第9話

 終焉の私が名乗ることで、死を願う星定男の行動を制御できる。それが私の発見だった。

 この法則が常に発動するかを調べたい。

 十二時半、私はリネン室にいた。誰の印象にも残らないよう先回りし、リネン室の中央で待っていた。

 スイングドアが開く。あの人の呼吸を背後に感じながら私はゆっくり振り返る。

「天田夜です」

 昨夜と同じ簡潔な自己紹介。

 あの人の返答も簡潔な言葉。

「……ずっと待っていた」

「一緒に来てもらえますか?」

 ディーラーの休憩時間は三十分しかない。断られれば日付が変わるまで待つしかなかった。

 一方で私には確信もあった。

 星定男が最も優先するものはなにか? それを考えれば、分の悪い賭けではなかった。

「行こう」

 あの人はそう言ってリネン室を出た。私は廊下に出て、あの人を追い越した。目指した場所は、突き当たりの非常口だった。

 錆びた扉を抜け、壁伝いに私たちは歩く。

「ここ数日、あなたを尾行していました」

「……そうか」

 桜川沿いの毎日行き来する道を、あの人は黙ってついてくる。私はまっすぐアパートへ向かう。高い足音を招く階段を上がり、あの人の部屋を指さした。

「開けてもらってもいいですか?」

 あの人は言われるままに鍵を外す。

 私はあの人の部屋に入る。

 そして出刃包丁を手に握り、

 あの人の背中に突き刺した。

「これが終焉です」

「……」

 あの人は満足そうに倒れる。布団のない部屋の、きっと毎夜寝るときの位置に、あの人は音を立てて倒れ込む。

 出刃包丁はまだ抜かない。壁に掛かっていたあの人のスーツを、私は返り血避けにした。傷口を覆って、静かに出刃包丁を抜き、そしてまた、静かに出刃包丁を振るった。

 何度も何度も傷口をえぐった。

 ぷんと死の香りがし、

 私はそっと立ち上がった。

 私はアパートから離れた。

 あの人の死体はそのまま部屋に放置した。

 指紋を残さないよう気をつけて、スーツで出刃包丁を包む。そこらに転がっていた石を重しにして、一連の物証を湖に沈めた。

 霞ヶ浦は広いだけでなく、浅い。証拠はすぐに見つかるかもしれない。しかし、見つかったところで私につながる証拠でもない。水はなにもかも洗い流してしまう。

 ホテルに戻り、時間を確認する。十三時三十分だった。犯行は二分ぐらいで終わったので、片道三十分と考えて問題ない。

 カジノには行かなかった。

 私はロビーを通って、直接部屋に戻った。

 十三時にあの人が戻らないと、一緒に働いていたディーラーはどうするのだろう?

 死体が発見されるのは何時だ? 私のアリバイが訊かれるのは何時になる?

 私は訪問者を待った。


 猪去と共に芋洗刑事が私の部屋を訪れたのは、二十二時に近い時刻だった。

 ディーラーの一人が、仕事が終わってからあの人のアパートに様子を見に行く。死体はそうやって見つかった。

「十二時半から十四時半の間、どこにいた?」

 特に思いつく場所はない。私は自室にいたと答える。芋洗刑事は疑いを隠そうともせずに追及を強めた。

 そして私は留置所に押し込まれた。

 十二時半から十四時半、か。

 十二時半は休憩時間から出した数字に違いない。一方の十四時半は死亡推定時刻から導き出された時間のはずだ。

 二時間はさすがに長すぎる。アリバイ工作をするにしても、もっと時間を狭めなくてはいけない。

 そのためには、アパートの死体を、もっと早い段階で、誰かに発見してもらわなくてはいけない。


 次の殺人で、私はドアを開け放したままアパートを去った。ドアが開いていれば誰かの目につく。そう思っていたのだが、結局芋洗刑事が部屋を訪れたのは昨日と同じ時刻だった。ああもボロいアパートでは、たとえドアが開いていても誰も覗かないというわけだ。

 ドアを開けたままでダメならばと、次の殺人では死体を部屋から出してみた。通行人がちょっと顔を上げれば見える位置に、死体を設置した。

 このアイディアは上手くいった。芋洗刑事と猪去は私にとってはなじみ深い、十六時をちょっと回った時刻にやって来た。

「十二時半から十三時の間、どこにいた?」


 死亡推定時刻が三十分にまで狭められている。これならアリバイ工作がしやすい。

 では十二時半から十三時の間、実際に私はどこにいるべきだろうか?

 十二時半にホテルを出て、あの人の部屋に行く。死体を移動し終われば十三時。余計なことをする時間はもうない。

 どこかで、移動時間を短縮できないだろうか。

 私はホテルとアパートを隔てている、桜川に注目した。

 橋で桜川を渡るから片道三十分もかかってしまうのだ。もし橋以外の手段で桜川の先端を渡れれば、片道十分もかからないはず。往復二十分でホテルに戻れる。


 七時に目覚めた私は、国道125号沿いに歩いた。目的は橋の向こうの一つのお店だった。店に着き、その看板を私は読んだ。

『レンタルボートうだがわ』

 小屋には古ぼけた帽子をかぶった男がいる。パイプ椅子にまたがって、新聞で顔を隠している。男は新聞をたたみ、煙草をくわえたまま私に言う。

「一日二千円」

 私は二千円を支払った。

 借りたボートは普通の手こぎボートだった。足を乗せただけでボートが揺れる。重心が安定してから腕を伸ばし、思いっきりオールを動かした。

 腕力だけで移動するのだから当たり前といえば当たり前だが、ボートをこぐのは、歩くよりもはるかに疲れた。

 風景を楽しむ余裕はなかった。この冬の気候で、出しっ放しの手先が冷たくかじかんだ。それでも顔からは汗が流れている。常に吹く霞ヶ浦の風が、死体と同じ温度になるまで私から熱を奪っていった。

 ホテルが見えて、汗をぬぐう。七時五十分にこぎ始め、到着したのは九時半だった。徒歩の倍近い時間がかかっている。こぎ方に熟練すれば、この時間はもっと短縮できるだろう。

 ホテルを通りすぎ、桜川まで回り込む。今日も背の高い植物が、冬に精気を奪われて灰色になびいていた。私は植物の隙間を縫って、ボートを止めた。

 部屋に戻って十二時半まで休む。芯まで冷えた身体を、温める必要があった。温かくなると眠くなる。私は無理矢理身体をベッドから出して覚醒した。

 身体に悪い生き方をしている。そう思って、そのいまさらな発想に一人で笑った。


「天田夜です」

 リネン室で名乗って、私はあの人を非常口から連れ出した。

 桜川へ行き『うだがわ』と書かれたボートを指さす。

 あの人はなにも訊ねず、ボートに乗った。

 遠くからなら、私たちはデート中のカップルに見えるだろう。

 ……あの人も姉とボートに乗ったことがあったのだろうか?

 私は要らぬことを考えたと、首を振った。そんな私を、あの人は静かに見ていた。

 対岸に着いたところで、私たちはボートを下りる。

 昼でも薄暗いアパート。死者しか住まわないあの人のアパート。

 私は無言であの人を刺す。死体を道路から見える位置まで転がす。

 一つ一つ、作業を進める。

 土手を歩き、係留していたボートを動かす。ボートは霞ヶ浦を滑るように移動する。川の中程まで来たところで、出刃包丁とスーツを沈める。ここなら土手近くよりも発見しづらい。

 対岸に着いて、時刻をチェックする。

 狙い通りの十二時五十分だった。

 私はカジノに戻って、現金とチップを交換した。

 スロットマシンの前に座る。

 スロットをすることで、監視カメラに写るのが目的だった。

 十三時を過ぎ、念のためもう五分取って、ゲームを終える。先ほどと違う窓口でチップを換金する。あとはフィジオに極力見られないようにカジノを出る。

 犯行時刻の間だけ、ぴったりカメラに写っていれば、アリバイ工作を疑われる。そのための五分だった。十三時五分以降は、ゲームこそしていなかったものの、カジノの雰囲気を楽しんでいました。私は芋洗刑事に追及されれたとき、そう証言するつもりでいた。

 ボートに戻った私は、残された力を振り絞ってオールをこいだ。念のため帰りの時間も計った。行きのタイムは一時間四十分だった。このボートにも大分慣れてはきたものの、殺害と工作で疲労は深い。腕が震え、思い通りにこげなかった。

 結局帰りも一時間四十分かかった。まあ疲れてこのタイムなら、翌日はもっと短く済むだろう……。

 いつしか私は失敗すること前提で時間を計っていた。


 十六時に芋洗刑事と猪去がやって来る。

「十二時半から十三時の間、どこにいた?」

「ええと、よく覚えてませんけど、十三時はスロットをしていたような」

「スロットか。どの辺だ?」

 私は口頭で座っていたスロットマシンの位置を伝えた。

 二人はただ去った。夕食の予定は訊かれなかった。

 次にノックがあったのは、十八時だった。

「十三時前後に君がカジノにいたことははっきりした」

 芋洗刑事の話は終わらない。悪い話に続くのが、眉の傷口のうごめき方から分かった。

「『レンタルボートうだがわ』」

 芋洗刑事が言った。

「君は朝早くあそこでボートを借りた。聞き込みをした店員が覚えていたぞ。そして長い間桜川にボートが係留していたのを目撃している人もいた。君は十三時にカジノにいた。だが、確認できたのはそれだけだ! 君は十二時半から十三時の間、どこにいた!」

 二回目の追及は激しかった。

 私は何度も怒鳴られながら、あそこに留めるとボートは見られてしまうのかと簡単に考えていた。


 芋洗刑事の台詞から、目撃者が桜川のどこでボートを見たかが分かった。

 、係留していた。

 アパート側に留めていたのは十分ぐらいと長くない。つまり、ボートが目撃されたのはホテル側の岸のはずだ。言い換えれば、アパート側に留めている間は目撃されなかったのだ。

 ホテル側のボートの係留場所を変えよう。もっと人目のない場所に留めなくてはいけない。

 考えるべきことはもう一つあった。

『レンタルボートうだがわ』でボートを借りると、店員に顔を覚えられてしまう。聞き込みで私がボートを借りたと分かり、そこから移動トリックがバレる。

 どこかで使っていないボートを盗めればよいのだが……。

 願望を言語化した瞬間、ある一つの光景が浮かんだ。

 そこは『レンタルボートうだがわ』のそばだった。私が霞ヶ浦に来て、初めて『うだがわ』の文字を目にした場所でもあった。

 ……穴の空いたボートだ。

 橋の下に転がっているボート。あれを利用すればよい。

 店員が具体的になんて言ったかを遠い記憶から呼び返す。

 ――水が漏れて沈むよ。

 漏れて、ということは、穴はそこまで大きくない。

 私はベッドから立ち上がり、ホテルのタオルをキャリーバッグに詰めた。

 コートの前を合わせ、冷たい風の中を行く。

 橋近くの土手を降りる。今日もボートは逆さまだった。ひっくり返すと、オールがボートの下から転び出た。私はボートを引きずり、川に浮かべた。

 しばらくボートの様子を確認する。

 ……沈まない。

 私はボートに足を乗せた。

 私の体重分ボートが沈む。それと同時に横板からじんわりと水が漏れ始めた。

 確かにこのボートで金を取ることはできまい。しかし、この程度の穴ならばタオルでふさげば……。

 キャリーバッグからタオルを取り出す。穴があるとおぼしき箇所を、湖の水でいったん濡らしたタオルで覆った。穴の程度によっては複数枚必要かと部屋のタオルを全部持ってきていたが、タオルは一枚で十分に役割を果たしてくれた。

 水漏れが、止まる。

 私は濡らしたタオルが剥がれないようボートをこいだ。一夜明けると筋力も蘇っている。こぐ力がストレートにオールにつながる。風が髪を揺らす。湖を切るスピードが速い。

 サイキ・グランド・ホテルが見えてくる。

 時計を見ると、一時間二十分を切っていた。

 ホテルの近くで、長時間ボートを留めていても不審に思われない場所を探す。人がおいそれと来られない場所だとなおよかった。

 乾いた草を押し分けて、ホテルの裏手にボートを係留する。ここなら道に面していない。

 見上げれば、トタン屋根がボートに影を作っていた。この屋根のおかげで、宿泊客の目も避けられる。

 あとはあの竹梯子も必要だ。私は目を皿にして竹梯子を探した。ホテルの裏手はどこも似た景色で、竹梯子を探すのは一苦労だった。それでもしらみつぶしに探していけば、いつかは見つかる。

 ――あった。

 草からわずかに出ている竹を持ち上げると、周囲一帯の草が揺れた。

 二本の竹が大きくそそり立つ。

 私は竹梯子を壁に掛けた。

 もう二度と昇るつもりはなかった竹梯子。しかし、いまはこれが必要だった。

 あのときの恐怖を思い出し、割れかけの段は前もって壊しておいた。

 手と足を掛けて、竹梯子を昇る。最上部にたどり着くと、壁の反対側に竹梯子を回した。

 ホテル側の地面に足が着く。

 まだ時間に余裕がある。

 私は体力を蓄えるために少し寝た。


 十二時半。リネン室であの人と会話する。

「天田夜です」

 名前を告げると、あの人は大人しくついてくる。私は非常口を出て、竹梯子を指さした。

 さすがに竹梯子は怪しいかも。そう思ったが、あの人はなにも言わずに従った。まあ、仮について来なかったとしても、次の日に違うやり方で誘えばよいだけの話なのだから、そこまで真剣な心配はしていなかったが……。

 ささくれているからという理由で、事前に買っておいた軍手をあの人に渡す。指紋の問題はこうして解決する。

 竹梯子を使って、壁の反対側にたどり着く。そしてそのままボートに乗った。

 やっぱりあの人はなにも言わない。

 腰を落ち着けて、オールを動かす。私たちは桜川を素早く渡る。対岸にボートを留め、土手を上がり、今度は揺れない道を使って、まっすぐアパートへと向かう。

 階段を上がる。鍵を開けてもらう。

 そして私はいつもより素早く星定男を殺害する。

 肋骨の隙間を狙い、スーツで返り血を防いでから、あの人の細い頸動脈を切断する。

 死の香りがぷんと漂う。

 あの人の死体を外に出してから、私はボートに戻った。

 桜川を渡りながら、証拠の品を沈めてゆく。

 漏れを防いでいたタオルも捨てた。

 水が漏れ始める。タオルでふさがれていた鬱憤を晴らすように、水は着実な進攻を続ける。

 身体を濡らしては最初の犯行の二の舞となる。私は座る場所を調節して、身体を濡らさないようにした。

 ようやくホテルの裏手に着いた。私は沈みゆくボートから脱出した。私がいなくとも、ボートに溜まった水が重量となった。水は独りでに増えていく。

 ある程度水が溜まったのを確認して、ボートを蹴った。かなり力を入れなくては、ボートは動かなかった。靴の跡をつけずに、何度も同じ箇所を蹴った。感情を込めず、淡々と蹴り、力を一箇所に重ねていった。

 ボートが緩やかに岸から離れる。ゴボリと大きな音が鳴ったかと思うと、ボートは日本有数の汚さを誇る霞ヶ浦の水底に沈んでいった。

 たくさんの証拠が消え去った。

 でも、私の工作は終わらない。

 三度、竹梯子を掛け、私は壁を乗り越えた。用済みになった竹梯子を壁から離す。歩きやすいホテル側の道で、ぐるりと入り口に回る。ロビーを通り、フィジオに見られる。今日は覚えられても構わなかった。私は現金とチップを交換し、それからスロットを回した。

 ボートは沈ませたので、返しに行かずに済む。余った時間を利用して、私は怪しまれない程度に長時間ゲームをプレイした。

 二時を過ぎた。もう十分だろう。

 私はチップを換金した。資金は半分にまで減っていた。

 自室にこもって時間を待つ。十六時を回り、そろそろだなと身構える。

 細胞の隅々まで警戒心が行き渡っている。自然体に近づけるため、ストレッチする。

 ドアが叩かれる。

「あれ? 猪去さんじゃないですか」

「おや、身体を動かしてたのかね?」

 猪去が言い、背後の芋洗刑事が顔を出した。

 その眉の傷口は、……開いている。

「カジノを楽しみすぎちゃって……。身体が鈍らないようにしておかないと」

「それはよい心がけだ」

 猪去は嬉しそうに頷いた。

「それで、どうかしましたか?」

「悪いが、部屋に入らせてもらうぞ」

 いきなり芋洗刑事が言って、返事も待たずに中に入った。

「彼は当ホテルのお客様でもある芋洗是近さん。刑事だ」

「さっきまでオフだったがね」不機嫌な口調でつけ加える。

 芋洗刑事が不機嫌で、その眉の傷口が開いているとき。それは私に嫌疑がかかっているときだった。

 猪去が星定男との関係を指摘し、死体が発見されたと伝える。

「十二時半から十三時の間、どこにいた?」と芋洗刑事。

「ええと、よく覚えてませんけど、十三時はスロットをしていたような」

「スロットか。どの辺だ?」

 私は口頭でスロットマシンの位置を伝えた。

 芋洗刑事は不審げな目を最後まで浮かべて部屋を出た。

 一回目の訪問はこうして終わった。

 スロットをプレイした時間は長かったが、それでも十二時半から十二時五十分までの間、私にはアリバイがない。

 前回の失敗を踏まえて、ボートの隠し場所は変えた。使った品は霞ヶ浦に沈めた。

 その結果、私のアリバイはどう判断されるのだろうか? 少しでも怪しまれれば、芋洗刑事は強引な口実を作ってでも私をしょっ引きに来るだろう。

 十八時を回る。芋洗刑事は来ていない。

 十九時。来ない。

 二十時。まだ来ない。

 二十一時。もし湖の捜索をしたとしても、この暗さではそろそろ諦める時刻になる。

 もう大丈夫だろうか? アリバイ工作は成功したのだろうか?

 希望にすがろうとする私と、いざというときに絶望しないよう無感覚でいる私が交互に現れる。

 そして、二十二時になったとき――、

 あの男が現れる。

 夕食を口実にしなくとも、肌鰆喜一郎は当然の顔をしてやって来る。

「君が天田君か。こんな遅い時間にやって来たからといって、なにもそう不安そうな顔を浮かべなくともよい。僕はあの無能なる芋洗刑事の紹介でやって来た有能なる名探偵、肌鰆喜一郎という一廉の人物だ」

「は、はあ……」

 無理矢理部屋に入る肌鰆喜一郎。その図々しさに、演技ではない困惑が浮かぶ。

「そう露骨に怪しまず、さっさと僕を信用したまえ。大体警察の友人がいる長所なんてものは、初対面の人間に信用されるところにしかないのだ。だから君は僕を信用しなくてはいけない。この理屈は分かるね?」

 相変わらず全然分からなかった。

「フリーメイソンの友人がいる人よりは信用できますね」

「だろう? まあフリーメイソンの友人もいるにはいるのだが、となると彼との関係は不都合だな。よし、今日から彼との友情を捨てよう。もう二度と一緒に食事しないし、来年からは年賀状だって返信しない。さあ、これで君はなんの問題もなく僕を信用できるな」

 本人の人間性が一番信用できないのだが……。

「ところで、僕が来た理由だが、もちろん事件に関係あるから来たのだ」

「事件って、星さんの事件ですか?」

 肌鰆喜一郎は指を大げさに鳴らす。

「ザッツライ! そのホなんとか君の殺人事件だ。僕はいまこそこうしているが、実際のところバカンス真っ最中の身だ。ずっと事件なんざ糞食らえという気持ちでバカラ、クラップス、ルーレット、キノと一日中勝ちに勝ちまくっていた。スロットだけは絶対にしないがね。そんな僕でも芋洗君に泣きつかれてしまうと、助けずにはいられないのだから、まったく自分でもこの身体を流れる高潔な血には参ってしまうよ。彼がなんて言って泣きついたか想像できるかね? 彼は助けて喜ノえも~んとあのゴツい図体で言うのだ」

「私の興味としては、それはどちらの声優のニュアンスで言ったのかが気になるところですね」

 この返答はそれなりに受けた。

「ははは。まあ正確には、助けてほしいならモノマネでもしろと、僕が無理矢理言わせたのだが」

 言ったのは本当だったのか……。

「と、まあ彼がモノマネなんかして僕を楽しませてくれたせいで、わざわざこの時刻、冬の寒い夜をあっちに行ったりこっちに行ったりする羽目になってしまったのだ。まったく、面倒くさいことこの上ないぞ。まさかあの無能なくせにプライドだけはやたらと高い芋洗君がモノマネをするとは思わなかっただけあって、実際にされてしまったら、こっちも約束を破るわけにはいかないじゃないか」

「ってことは、この訪問も捜査の一環なんですか?」

 肌鰆喜一郎は首を振る。

「いや、。世間的には、名探偵の関わる事件は、地道な捜査ではなく、突飛な発想こそが解決の糸口だとばかり思われている。しかし、僕から言わせてもらえればそんなものは二流の探偵によるくだらない選別に過ぎん。名探偵ならば、どんな事件でも解決しろというのに、やれこの事件は僕が出る幕ではない。面白くなさそうな事件だ、と。エピソードの一つに無理矢理押さえ込んでしまうのだ。どんな仕事でも名探偵が本気を出せばなんでも面白くなるだろう!」

「もうなんの話だか分かりませんよ」

 内心、私は動揺していた。肌鰆喜一郎が最初に言った台詞は、ポーカーをプレイするもの特有のハッタリと考えてよいのか。それとも、本当の話なのか。

 答えは案外すぐに分かった。

「うむ。それではそろそろ本題に入ろう。、天田君」

「な、なにを言うんですか!」

 肌鰆喜一郎が目を覆う。

「おおう。なんてテンプレ通りの言葉だ。その台詞にはまったくオリジナリティがない。罪から逃れようという気持ちが、君には足りていないのではないか? そんな台詞を発せられてしまえば、読者の誰もが君が犯人だったのだと思ってしまう」

 テンプレ通り。そう言われてみて、私はいつもあった常人の振りをする演技力が薄らいでいるのを感じた。

「失礼なことを言う人にどうしてまともな台詞を考えなくちゃいけないんですか。私はあなたの暇つぶしの道具じゃないんです!」

「喜ノえも~ん、なんか道具出してよー」

「ふざけるなら帰ってください!」

 どこかに落とし穴ができつつあった。肌鰆喜一郎との応答だけではなく、私自身の心に、落とし穴が生まれつつあった。そして私は自ら落とし穴に入ろうとしていた。

 帰ってくれと言うと、驚くことに肌鰆喜一郎は本当にドアへと向かった。彼は無言でドアを開けた。しかし、肌鰆喜一郎は外へは出ず、開け放たれたドアからは車輪の音が聞こえてきた。

「時間ぴったりだ」

 見覚えのある従業員がワゴンを部屋に運び入れる。

 ワゴンの上にはクロッシュが四つ並んでいた。

「手ぶらではさすがに失礼かと思ってな。きちんとお土産も用意したのだ。僕が気を遣える男だからといって、そうかしこまらなくてもよいぞ」

「お、お土産……?」

「現金な反応だ。テンプレ通りだが、さっきよりは悪くない」

 従業員がチップを受け取って部屋を去る。

 肌鰆喜一郎は声を大きくし「さて、ご開帳と行こう」と、クロッシュの一つを持ち上げた。

「……え?」

 見覚えのある従業員。見覚えのあるワゴン。見覚えのあるクロッシュ。そのせいで、出てくるものはステーキだと思っていた。しかし、クロッシュの中はステーキではなかった。

 中から現れたのは、出刃包丁だった。

「おやおや、これは不思議だ。料理かと思いきや、料理を作るものが出てくるなんて。あの従業員はなにを考えているのやら。クレームを入れるまえに、他の皿も確認してみよう。さて、次のクロッシュからはちゃんと料理が出てくればよいが」

 肌鰆喜一郎が別のクロッシュを持ち上げる。

 次のクロッシュの中身は、返り血で染まったスーツだった。

「かー、なんて汚いものを皿に載せるのだ。まったく、こんなものを見たら、さすがの僕でも食欲が引っ込むぞ。そろそろ前菜でいいから食べ物が出てきて欲しいな」

 クロッシュが持ち上がる。

 ……あの人に渡した軍手だ。

「これは小さいな。食べられないのは相変わらずだが。さて、最後の一つ。まったく期待できないけど、これも一応開けてみるか」

 最後のクロッシュの中身は、木片だった。

 木片の一部にインキで文字がついていた。ひらがなの『う』だ。そのフォントに見覚えがあった。

「元々は『うだがわ』だったのだが、さすがに全部持ってくるのはこのクロッシュでは無理なのだ。そこで演出のため、わざわざこの僕自身が手間暇掛けて一部だけを切り取ったのだ。警察の許可を取っていないことはいまさら言うまでもないな。まったく、どうして名探偵がわざわざ警察の顔色を窺わなくてはならんのだ!」

 肌鰆喜一郎は憤慨して言った。

「こ、これがなんなんですか」

「なあに、僕のコレクションを自慢したいだけだ。

 警察は多数動員されておきながら、こんな小さな証拠品さえ見つけられないのだ。みんなのアイドル芋洗君、あ、これは有名人がテストを解くバラエティ番組で悪い点を取るのは必ずアイドルという意味だが、彼が僕に言ったのだ。最有力容疑者がいるのに、どうやって犯行現場に行ったかが分からない。せめてなにか見つかれば分かるのに、と。

 彼は本気で無能な人間なのだ。無能だからこそ、証拠や目撃者を見つけてから筋道を考える方に特化してしまったのだ。君のお探しのものなど、地図を見れば分かるではないか。ボートで被害者と移動した。そう僕は言ってやった。しかし、彼はそれがどうしたという目で僕を睨みつけた。証拠品なしには長年親交を温めてきた僕のことさえ彼は信用してくれないのだ。仕事は仕事。プライベートとは別。これが男の友情の欠点だ。

 モノマネさせてしまった手前、面倒くさいけど僕は自分で証拠品を見つけることにした。

 どうしてこんな遅い時間にうら若き……若き? えーと、二十七か……。まあそれなりに若き女性の部屋を訪れる行いをこの僕がしたかというと、全ては美しいデザインのドライスーツを入手するのに時間がかかってしまったせいなのだ。芋洗君のヘボいモノマネ一つで、警察仕様のダサいドライスーツで潜るなんてのは、さすがに割に合わないからな!」

「で、これがいったいなんなんですか!」

 私が声を荒げると、

「知らん」

 肌鰆喜一郎はそれまであんなに饒舌だったのに、きっぱり私の問いを拒絶した。

「君が犯人。証拠の品はこれこれ。動機は完璧。機会も見つかった。全てをつなげるのは芋洗君の仕事だ。僕の依頼には含まれてない」

 肌鰆喜一郎が再度玄関に向かう。ドアが開かれると、今度は警官が外にいた。

 クロッシュの中身は、まだはっきりと私を示していないのに……。

 アリバイ工作は失敗した。証拠の品々が発見された時点でこのトリックは終わりだった。

 肌鰆喜一郎が最後に言う。

「ボートでショートカットし、乗り物は廃棄する。は馬鹿馬鹿しくて面白かったがね。は陳腐だ。芋洗君が真面目な捜査をしてくれれば、本来僕のを煩わせる必要などなかったのだ」

 肌鰆喜一郎の忠告を聞いて、私ははっと顔を上げた。

 より完成度を高めたトリックが思いつく……。

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