせるって言った時、一体、どういう顔をしていたか、だよ」


 その答えがあった。

 ひどいものだった。

 毒でも飲んだような、枯れた花を見るような、出掛けようとした矢先、激しい雨に降られたような。


 楽しかったことが。

 面白かったことが。

 台無しになった、顔があった。


 悲痛で。

 悔しくて。

 でも、我慢をするしかなくて。

 何もかもを。

 その表情をせめてもの反応として、誤魔化そうとしている、態度。

 

「――――それが、どうした」


 まるで。

 鏡の中の自分を説得するように、天使は言った。


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