四章(序)・15


 

 奇跡的に宿が取れた。

 というより、【宿】を自らの出し物をしている神があり、その体験をすることで一夜の寝床を確保出来たのである。


 こうした出展物も、人間が企画するならそれはもう事前の計画表提出、準備調整、人手の確保、資材の調達から建築までそれはもう大仕事だが、何でも、この優雅にして絢爛の温泉宿が創り始められたのは、つい今朝方のことだとか。


「なあ、タナカ」


 かぽん、と鳴るししおどし。


「人間としてはこういうものに、どう感想を抱くのだ?」


 湯煙に息を吐く。

 部屋毎に備え付けられた庭付きの浴場は、水着完備の混浴可。

 田中側からは固辞の一手だったのだが、「積もる話を消化しようではないか」と天使から押し切られ、岩風呂に向かい合っての入浴と相成った次第である。


「こういうもの、って?」

「こういうことをやられると、だ」


 ああ、と頷く。

 近頃特に冷え込み始めた空気と相俟って、湯の心地良さが凄まじい。

 そのおかげというか、何と言うか。

 思わず、緩んだ台詞が出た。


「そうだなあ。天使さんはどっちが聞きたい? 当たり障りのない一般論と、僕、個人の見解と」


 言ってしまったからには取り返しが付かないし、天使の怪訝そうな、面白がるような、興味津々な表情に水を差すのは申し訳ない。風呂は熱めが気持ちいい。特にしんと冷え込む秋の夜には。


「二つともくれ」

「じゃあ最初はぬるいほうから。――――やっぱり、神様がやることってのは凄いよね。世暦の時代になってからはより顕著になったっていうけれど、こんなのを味わわされちゃったら、本当、楽しくって面白くって、感心しちゃって感動しちゃって、どこの世界の神様のところに行こうか、選び切れずに目移りしちゃうな!」

「熱いほうは?」

「こんなことされたんじゃあさ、人間がいる意味ってあるのかな?」


 水面を叩いて天使が笑う。

『言いやがったこいつ』とその顔に書いてある。


「驚いたな。業務時間外では、そこまで歯に衣着せない男だったか?」

「仕事には熱心に取り組むけれど、オフの自分も大切するタイプでね」


 それは、誰もが一度は考えることだ。

 世暦時代。

 異世界和親条約の下、偉大なる神々の下、人類は確かに、その選択肢を遥かに広げた。与えられた。許された。

 だが同時に、それは深刻な疑念を抱かせる深き迷妄の始まりでもあった。


 ――――自らの無力さとの、否応無き対面。

 それは、新たなる時代の人類に与えられた、新たなる試練だった。


「意識しないで生きていける人も、そりゃあ大勢いるのだろう。それこそ幸せというものだ。異世界和親条約がもたらした功罪の、“功”の部分の旨みだけを味わえる。まだ、開始から三世紀ぽっちの【素晴らしき新時代】の、まさしく申し子というやつだろうね」

「“そんなこと”を気にするのは、古い人間だと?」


 田中は苦笑する、


「“考えたところでどうしようもない悩みに囚われ続ける”。少なくとも、賢明とは言えないんじゃないかな」


 誰が。

 どのように足掻いたところで、時代は変わった。

 それを逆行させることは出来ないし、どんなに悔しがったところで――


「人間は、どう逆立ちしたって、神様には及ばない。あの方々がやってのけるような芸当に、未来永劫手が届くことは無くて、だからこそ、時折どうしようもなく虚しくもなるんだ。――僕たちが、人間が、話にならないぐらい、比べることすらおこがましく劣化した、神様の絶対的絶望的下位互換でしかないのなら。じゃあ、人間が何かをやる意味なんて本当にあるんだろう、って」


 魔が差すような邪念。

 田中が長年、抱き続けてきた本音。


 普段は表に出ないよう、勤めて隠し続けているが、それでもふとした瞬間に顔を出してくる。

 特に――こんなふうに、【人間を遥かに越える奇跡を、神様はあたりまえのように起こしてしまう】ことを、体感して、実感すると。


「側にいると、虚しくなるから。僕は、【神様】が嫌いなんだ」


 だからこれまで田中は、雲州出雲国には近づかず、有名な神迎神楽祭に、一度も参加してこなかった。


 ……虚しさや諦念は、偽らざる本心だが。

 それを周囲に伝播させたくないという遠慮を、田中はそれでも持てていたから。

 中学時代や、高校の初めの時とは違い、今は。


「――その言葉が、今に始まったものでないのなら」


 ぱちゃん、と。

 湯を割りながら、天使が田中に、近づいてくる。


「我が女神に助言をしている時も、貴様は腹中に、そうした黒さを抱えていたのだな」

「君は僕を、殴ってくれる?」

「そうだな」


 湯の熱を帯びる手が、田中の頬に触れた。

 そして。

 天使の唇が、そっと、擦れるように彼の唇を撫ぜた。


 何かが伝わる暇も無い、

 何を味わう準備も無い、

 不意打ちで、

 無意味で、

 自己満足めいた、一瞬。


「ようやく貴様のことが、心の底から嫌いになれた」

「――――」

「気に入らなかったんだ。ずっと。最初に会った時から。その為に連れてきた。見せ付けてやろうと思った。くだらない人間を、愚かしいを、ぶつけ合わせて台無しにしてやるんだ、と」

「――――天使、」

「お笑いだ。最初から最後まで――あいつの周りには、嘘しかなかった」


 湯を上がった天使は、そのまま部屋を出て、帰ってこなかった。

 田中はその帰りを待ち続けていたが、やがて、引き込まれるような睡魔に負けて意識を落とし、

 そしてその晩、懐かしい夢を見た。


 目を覚ましてから田中は、この宿が――異世界の【夢の神】による、【鮮明な過去の再生】を売りにした出展であったことを、遅ればせながらに思い出した。


「――――そうか、」


 だから、彼女は姿を消したのかもしれない。

 結局帰ってこなかった天使をギリギリまで待って、田中はチェックアウトを済ませる。


 大創造神ハルタレヴァの登場まで、あと六時間。


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