四章(序)・11



 結局、市役所も辞めることにした。

 

 上司は便宜を図ってくれ、いくつかの選択肢を提示されはしたものの、とうの本人がどうしても気乗りしないとあっては引き止めるにも限度があり、結局、九月一杯で自己都合での退職という形を取った。


 同僚たちには随分と事情を聴かれはしたものの、まさか本当のことを言うわけにもいかない。適当な口実をでっち上げるのにはそれなりに苦労したが、そう引き摺ることもなく納得してくれた。


『ひとつの生き方にこだわりすぎなくてもいい』。

『やりたいと感じた別のことがあるのなら、試してみるのは面白い』。


 何と言っても、世暦時代――その認識は、実にあたりまえで説得力のあるものとして、世界中の人々に根付いている。

 行きつけの居酒屋を貸し切っての送別会で飲み明かし、残務と荷物の整理を終え。


 そうして田中は、異世界転生課萬相談課職員でも、異世界派遣調査員でもない、ただの田中になった。


「どうも、センセーっ」


 ――――それが、どうしてこのような、な呼び方をされているのかといえば、まあそれなりに事情がある。せせこましくて世知辛くて、如何ともし難くそれは切ない、黙ろうと眼を背けようと離れぬ理由わけが。


「原稿の進捗、いかがでしょうか?」


 田中は、人間である。

 息もすれば飯も食う、暑さ寒さを凌ぐ為の家は欲しいし、季節に合わせて服も着れば、お上に払う税もある。


 自らの決まりルールを持てる創造神様とはなんもかんもの条件が違い、とかく浮き世は金が要る。金の為には動かにゃならぬ――多少の無理を押してでも、生計たつきを得るが人の道。避けては通れぬ大荷物。


 つまり、さてと、要するに、だ。

 苦悶に面倒、洒落臭い。言語道断、笑止千万。


 書け。

 とにかく書け。

 嫌でも書け、吐いてでも書け、唸っても書け、気を狂わせながらでも書け。

 渋面と共に繰り返す打鍵が、何者でもない田中を生かす、明日の飯の種になる。

 

「――――みどりくん」

「はい」

「率直に言って、ヤバいね」


 神妙な顔に、

 成程と頷き、


「季節が変わる前に下山出来ればいいっすね!」


 周囲を取り囲む虫たちのざわめきが、一層に増した気がした。

 自然豊かに繁栄した山の中腹にある資材倉庫めいた二階建ての家屋は、通称が【筆箱】。

 美記翠みきみどり勤める編集部の編集長が個人的に有する、『作家が世俗の雑多と切り離され存分に己の作品へと没頭したい時、本人希望の元で貸し出される集中空間』(公式発表)である。


 しかしてその実態は勿論筆が遅い作家をアレやコレやして金のタマゴをポンさせる為の問答無用隔離施設だった。

 監禁ではありません。軟禁でもありません。同意書にはサインとハンコを貰っています。水も出るし電気もつく、冷暖房も他家具備え付け。食料品もばっちり用意で諸経費は全て編集部持ち、ぐうの音も出ないほどの至れり&つくせり。


 ただ周りには他に民家も無くバスも走らず最寄の駅まで徒歩二時間(個人差あり)なのが玉に瑕。

 しかし本当に恐るべきは、このような場所にも毎度各種生活必需品を平気な顔で運んでくる鉄腕山育ち編集であった。


「月並みな言葉ですが、ガンバっすセンセー! とーちゃん――っとと、編集長も今回、センセーが久しぶりに筆を取られるということで期待しているんっすから!」

「……まあ、ここまでやってくれてるわけだもんなあ」


 市役所を辞めた直後のことだ。

 数日も経たぬうちに、どこから話を聞きつけたのか、かつて世話になった美記六升みきろくます編集長から、田中へ連絡があった。


 ――――ヒマんなったんだってな、小僧。丁度いいや、その時間、俺に売れ。 


 あれよあれよという間に、とんとん拍子で整った。

 カタに嵌められた、のほうが正解かもしれない。

 殆ど攫われる形で年季の入ったバンに詰め込まれ、移動中の車内で書類に判を押し、ぽーいと投げ込まれるように新生活が始まったのだ。


 だから、何しろ、落ち込んでいる暇も無かった。

 そこのところには感謝すべきだろう。


 ――もし、あのまま、一人。

 田中が、それまでの中身を無くし、からっぽになったままだったならば。

 よくないことばかり、考えてしまっていたに違いないから。


「……とはいっても、別の意味で今、考えるのが非常に苦しいんだけどなあ……」


 身体と同じだ。

 思考も鈍る。

 長い間使わなかった部位、やり方、使い道は、刻一刻と衰える。現在の田中がろくに打鍵出来ないのは、かつての勘を取り戻しきれていないから、というのが理由として真っ先に挙がる。


「なあ、キミドリちゃん。僕、昔、どんなふうにして原稿書いてた?」

「あー! 懐かしいっすねそのアダ名っ!」


 あはははは、と翠は玩具のように笑い、


「そーっすねー! あたしが見てた限りだと、中学の頃のセンパイはー、周り中世界中――って具合でした! その完成品も含めまして!」


 だからあたしもとーちゃんも、センパイの作品に心底惚れたんっす!

 ……などと物騒なことを、まるで宝石でも眺めるように、宝物を自慢するように、美記翠は断言した。


「あははは、なぁるほどねぇ。……言っとくけど、キミドリちゃん。僕、君があのノートを盗んで編集長に見せたこと、今でもきっちり許したわけじゃないからね? そもそも君、一回もそのことで謝ってないよね?」

「はい! だって、世界を揺るがす傑作は、発掘してでも知らしめなきゃ勿体無いじゃあないっすか! 悪いことしたらごめんなさいですけれど、いいことしたら気持ちがいいですよね! あ! でもでも、あたしお礼は言いましたよね!? こんないいものを読ませてもらってありがとうございますっす、って! ね! センパイ、ねーーーーっ!」


 変わるものがある、一方で。

 世の中には、『よくもまあ今まで無事で』と呆れるほどにそのまんまで居続ける阿呆がいる。


 田中の知る限り、現在自分の担当編集であり、中学時代に二つ下の後輩だった変わり者、美記翠がいい例だ。

 その頃の自分は、まさかこんな日が来るなんて思ってはいなかった。

 いけ好かない、うざったらしいとしか思わなかった相手と、十年以上経った後にも仕事で付き合いがあることも。


 ――――夢でも、趣味でも、特技でもなく。

 ただの攻撃でしかなかった創作が、誰かに求められる飯の種になる日が来ることも。


「んじゃ、また明後日に様子を窺いに来ますっす! その時には是非――あの時みたいに、度肝を抜く傑作であたしを殺してくださいね、センパイッ!」


 手を振って下山する、編集だか後輩だか立場の曖昧な翠を見送る。

 二日振りに外に出た。


 空気を吸い込み、土の匂いを嗅げば、その気が無くとも意識する。

 自分がどこにいるのか。

 今、世界はどうなのか。


 深緑の季節が過ぎ、色彩の時期が来た。

 その懐に抱かれれば、町にいた少し前までよりも、更に身近に、鮮烈に、濃密に感じられる。


 赤く染まる葉。

 生る果実。

 肌を差す空気の冷たさ。


 ――――神様と居た八月から、二月と少しが過ぎた秋。

 古い呼び名をするなら、こうだ。


 神無月。

 神様のいない十一月。


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