第10話
私は七時に目を覚ます。
廊下を出ると、清掃スタッフの姿がある。通りがけに「おはようございます。昨日は勝ちましたか!」と快活な声をかけられる。その元気のよさをうっとうしく思いながら、「おはようございます! もう大勝でしたよ!」と返事する。
エレベーターに乗り込んで、ホテルを出る。霞ヶ浦沿いの道を歩き、凧の引っかかる木にたどり着く。
少し離れた場所では、猫背のおじいさんがすでにスケッチを始めていた。おじいさんはスケッチに熱中している。
私は腕を大きく広げた。その姿勢のまま木の幹を抱いた。私は樹皮が服や髪に絡まるのも厭わず、素早く幹をよじ登った。
私はコンビニで購入したカッターの刃を枝に仕込んだ。
木から降りた私は、次に橋の下で逆さまになっていたボートをひっくり返した。引きずったボートを川に浮かべる。
私の体重分ボートが沈む。横板からじんわりと水が漏れ始める。
タオルは一枚で十分に役割を果たしてくれる。私は服の下に巻いていた一枚のタオルで穴を覆った。
水漏れが、止まる。
私はタオルが剥がれないようボートをこいだ。
ホテルに着く。時間ははるかに短縮され、一時間十分を切っている。
乾いた草を押し分けて、ホテルの裏手にボートを係留する。
目を皿にして竹梯子を探した。草と同化した竹梯子は見つけづらいが、昨日よりは目処がついている。
――あった。
草からわずかに出ている竹を持ち上げると、周囲一帯の草が揺れた。二本の竹が大きくそそり立つ。
私は竹梯子を壁に掛けた。
あの人の従順性を思い出し、割れかけている段はあえてそのままにしておいた。もしこの竹梯子が犯行に使われたのではないかと疑われても、試しに昇った警官が段を踏み抜く。上手くいけば、使われなかったと錯覚させられるかもしれない。
手と足を掛けて、竹梯子を昇る。最上部にたどり着くと、壁の反対側に竹梯子を回した。
これで竹梯子はホテル側に移動した。時刻を見る前に地面が揺れる。地震だ。だからいまは九時十分。
私は少し身体を休める。
食事をし、十時になったら道を戻った。
私は足音を殺して背後に回り込んだ。絵に熱中している猫背のおじいさんは私に気がつかなかった。手の届く場所にスケッチ箱がある。その上にデジタル時計。表示されている時刻は……、
十一時。
私はそっとデジタル時計を持ち上げて、時刻を変えた。表示時刻を十二時にして、いったん離れた。
今度は足音を立てておじいさんに近づいた。
「どうしてスケッチ対象に背を向けてるんですか?」
「このまま描いても面白くないじゃろ?」
「現実と違くなっちゃいますよ」
「違くも描けるから絵は面白い。アクション映画もCGを駆使した方が激しくなる。見合い写真はフォトショで加工した方が美しく見える。いまなら自宅で簡単に腰のまっすぐなナイスミドルになれる。二十一世紀はコルセットなんか要らないんじゃ!
わしも、長い間猫背矯正ギプスをつけていた。これでは体調が悪くなると、医者の勧めに従って、毎日強制ギプスをつけて暮らした。しかし、その結果はどうだと思う?」
「さあ?」
「なんと、前以上の猫背になったのだ! 大リーグボール養成ギプスのように、バネにも負けない強じんな猫背。わしの猫背にかなうコルセットは、この世に存在しない!」
「生活から改善するべきでしたね」
「それは無理な相談じゃな。今日も六時からずっとこの姿勢をキープしている」
「はあ、六時からですか」
そして猫背のおじいさんが言う。
「ちなみにいま何時じゃ?」
「……十二時ですよ」
「ほんとか?」
おじいさんが時計を見る。私はその一挙手一投足を見守る。おじいさんが視線を上げた。
「……ほんとじゃった」
「でしょう?」
猫背のおじいさんが再度スケッチに取りかかる。
私は急いでホテルに戻る。十二時を回り、部屋を出る準備を整える。下ろしていた髪は軽くかき上げ、盛り気味にする。白いだけのなんの記憶にも残らない服装に着替え、出刃包丁は背中に隠す。
ひやりとした冷たい感触が背中に広がる。鏡でチェックし、外から見ても出刃包丁の形が浮き出ないのを確認する。
エレベーターが下がる。私はロビーを回り、カジノへ向かった。スマートフォンを開き、時刻を調べる。
十二時二十七分。早すぎず、遅すぎず。最適な時刻だった。
カジノの門に近づく前に、私は意図して歩調を緩めた。
「僕はカジノをやりに来たんだ!」
遠くで騒ぎが始まり、私は足を速めた。複数の客が通りしな、騒ぎを起こした人物に目をやった。騒いでいる人は幼い顔に髭を生やしている。二人のフィジオに捕まれて髭だけが落ちた。その落ちた髭を群衆の一人が踏む。男はもうおしまいだと、ひときわけたたましく叫んだ。
フィジオの視界の外から門を通る。ホールに入っても、監視カメラに写らないよう移動する。私は素早く『スタッフ専用口』の扉を開けた。
しんとした静寂が廊下を支配していた。
息つく暇もなく、私は早足で歩く。
角を曲がってすぐ『スタッフ専用口』の開く音が背後から聞こえた。
逸る心を押し殺し、速まる足を押しとどめ、それでも気分だけは疾風のように先を行く。
最後の角を曲がる。
ようやくリネン室の扉が見えた。
中に入ると、軽く手を添えてスイングドアの動きを止めた。
スイングドアが開く。あの人の呼吸を背後に感じながら私はゆっくり振り返る。
「天田夜です」
簡潔な自己紹介。
あの人の返答も簡潔な言葉。
「……ずっと待っていた」
「一緒に来てもらえますか?」
「行こう」
あの人はそう言ってリネン室を出る。私は廊下に出て、あの人を追い越す。目指した場所は、突き当たりの非常口。
竹梯子を指さす。軍手を渡し、「ここの段は外れかかっているから気をつけてください」と言う。あの人は従順に指示に従う。
竹梯子を使って、壁の反対側にたどり着く。そしてそのままボートに乗った。
やっぱりあの人はなにも言わない。
腰を落ち着けて、オールを動かす。私たちは桜川を素早く渡る。対岸にボートを留め、土手を上がり、今度は揺れない道を使って、まっすぐアパートへと向かう。
高い足音を招く階段を上がり、あの人の部屋を指さした。
「開けてもらってもいいですか?」
あの人は言われるままに鍵を外す。
私はあの人の部屋に入る。
そして出刃包丁を手に握り、
あの人の背中に突き刺した。
「これが終焉です」
「……」
あの人は満足そうに倒れる。布団のない部屋の、きっと毎夜寝るときの位置に、あの人は音を立てて倒れ込む。
スーツで返り血を防いでから、あの人の細い頸動脈を切断する。
ぷんと死の香りがし、
私はそっと立ち上がった。
あの人の死体を外に出してから、私はボートに戻った。
桜川を渡りながら、証拠の品を沈めてゆく。
漏れを防いでいたタオルも捨てた。
水が漏れ始める。タオルでふさがれていた鬱憤を晴らすように、水は着実な進攻を続ける。
ようやくホテルの裏手に着いた。私は沈みゆくボートから脱出した。私がいなくとも、ボートに溜まった水が重量となった。水は独りでに増えていく。
ある程度水が溜まったのを確認して、ボートを蹴った。靴の跡をつけずに、何度も同じ箇所を蹴った。感情を込めず、淡々と蹴り、一箇所に力を重ねていった。
ボートが緩やかに岸から離れる。ゴボリと大きな音が鳴ったかと思うと、ボートは日本有数の汚さを誇る霞ヶ浦の水底に沈んでいった。
三度、竹梯子を掛け、私は壁を乗り越えた。用済みになった竹梯子を壁から離す。歩きやすいホテル側の道で、ぐるりと入り口に回る。ロビーを通り、フィジオに見られる。私は現金とチップを交換し、それからスロットを回した。
十三時五分。スロットを止めてホテルを出る。
湖沿いの道を歩く。古ぼけた帽子の男も、目つきの悪い少年たちにも私は会わない。それでもスケッチをしている猫背のおじいさんはまだそこにいた。私はおじいさんに気がつかれないよう忍び寄り、時計を元の時刻に戻した。
これでよし。
これで全てが終わった。
最初に思いついたデジタル時計のトリックと、後に思いついたボートの移動トリック。この二つのトリックを合わせるのが、私のアイディアだった。
デジタル時計のトリックを見破った肌鰆喜一郎は言った。
『無関係の第三者を証言者に仕立てる。その発想は見事だったがね。手口は陳腐だ。芋洗君が真面目な捜査をしてくれれば、本来僕の頭脳を煩わせる必要などなかったのだ』
ボートの移動トリックを見破った肌鰆喜一郎は言った。
『ボートでショートカットし、乗り物は廃棄する。手口は馬鹿馬鹿しくて面白かったがね。発想は陳腐だ。芋洗君が真面目な捜査をしてくれれば、本来僕の肉体を煩わせる必要などなかったのだ』
互いに欠点を持つ二つのトリック。それを合わせると、二つの欠点が補われる。見事な発想と手口の、大きな一つのトリックができ上がる。
もちろん、不安がないわけではなかった。現に肌鰆喜一郎は二つともトリックを解いている。もしも彼がその気になれば、この大きなトリックだって解かれるだろう。
だから肌鰆喜一郎に事件解決の依頼が行かないようにする。
つまり、言葉を費やして納得させる相手は肌鰆喜一郎ではない。
私は芋洗是近刑事だけを徹底的に納得させるべきなのだ。
十六時にノックの音が鳴る。ドアを開ける前に、私は強く自分に言い聞かせた。なにを主張するべきか。どう思わせるべきか。イメージが一つの形になってから、私はドアを開けた。
「あれ? 猪去さんじゃないですか」
「問題が発生してね。いまは時間、大丈夫かね?」
私は頷いて半身ずらす。猪去が部屋に入り、芋洗刑事が後に続く。芋洗刑事は通りしなに私の顔をじっと見た。私はあえて不思議な顔を浮かべて芋洗刑事の顔を見た。
……眉の傷口は、閉じている。
「彼は、当ホテルのお客様でもある芋洗是近さん。刑事だ」
「昨夜、レストランで会ったな」
「刑事さんだったんですか。どうもこんにちは」と私は芋洗刑事に向かって腰を曲げる。
「最初に、天田君に言わなくてはいけないことがある。前から君のことを知っていた。星君との関係を知っていて、それでも君を雇ったのだ」
「……興味深い話ですね。どうして雇ってくれたんですか?」
「理由は二つある。一つは、その……星君は、どういうわけか君を殺さなかった。婚約者も含めて全員殺しているにもかかわらず、だ。私には殺人者の気持ちなど理解できないが、彼は君を殺せないのだと思った」
「……あと、もう一つはなんですか?」
「何十年も前の話だ。私は生まれて初めてカジノに行った。場所はラスベガス。ビギナーズラックでどのゲームでも勝ちまくっていた私は、気をよくして遅くまでいた。0時を超えたとき、大人のためのショーが始まった。全裸に近い格好で踊るショーガールたち。彼女たちは全員美しかった。私は胸をときめかせた。それはハリウッド映画の光景だった。興奮した私は、彼女たちを見ているうちに、大切な事実に気がついた。ショーガールは美しいだけではなかったのだ。みなキラキラと輝いていたのだ。その輝きがカジノをより華やかにさせていた。私は、見たかったのだ。星君に家族を殺された君が、星君の前でキラキラと輝いて踊るのを、ただ見たかったのだ……」
「そうだったんですか……」
「先ほど、星君は死体となって発見された」猪去は力なく呟いた。「病死でなければ、自殺でもない。星君は明らかに殺されていた。刺殺されていたのだ」
「本題は私から言う。十二時半から十三時の間だ。君はどこでなにをしていた?」
芋洗刑事が問う。
「その時間帯だと……うーん、はっきりしたことは言えませんけど、多分散歩してたかなあ?」
「何時にどこを歩いたか、可能な限りで教えてもらえると助かる」
私は眉をひそめ、記憶をほじくる振りをした。
「多分、ここを出たのは十一時ぐらいです。国道125号沿いに歩いて、向こうにレンタルボート店がありますよね? あそこで湖側の道に回って、それで、あ、そうそう画家のおじいさんに会いました」
「画家のおじいさん?」
「そうです。すごい猫背のおじいさんで……」
「すごい猫背。それなら馬橋氏だ」
「ババシシ……? 有名な人か?」
「昔は水墨画で生計を立てていて、いまは趣味でしか描いていない。表彰されていたから住所は市の方で把握していると思う」
「証言者としては申し分ないな。問題は時刻を覚えていればだが」
私はそのタイミングで嬉しそうにしてみせた。
「それなら大丈夫ですよ。だって私、おじいさんに時間を訊かれましたから。ちょうど十二時でした」
「それは君の時計で示したのか?」
「いえ、おじいさんの持ってる時計を、代わりに読んであげたんです」
猪去が芋洗刑事の顔色を窺った。芋洗刑事は一つ頷いた。
私はそのタイミングでさらに追い打ちを掛ける。
「カジノに戻ってきたのが多分十三時前ぐらいかなあ? よく覚えてませんけど、スロットをしていたような」
「スロットか。どの辺だ?」
私は口頭でスロットマシンの位置を伝える。
「ふむ。とりあえずまとめると、君は十一時にホテルを出て、馬橋氏と十二時に会話をする。十三時前にはホテルに戻って、スロットマシンで遊んでいた、と」
「そうです」
「……そうか」
芋洗刑事はこう呟いた。その姿に私の台詞が頭に引っかかっている感じはない。
ただ情報を受け入れているだけの姿勢……に、見えた。
「またあとで話を聞きに来るかもしれん」
二人は慌ただしく立ち上がった。
ドアをくぐっても、芋洗刑事はなにも言わなかった。
私は静かに時を待つ。日が暮れて、夜遅くなっても、不思議とお腹は減らなかった。置物になったように、スイートルームのベッドの上で、私は座って待っていた。
警察が事件に対してどう考えるか。
捜査状況を私は想像する。
『十二時半まで被害者がブラックジャック席にいたことははっきりしている。そして、サイキ・グランド・ホテルから被害者の自宅に行くまで、徒歩では片道三十分かかることも分かっている。
被害者はどういうわけか、勤務の途中で家に帰った。誰かに呼び出されたのかもしれないし、体調が悪くなったのかもしれない。
被害者は十三時までに自宅へ戻り、そして殺害された。
死亡推定時刻は、十二時半から十三時の間。被害者は、加害者の車で移動したのかもしれない。それなら十分ほどで現場に行ける。被害者が自宅で殺害されたのは現場状況から間違いない。よって、より限定的な死亡推定時刻は十二時四十分から十三時の二十分間となる。
被害者は空虚な人物で、特に親しい人間はいない。(多分)好かれてもいないが、嫌われてもいない。現場付近にいた、唯一強力な動機を抱く容疑者は、十二時五十分から十三時過ぎまでスロットを回している。その映像は監視カメラに捉えられている。
この容疑者はホテルから歩いて五十分かかる、現場とは反対側の場所で善意の第三者と時間を確認している。そのとき確認した時刻は十二時だった。
この容疑者は免許を所持しておらず、車での移動は考えにくい。また、この容疑者に限り、自転車での移動は考えられない。タクシー会社とバス会社からの報告次第で容疑者の十二時から十三時までのアリバイは成立すると思われる』
……日付が変わる。
誰もドアを叩かなかった。それでも、まだ気持ちは休まらない。
芋洗刑事がどう考えるか、そこに私の未来がかかっている。
負けた客の腹いせとでも考えてくれれば……。
猫背のおじいさんのデジタル時計は、一度は見破られたトリックだった。しかし、あのときでさえも私が時刻を変更したという直接的な証拠はなかった。天田夜にはこういうこともできたという仮定の話に過ぎなかった。
もし、おじいさんの証言が怪しいと疑われても、どのみち私は十二時五十分から十三時の間、カジノの監視カメラに写っている。
十二時半にカジノから出たあの人を殺し、十二時五十分までに戻る。あの人が車の免許を持っていて、行きは私がそれに乗ったと考えても、帰りの道は徒歩になる。その帰りの道筋だって、結局三十分かかるのだ。
十二時五十分までに犯行を終えた私がカジノに戻った。そう考える証拠はなにもない。
ボートの移動を見破られたとき、肌鰆喜一郎は依頼だと言った。
それはつまり、芋洗刑事が私に不信感を抱いていたという意味だ。どうして不信感を抱かれたのか。それはトリックが盤石でなかったからだ。一箇所さえ切り崩せれば、一番怪しい私をしょっ引ける。芋洗刑事は退室するたびに、そう考えていたのだ。
矛盾が一つしかなければ、動機を持つ私が犯人でしかるべきだという願望が強まり、なんとか矛盾を解こうとする。芋洗刑事は、かもしれないを既成事実にしてしまう。
しかし矛盾が二つもあれば証言の絶対性は増す。かもしれないはありえないになる。
言い換えると、芋洗刑事は納得するのだ。私は犯人ではないと納得する。
……朝の三時になった。
食欲もない。睡眠欲もない。私が望んでいるのは、無事に朝を迎えることだけ……。
何事もなく次の一日が始まって欲しい。
黒かった空が青くなる。陽の出る場所が赤くなる。光が空を赤く染める。
芋洗刑事は来ない。肌鰆喜一郎だって来ない。
私は無事に犯行を終えたのだろう。
しかし、充実感はない。最初は殺すたびにふさがっていた穴が、いまは殺すたびに広がっていた。
生の感覚が得られない。
楽しみが遠い。
新しい人生が訪れない。
浄化されても逮捕されていた日々を念頭に置くと、トリックが上手く働いた証は、いまのこの感覚によっても裏づけされていると考えられる。
なにしろ、ようやく殺害を成功させたのに、私は浄化されていないのだから……。
ああ、ついに7時1分だ……。
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