四章(序)・10
行ってきます、と女神は言った。
これから暫しの別れを告げる、自らの異世界転生課で。
「色々と、修行は大変だと思うけれど! 時間を頂いて、ちゃんと連絡もいれるから! 天使も、それまで元気でね!」
「はい、我が女神」
「あ、勿論無理はしなくていいよ? ここにいるのが退屈になったら、どこにだって行っていいから。私がいない間の異世界転生に関わる権限は天使に一任しちゃってるけど、それだって閉じちゃって構わないし。――あはは。本当、私ってば昔っから天使には助けられっぱなしで、迷惑かけてばっかりだ。情けないなあ。恥ずかしいなあ」
「…………」
「でも、でもね。だから今、嬉しいの。私の面倒を見なくてよくなったら、天使はきっと、自分のことに、一生懸命になれる。自分のことを、ようやく大事にしてあげられる。ちょっと寂しいけど、それよりずっと大きな気持ちで、おめでとうって言いたくなる。――ね。だからね、天使。私に、遠慮なんか、しちゃあぜったい、ダメなんだからね?」
「いいえ」
「っ、」
「自分は、貴女のお傍に仕え始めてから。遠慮したことも、助けていると思ったことも、迷惑をかけられたと感じたことも、一度としてありません。この、二百と九十九年間、貴女の試練に寄り添えて、自分はいつも、幸福でした」
「――――」
「行ってらっしゃいませ、我が女神。世紀を隔てようと、千年紀が変わろうと――天使はずっと、貴女の世界で、貴女の帰りを待っています」
抱き締めた。
女神が、天使を、その身体を、強く、強く、溢れるものを、ぶつけるように。
「ばか。ばか。天使の、ばか。――だいすき」
「そのように、せめて彼にも伝えて差し上げればよかったのです」
「――うん。そうしたら、どれだけ、私、嬉しかっただろう。……ねえ、天使。私、あの時――うまく、嘘つけてたかな。気付かなかったかな、田中さん。私が、引き止めて欲しいと、思ってたこと」
「……ええ。慣れぬことでありましたでしょうに、実に見事な――一世一代の強がりでしたよ、我が女神」
「――仕方、ない、ん、だもんね。これ以上――私の、わがまま、で。田中さんを、困らせちゃ、いけないもんね」
「御立派であらせられました」
「あーあ、さいっ、最後に、一言、きちんと、謝りたかったなあ――今まで、無理をさせて、ごめんなさい、って」
「我が女神」
「……」
「ここは、貴女の世界です。今は、誰も、見ていません」
「――――っ」
過日の賑やかさも、夢の如しの静かな部屋に。
女神の、押し殺した啜り泣きが、それから暫し、続いていた。
「――――ごめんね、天使。行く前からこんなんじゃあ、安心なんて出来ないよね」
「何を仰いますやら。貴女様が危なっかしくて冷や冷やするのは、自分が此処へ来た時から変わりませんでしょうに」
「もうっ。ああ、言い返せないのが悔しいっ」
身を離す。
目を合わせる。
異世界へと繋がる扉が、ぼうと光を放ち始める。
その行き先は、大創造神の治める異世界――理想郷、ハルタレヴァ。
「じゃあ、次に会う時は、だ。まずは、見ていて安心できるぐらい、しゃんとした創造神になってないとね」
「ええ。楽しみにしております」
「……ねえ。天使」
「なんでしょう、我が女神」
「貴女の名前、教えてくれる?」
二百九十九年間で、二度目の問い。
最初は出会いの中で。
そうして次は、門出の時に。
繰り返された質問に、
疑問を覚えつつも、彼女は応えた。
「在りません。自分は、自分の創造神より、個別の記号を賜りませんでした」
「じゃあ、それがおみやげだ」
にこり、と。
笑って、その手を握り。
名も
ひとつ。
別れに、約束を残した。
「貴女に次に、会う時は。私は名前を贈ります。貴女が自分を愛する為の、貴女が自分を誇れるような、胸の中に抱き締められる、自分だけの宝物。その心が帰る場所。――きっと、楽しみにしていてね。それが私の、初めての――貴女にしてあげられる、創造神のお仕事なんだから」
そうして、きっぱりと別離は済んだ。
女神は光の中へと進む。新たなる旅路へ踏み出していく。世界と世界を繋ぐ門が、一時の役目を終えて光が消える。
天使がそこに、佇んでいる。
「――――終わった」
これまで長い長い時を過ごした部屋で独り、天使は自らの席、異世界転生課職員の椅子に腰掛けて。
机を思い切り蹴倒した。
けたたましい音を立てて、これまでそこに積み重ねてきた諸々が、がらくたのように引っくり返った。
背凭れが軋みを上げる。
つまらない天井を見上げる。
「ようやく、ようやく茶番が終わった」
右手で目元を覆い、足を組み。
もう用済みで役立たずの部屋で、乾き切り疲れ切った笑いを漏らした。
「――――嗚呼! この眼を通し、ご覧になられておりましたか! 我が、最後の大芝居を! 我が、真なる創造神よ!」
否。
今こそ、大々的に、開放的に、享楽的に――――天使は誰に遠慮することもなく、いつまでも、いつまでもいつまでも恍惚と、大声で笑い続けていた。
「お手を拝借、いざ喝采ッ! これにて落着、大団円ッ! すべては神の言う通りッ!!!!」
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