四章(急)・13



 旅をする。

      旅をする。

          旅をする。


      自らの生を、渡り歩く。



      旅をする。

   旅をする。

 旅をする。


 いくつもの己を、渡り歩く。

 その時の自分を、思い出す。


             旅をする。

 旅をする。

       旅をする。


 そうして、

 彼は、


       辿り着く。



                 ■■■■■



 冬の日。

 雪の日。

 帰り道。

 六歳の子供が、ふと、『あれ、』と感じて、立ち止まった。


 眩暈とも違う。

 何かを思い出そうとして、中々出てこない感覚に近いのだけれど、それがどうにも、奇妙だった。


 心当たりがないもの。

 まだ起こっていないはずのこと。

 “これから訪れる、自分が大人になってからの出来事”が、頭の中にちらつくのだ。


 泣き出しそうになる。

 くしゃくしゃに顔が歪み、叫び出したい気持ちに襲われた。

 わけがわからないし、嫌で嫌でならない。

 突然に押し付けられた、考え切れない情報を全然処理も納得も出来なくて、道端に屈み込む。


 ――――楽しそうだと、思えそうなことが、全然なかったわけではない。

 けれど、それ以上に、辛いことが多過ぎた。

 差し引いても、まるで割に合わないほどに。


 面白いことがあるよりもっと、面白くないことが起こった。

 好きな人が増えるよりずっと、嫌な相手との付き合いが強いられた。

 やりたいことをひとつやる為に、やりたくもないことを山のようにやらされた。

 手に入れて喜ぶよりも、失って悲しむほうがいつだって多かった。


 ああ、と思った。

 頭を抱えて、眼を瞑った。

 涙が、こらえても、出た。



 自分のせいで、母が死んだ。



 蹲る背に積もる雪。

 うなじに落ちる冷たさと、一緒に溶けて、無くなってしまいたい。


 そう、強く願ったおかげだろうか。

 すぅっと、楽になってきた。

 さっきまで頭の中を占めていた、取り留めのない、理不尽で、胸が千切れそうに苦しくて、どうしようもない不安が、また、元通りに消えていく。薄れていく。遠ざかって、見えなくなる。


 失われていく。

 喪われていく。

 そこには、喜びしかなかった。

 こんなにも軽いのだ、と嬉しくなった。


 六歳の子供は知る。

 六歳にして思う。

 楽になることの、心地良さを。

 先に進むのなんて、まったく、いいことなんかじゃない。


 生きるというのは、思い出したくもない、役にも立たない、邪魔でしかない荷物を背負わされるだけの旅だ。


 遠くへ行くほど苦労して、自分で勝手に悲しんで、間違いだったと気付いても後戻りなんて出来なくて。

 どこまで行っても何も無くて、そこそこのところで諦めて、ほんのちいさな石ころ一粒拾い上げて、『甲斐があった』と嘯いて。


 挙句。

 誰が見たって誤魔化しでしかない自己満足に妥協して、膝を抱えて骨になる。


 ――心から、納得する。

 一体。

 誰がそんなミライへ、進みたいと思うのか。


 そんな徒労を、無駄足を、味わわないで済むのなら。

 ちっぽけなは――不幸を包んで捨てる為の、ちり紙にしたって構わない。 

 そうとも。


 ――中学の。

 風変わりでありながら、無邪気に自分を慕ってくれた後輩との関係も。

 ――高校の。

 すっかり曲がった少年に、世界の多様さを教えてくれた先輩との関係も。

 ――成人し。

 社会に出たことで得られた、様々な繋がり、変化の経験、義父との和解も。

 

 どうにもならない失敗の記憶に振り回され、悔やみ悩むことが無くなるという本物の幸福を前に。

 誰も憎みも恨みもしなくていいという、手に入れられず焦がれ続けた平穏と比べ。

 さて、何を惜しむことがあるのだろう?


 簡単な話だ。

 どんなに嬉しい、かけがえのないと思える喜びだって――失ったことすら忘れてしまえば、何も悲しむ理由は無い。


 これこそ、救済だ。

 文句のつけようもない、喪失という名の獲得だ。


 心が晴れた。

 もう蹲らなくていい。

 気付けば、家の前にいた。


 六歳の。

 あの事件の前の。

 まだ、何も欠けてはいない――必要なすべてがある、あの家が。


 ずっと。

 ずっと。

 帰りたかった、場所が。


 何故だろう。

 そんなものとは、今はもう、無縁のはずなのに。

 事件なんて、そんな起こってもいないことは知らないし。

 喪うことなんて、一体誰の、何のことかわからないのに。


 喜ばないといけない気がした。

 ようやく辿り着けた気がした。


 吐く息が、白い。

 心を、決める。


 そうして、六歳の子供は、いつも通りのただいまを言うべく、言葉にならない喜びと共に玄関へと手を伸ばし――


「それでいいのかよ、にいちゃん」


 引き止める声を、聞いた。

 思わず彼は、振り向いた。



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