第8話
不安は杞憂に終わった。目を覚ますと、そこはなじみのベッドだった。なじみの空を、なじみの鳥が飛んでいた。
私は着替えるとすぐにあの人の住処に向かった。
あの人がホテルに着いてからの一連の行動は把握した。
次は、ホテルに来る前の行動を把握する。
片道三十分以上かかる道のりを歩き、古いアパートにたどり着く。すでに日が差しているのに、アパートの周辺だけはまだ暗い。
裏に回って一室を睨む。人の動く気配はない。どこかで子供の声が聞こえた。若い母親らしき、幸せな声が混ざっていた。
……私とあの人の時間だけが止まっている。
室内からの明かりはなく、夜ほどには部屋の様子は分からない。それでも十時に、あの人が起きたことが私には分かった。
耳を澄ませば音がする。シャワーの音。朝食を作る音。どこにでもある音なのに、あの人が出している音だと私には分かった。
十一時少し前に、あの人が部屋を出る。私は距離を取って尾行を続ける。
こうして、あの人はサイキ・グランド・ホテルに入った。
私は、部屋に戻って一眠りした。徹夜をしたのはこの身体ではない。なのに、脳が休みを欲していた。
夢と現実を行き来しながら、私は夕方に目を覚ます。
殺人事件の発生しなかった夕方のロビーは、チェックインの客で混雑していた。
軽く腹ごしらえをして、あの人の仕事が終わるのを待った。
日付が変わる瞬間、あの人がホテルを出て来て、湖側の道を行く。私はその後ろ姿を追いかける。
恐ろしく静かな湖のそばで、私は感情を膨らませる。
昨日は抑えていた殺意を、今日は意図的に膨れさせた。殺意の枷を外し、餌を与えた。
こうなると、あとはまっしぐらだ。
私は夜の土浦を駆けた。手を背中に回して、空気を切り裂いた。一日中背中に挟まっていた出刃包丁を、私は抜いた。
土手の上で、あの人が身体を傾ける。あの人は夜に走る女を目に留める。歩みを止めて、じっと私を見つめている。
身体がぶつかったときには、私の心は完全に殺意に支配されていた。
「月が綺麗ですねェェェー!」
出刃包丁があの人の腹に刺さると、私はうっとりした。この瞬間をもう一度味わいたいがために、出刃包丁を勢いよく引き抜いた。温かなものが頬にかかる。私はそんな小さな幸福は気にせずに、何度も何度も刃物を刺した。
「暗闇! 静寂! 暗闇! 静寂!」
ああ、暗闇と静寂。この二つはなんと素敵な組み合わせだろう。二つはパートナーなのだ。互いが互いのよさを引き出し合う。暗くてうるさければただ迷惑なだけで、明るくて静かな場所は居心地を悪くさせる。暗闇、そして静寂。この二つこそが世界を救うハーモニー。
「メロスは激怒した! 必ず、かの邪智暴虐の王に出刃包丁をブッ刺してやらねば気がすまぬと決意した! メロスには政治が分からぬ! メロスはただの復讐者である! 笛を吹き、出刃包丁をブッ刺して暮らして来た!」
何度も何度も出刃包丁を引き抜いていると、ぷんと死の香りが漂った。手を止め、地面を見下ろすと、なにやら人の形をした肉塊があった。
肉塊は真っ赤に染まっている。私の身体も真っ赤に染まっている。
握っていた出刃包丁を、私は湖に向かって放り投げる。
こうして私は二日ぶりに浄化されたのだった。
冷静に考えると、この格好はまずかった。死の香りどころか、鉄の香りさえも私の身体から漂っていた。
さすがにこのままホテルへ戻るわけにはいかない。着替えることができ、血を洗い流せる場所に行く必要がある。
暗闇の湖が私を呼ぶ。が、この冬の寒い時期に泳ぐ気なんて、さらさらない。
星定男のポケットをまさぐる。財布を広げると、銀色に光る物体が音を立てて転がった。私はこぼれ落ちたそれを、親指と中指でつまんで拾った。
星定男だったものを土手から転がす。
痩せた肌が、ぺたぺたと土を転がっていく。
私は桜川沿いの道を進んだ。橋を渡るときだけは気をつけた。車の通りが絶えるのを待った。二分ほど経ってから、一気に走る。橋を渡り終えると、素早く闇に紛れた。足音だけ気をつけて、私は土手を慌ただしく駆け抜けた。
私の居場所に応じて、住宅街から明かりが消える。
真っ暗になった住宅街で、私はアパートの階段を上がり、星定男からくすねた鍵を取り出した。
ドアを開ける。
目前に広がったのは、なにもない部屋だった。
星定男の部屋は空白だった。テレビがなければ布団もない。タンスがなければ棚もない。天井には穴が空き、壁には染みができている。壁に掛かっている三枚のスーツだけが、人の住んでいる証だった。
白熱電球を灯す。私の身体はどこもかしこも真っ赤に染まっている。憎悪と解放のキャンパス。これが犯行後の私だった。
玄関横のドアを開けると、強く尿の臭いがした。そこはトイレとセットになったシャワールームだった。
風呂桶もない中で、私は衣服を全部抜ぐ。
冷たいシャワーを肌に当てる。ゆっくりと水をお湯にする。
身体を温めてから、血のついた服にシャワーを当てた。布地の奥にまで入り込んだ血液は、たちの悪い悪霊のように取れなかった。
裸のままシャワールームを出る。
空白の部屋に私がぴったりと挟まった。
やるべきことが思いつかない。いたずらに時間だけが過ぎていく。
ノックがあったのは四時だった。なにも応答せずにいると、ノックはより激しく鳴った。
「ドアを開けなさい」
横柄な口調。声の正体はそれで分かった。
ドアを開けずにいると、重いもののぶつかる音がした。ドアがミシミシと軋む。音と同時にドアが曲がる。空白が壊されてゆく。
ひときわ大きな破壊音と同時に、警官が飛び込んできた。顔を上げた警官は文句を言おうとしたものの、私が全裸だと知ると、すぐに顔を背けた。
「君は、ここの住人のなんなんだ?」
こちらを見ずに警官が言う。ドアの向こうにも何人か警官がいた。そのうちの一人は顔を背けずに、私の裸を凝視していた。
「さあ、よく分かりません」
ふと出た言葉は、嘘ではない。
私はあの人のなんなのだろう?
飛び込んできた警官が上着を脱ぐ。私は大人しくそれを羽織った。ただ連れ去られるままに連れ去られて、七時になるのを待った。
なにも思いつくことがない。
得たものはあった。あの人の動きは鈍く、土手で殺すことも可能だった。土手で殺せるのなら、多分、どこでだって殺せる。
ただし、四時間以内に死体の身元が判明し、あの人の住居に警官が押し寄せる。
この情報をどうアリバイ工作につなげるか。
まだ手は出そろっていない……。
繰り返しを終えた私は正午を過ぎてから、ベッドを出た。
『スタッフ専用口』を歩くあの人。リネン室で座禅を組むあの人。客にカードを配るあの人。
打つ手が見つからないまま、時間だけが過ぎていく。このままでは私は復讐を果たせずに、繰り返すだけの女になってしまう。
いっそ肌鰆喜一郎を殺した方が手っ取り早いのかもしれない。
その際に生じるリスクを考えて、私はこの計画の無謀さに気づく。
肌鰆喜一郎は名探偵一族のうちの一人でしかないのだ。無事殺すことに成功しても、より凶悪な父と祖父が、私をもっと苦しめるに違いない。
私は、なにか新しい発見を得られることを期待して、あの人がリネン室にいる間に、『スタッフ専用口』の廊下をさらに進んでみることにした。
一応は見とがめられないように人目を避けて移動すると、すぐに突き当たりに出た。
天井からは緑色の看板がぶら下がっている。
非常口だ。
私は試しに非常口を開けてみた。すんなり開いたその先は、見覚えのある場所につながっていた。
非常口の奥の景色は、壁に阻まれていた。
竹梯子を使い、死にそうな目に遭った場所。それがここだ。あのとき見た錆びたドアは、カジノの裏側と直接つながっていた。
これは使えるかもしれない。
発見を得て気をよくした私は、うっかり外に出てしまう。扉が閉まると同時に、鍵のかかる音まで響いた。
カジノへ戻るためには、ぐるりと大回りしなくてはいけなかった。
日付が変わり、あの人がホテルを出る時刻になる。私はくたびれた背中を追いかける。栄養失調型の、細くて小さい背中。私の方が身長がある分、真っ向から組み合っても勝てそうだ。
そういえば、ここにも試していないことがあった。
真っ向から組み合う、か。
私はまだ、あの人とまともに向き合ったことは一度もなかった。
背中の出刃包丁の感触を、いまはいったん忘れよう。
「……待ってください」
夜の闇の中、私は意を決して、話しかけた。振り返ったあの人の目はうつろだった。それでも私の言葉を待っていた。
「天田、夜です」
静かに名乗る。声の一部は霞ヶ浦に吸い取られる。それでも吸収されなかった部分が、あの人に反応をもたらした。
「……ずっと待っていた」
久しぶりに聞くあの人の声。それは低く、暗く、おぼろげだった。
「待っていた? 私をですか?」
あの人は再び歩み続ける。私に背を向けて、帰路につく。
「俺の家でよければ聞こう」
数メートル距離を開けて、私は大人しくついていった。
私の前でアパートのドアが閉まる。呼吸を整えてから、そのドアを開けた。
あの人は部屋の中央にいた。こちらを向いて、リネン室と同じようにただそこに座り、待っていた。
私はいつでも出刃包丁を出せるよう、立ったまま言った。
「ここ数日、あなたを尾行していました」
この言葉は私にとっては嘘ではない。しかし、あの人にとっては嘘だった。
「訊きたいことがあるのでは?」
あの人は意志のない声で言う。
どうやら、私が声をかけた理由を誤解しているようだった。あの不条理な虐殺の真相を知りたい。それで声をかけてきたと思っている。
私はあえて話に乗った。
「どうして私を殺さなかったのですか?」
最初に出た問いはこれだった。私の中で一番引っかかっていた疑問はこれなのだ。なにしろあと一人殺せば、あの人はこんなに早く出所せずに済んだのだから。
あの人が手を膝に載せる。目をつむって、落ち着いている。そのポーズは心臓を強調している。刺すならここを刺せ。そう言っているかのように、あの人は目を閉じてじっと座っていた。
「よく分からない。……君も、殺した気がする」
「なにも覚えていないんですか?」
「全てを覚えている。しかし、真実はもはや覚えていない」
「私を待っていたのはどうして?」
「君が、終焉だからだ」
なにもかもが分からなくなる。私がなにと話しているのかさえ、空虚に飲まれて分からなくなる。
「どうしてディーラーになったんですか?」
「同房の奴に勧められた」
「ディーラーの仕事は楽しいですか?」
「分からない」
星定男がまともに答えられるのは、本人の気持ちを抜いた質問だけだ。
それほどまでに、星定男は空っぽだった。
「お姉ちゃんのことを、いまでもまだ思い出しますか?」
「ずっと覚えている。全てをずっと……」
私は一歩近づいた。手を背中に回す。指先で出刃包丁の感触を確かめる。
「最後にもう一つ訊いてもいいですか?」
「構わない」
彼の身体から力が抜ける。
……疑問はずっとあった。
この人はなぜ出刃包丁を刺されても、悲鳴の一つも上げないのか? なぜ刺された直後、余力のあるときでも、一度も腕でガードしないのか?
その疑問が氷解する。
この人は、私になにをされるか、全て理解していたのだ。
名探偵、肌鰆喜一郎は化け物だった。
そして、この人もすでに化け物の一員だった。
「どうしてみんな殺したんだァァァー!」
私は出刃包丁を取り出した。出刃包丁を星定男の胸に刺した。肋骨の隙間を抜けて、心臓を一息に切り裂いた。
星定男は痛がりもせず、自分の胸にできた傷をじっと見た。
私は何度も何度も星定男を刺した。憎悪で刺しているはずなのに、一つ刺すたびに私から憎しみがなくなっていった。
一つ刺すたびに、私の感情がクリアになってしまう。
「……飽きていた」
星定男は最後にぽつりとそう言って、死の香りを放った。
そこには悲しみがあった。星定男を理解してしまった悲しみが、私の生を覆っていた。
視界が滲む。血で汚れた畳が一滴分薄まる。
一滴?
違った。
何滴も何滴も、畳が滞りなく薄まった。霞ヶ浦でさえも埋め尽くせる量の涙を、一人の私は何夜にも分けて流せてしまうのだった。
……話なんてしなければよかった。いつまでもただ殺される相手でいてもらいたかった。
いまでは全てが手遅れだった。私は星定男と会話した。そして、話したことで一つのアイディアを得てしまった。
全てが都合よく動いている。それでも、新しい懸念が生まれている。
……私は、今回も無事浄化されたのだろうか?
死体のそばで一晩、過ごした。あれほど嫌だった死の香りが、いまでは嫌でなくなっていた。
目を閉じて気が静まるのを待ち、目を開けては涙がこぼれるままに任せた。
このアパートにはあの人しか住んでいない。異変を感じる人はどこにもいない。死体はいつまでもここにあり、朝になっても犯行は発覚しなかった。
しかし、私にはアリバイがない。
朝になると、予想通り私はベッドで身を起こしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます