四章(急)・14



「全部忘れて、無かったことにして。楽になるのが、あんたの欲しいモノなのか?」


 怯む。

 見覚えの無い、知り合いでもない、中学生ぐらいだろうか、必死な様子の少年が、こちらのことを見下ろしていた。


 ――なんとも、おかしな。

 縋るような。

 祈るような、眼で。


「生きるのなんて、どうせ、辛いばっかりだから。いっそ、それまでのことを丸ごと捨てちまって、これからのことも見ないようにすれば、それが、幸せなんだって」


 ――『それを』。

 ――『あんたが言うのかよ』と。

 その少年は、言った。

 泣き出しそうな、顔だった。


「聞いたよ。聞いちまったよ、ねーちゃんから。あんたにこれまで、何があったのかって。どんな――――おれたちなんかとは、比べ物にならないような、ひでえ目にあってきたのかって」


 食い縛った歯。

 感じ入る様子。


 ぽかんと見上げる子供のことを、

 少年は、

 涙を堪えて、見つめている。


「なんだよ。なんなんだよ、あんたは。それなのに、あんなこと、言ってくれたのか。――本当は、自分が、まず先に、幸せになんなくちゃいけないぐらい、手一杯な癖に。それなのに――あんな、面倒なことまで、したのかよ」


 熱に浮かされたように、少年はまくし立てる。

 警察の制止を振り切り、自分の立場を危うくなることまで覚悟の上で。

『彼らに伝えなければならないことがある』と、決して引かなかった誰かのこと。


 出張も終わり、地元へと帰ってから。

 自分が調べた事実を纏め、松衣の児童相談所等に連絡を取り、少年少女たちの環境改善に、業務外の奔走を続けていた誰かのこと。


 困る。

 そんなことを聞かされても、六歳の子供には、何もぴんとこない。


【誰か】。

【誰か】。

 その、【誰か】。


 物好きで、

 不器用で、

 巧く生きることが出来ず、過去のしがらみに囚われて、いつだって迷い、悩み、不恰好に足掻き続け、どれだけ努力を重ねても、全然楽になんて、なれなかった、【誰か】。

 

「――――格好いいじゃんよ、ちくしょう」


 憧れる、と少年は言った。


「苦しかったんだろ。辛かったんだろ。答えなんか出なかったんだろ。自分が正しいのかどうかなんて、一回もわかったことはなくて、それでも【これでいい】ってことにして、立ち止まらないで進み続けた。本当は間違ってないか、いつだって怖いばっかりで、だけど結局自分は、今、自分が出来ることをやるしかないからって切り替えて、不安を抱えながら歩いていった」


 それは。

 それは。

 その様は。

 そんな、誰にでもある、あたりまえの――挑戦と、探求の、生き方は。


「こんなとこに、いなくたって。もう、あんた、これまで同じようなこと……いやっ! これよりずっと、ずっと、ずぅぅぅぅっと上等でッ! イカしたことが出来てたじゃねえかよ、にいちゃんはっ!」


 叫ぶ。

 少年は、吠える。

 一面の雪景色。

 音を吸う無垢の白に、

 負けじと。


 勝とうと。

 喉を枯らして、

 訴える。


「勿体ねえだろ! ふざけんなよ! まだまだ、全然途中じゃねえかよ! 何を勝手に決め付けて、こっちがいいって思い込んで、楽なほうが最高だって選んでんだよ! ――――違うだろ、なあ、おいッ!!!!」


 そうして、彼は。

 少年は。

 目の前の子供より。

 或いは、自らへ。

 その心の中へ、問いかけるように。


 自分の信じた、

 自分の感じた、

 ひとつの答えを確かめるように。

 灰色の空へ向かって、

 解き放った。


「どうせこんなもんだって諦めてた人生にッ!!!! 想像もつかねえ面白さが起こるんだって!!!! だから、どんな状況でも、一歩でも先に進んでみる値打ちが、分厚そうな壁に挑戦してみる理由が――――誰かが決めた勝手な基準を、ぶっ飛ばせちまう気持ちよさがあるんだって! それを教えてくれたのは、あんただろうが、田中さんッ!!!!」


「――――まったく。耳が痛いね、どうも」


 少年が、顔を、戻した。

 そこには、いた。


 もう、見下ろすのではなく。

 見上げる側に戻った――

 ――子供ではなく、青年が。


「あのな、藤間くん。君のこれからの為に、一つ忠告だ。いいかい、きっとがっかりするだろうし、失望してしまうだろうけど聞いてくれ」


 ――――大人がいつも、子供より強いとは限らない。

 正しくないし、間違うし、立派にあろうと格好つけているだけで、こっそり弱気になりもする。

 そして、


「そういう時は、子供と同じだ。……友達がいてくれること、『元気出せよ』って言ってくれることが、とにかく、何より、有り難い。腹の底から、力を貰える」

「……っ」

「そうだ。そうだよな。残念だけど、寂しいけれど――僕はもう、子供じゃないんだ。ちょっぴりしんどく思うけれど、でも、楽になりたいからって、背負ったものを投げ出せない。ここまで抱えてきたものが、たとえ、幸福になるには不釣り合いな重荷だとしても――困ったことに。案外、そういう苦しい思い出にこそ、愛着があったりするからね」


 その為に。

 その時は本当に嫌だったものを、許し、受け入れ、それすらも自分の物語だとして成長する為に――

 ――人は、それを思い出にするのだ。


 だから。

 記憶は、

 足跡は、

 たとえ、悲劇であったとしても。

 きっと、いつしか、愛おしい。

 忘れ難き、己の一部。

 何処の世界に、移っても。

 遥か遠くに、至っても。


「――そう、だよ。そういうこと、だよ。にいちゃん。手間、かけさせやがって」

「本当だ。ごめんな、藤間くん」

「……圭介、でいい。だって、おれたち、トモダチなんだし」

「ああ、そっか。気も利かなくて悪いね、圭介」

「いいよ。いい。そういうのが、トモダチだから」

「じゃあ、行こうか」

「うん。……それから、伝言」

「え?」

「ねーちゃんから。『子供たちに勝手に設備を使わせた件、始末書書くの手伝ってくださいね』って」

「――――はは。いやぁ、早速忘れたくなってきたなあ」


 大人と、子供。

 田中と藤間少年が、友達同士が、二人。手を繋いで雪道を行く。まっさらな白に、足跡を残して進む。


 恐れることなく。

 迷うことなく。

 自らの証を、自らで刻む、喜びと共に。


 その先にあるのは、門だ。

 見覚えのある型式。

 懐かしき型式。


 個人の精神の中――記憶という異世界に、藤間少年を届けた道。

 柔らかな光を放つその中に、窮地を救ってくれた恩人を送り返す。


「あの時とは、逆だな」

「……!」

「僕が、迎えに来てもらっちまった」

「へ。どうってことねえよ」


 親指を立て、笑顔で、彼は門を潜っていく。

 自分は、これを使えない。

 戻るべき場所が違う。

 向き合うべき場面が違う。


「――――さあ。ちょっと、休んでしまったけれど」


 帰らなきゃ。

 そうして田中は、自らの、【六歳の記憶】の――自分の中の異世界で、祈るように、目を瞑る。


 ――その、直前。

 最後に。

 一度だけ、眼に、心に、焼き付けるように――まだ何も欠けていない、しかし、もう自らの帰る場所ではない、暖かい家の、その玄関を、振り返った。


 行って来ます、義母さん。

 

 その言葉は、口には出さず。胸の中で、噛み締めて。

 代わりに。

 現在を切り開く、未来への挑戦を、呟いた。


「【日光:照臨】」


 灰色の空が、晴れる。

 分厚い雲が割れ、地を照らし上げる光が射し、溶けていく。


 融けていく。

 解けていく。

 旅に行く。


 在りし日の面影を振り切って、

 青年は、

 大人の役目を、果たしに行く。

 遠き、異世界へと戻る。


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