第7話

 足りない……。

 策が足りない。知識が足りない。運が足りない。とにかくなにもかもが足りない。

 私に足りすぎるほどあったのは動機だけ。

 強い動機が毎日の殺人を支えてくれるが、その強い動機によって私は嫌疑をかけられてもいる。

 思いつける限りを試してみたが、いまだ名探偵は欺けない。

 かといって、このまま自堕落に過ごすつもりはない。私はもっと美しい世界で生きたい。

 発想を変える必要があるのだ。そのためには根本的に違う視点が欲しかった。

 私はホテルを出て、行く当てもなくさまよった。

 初めて犯行を終えたあの日……。

 あの人がリネン室に入ったのは絶好のタイミングに思えた。シーツを使えば返り血を浴びずに済む。カジノの入り口で騒ぎが起こるため、フィジオに顔を見られない。昼時はひっきりなしに車が来て、ドアマンの意識に上らずに、ホテルの出入りをすることも可能だった。

 これほど整った殺人環境はそうそうない。

 なのに、これ以上行えることが思いつけない。

 気づくと、私は土浦駅に来ていた。いつも歩く『レンタルボートうだがわ』側とは逆方面だった。

 レッスンスタジオがこのあたりにあったことを思い出す。日付だけ見れば昨日の出来事なのに、私にとっては十日ほど前の出来事だった。

 そういえば日焼けサロンに行くよう衣装係に言われていた。どうせなにもすることがないのなら一度、行ってみてもいい。

 私は街を練り歩く。日焼けサロンの細かい場所は分からない。私はスマートフォンを取り出して、その手を止めた。

 もうすぐ十一時になる……。

 日焼けサロンに行けば、犯行に間に合わなくなってしまう。

 別に今日行く必要もないか。

 私は道を戻った。駅を通り抜け、反対側の出口に向かった。

 そして一人の男を発見した。

 それはのっそりと顎から歩く男だった。生気のない瞳を持ち、疲れた表情で、くたびれた風貌の男……。

 私が発見したのは、星定男だった。

 何度も殺した相手が、駅前をゆっくりと歩いていた。

 私は自然に距離を取った。あの人の革靴がうつろな響きを残し、私はその上を踏みつぶした。あの人の生きている証を一つずつ足で消していった。

 尾行しながら疑問が浮かぶ。

 そういえば、あの人はどこに住んでいるのだろう?

 当初私が住む予定だったのは女子寮だが、サイキ・グランド・ホテルに男子寮もあるという話は聞いていない。

 毎日殺しているというのに、カジノと廊下とリネン室。それ以外の場所であの人がなにをしているのか私は知らない。

 もしかしたら、リネン室以外にも格好の殺害場所があるかもしれない。

 私は殺意を抑え、あの人の残り香を余すところなく吸い取った。


 あの人は、十一時にサイキ・グランド・ホテルに到着した。

 私はカジノに先回りする。

 ルーレットの席で、賭けたり賭けなかったりを繰り返して、時間を潰す。

 黒。赤。黒。オッド。ハイ。

 十一時半。制服に着替えたあの人がブラックジャックテーブルに着く。

 あの人はにこりとも笑わず、淡々とカードを配る。確かな技量はあるようで、他のテーブルと比べると、あの人のテーブルには常にたくさんの客がいた。時折、拍手の音が響いたりもする。やる気のない表情とは裏腹に、雰囲気はよかった。

 テーブルに着いて一時間。あの人は女性ディーラーと口頭で一つ二つ確認する程度の軽い引き継ぎをする。それからテーブルを去る。

 向かっているのは『スタッフ専用口』だった。

 私は適当な話をでっち上げて、ルーレットのディーラーにチップを預かってもらった。

 カジノを回り、『スタッフ専用口』を開ける。

 静かな廊下を私は歩く。

 リネン室に着いた私は、反射的にシーツを一枚取ろうとした。しかし、いまは殺すときではなく、観察するときだった。

 私は手を下ろし、スイングドアのガラス部分から、室内の様子をそっと探った。

 ……座っている。

 私が殺すとき、あの人はいつも部屋の中央で立っていた。それが数分後には座っている。

 彼は座ってなにかをしているわけではなく、ただ、じっとしていた。

 むき出しになった首筋が、私の殺意を刺激する。肌を走る青い血管。そこを切断すればどのように血が噴出するか。それを私はリアルに想像できる。

 ああ、切断したい。このリネン室を真っ赤に染めたい。

 自分の衝動を抑えるためには、かなりの努力が必要だった。

 鎮まれ……。鎮まれ……。

 私が衝動と戦い始めた三十分後、あの人が立った。

 私は姿を見られる前に、素早く廊下の奥に回った。スイングドアの開く音が聞こえる。続いて、足音の遠ざかる音。

 私がカジノに戻ると、あの人は元々いたテーブルではなく、その隣のテーブルに立っていた。

 カードを配る。雰囲気は穏やか。顔は笑わない。殺意は膨れる。

 一時間経つと、またあの人はリネン室に行く。そこで三十分間、あの人は微動だにせず座り続ける。

 娯楽を与えるディーラーなのに、あの人自身はなんの娯楽も持っていないようだった。この三十分間、携帯を眺めることもせず、本だって読まない。音楽を聴かないし、友人と連れだって食事に出ることもない。

 あの人はただ座る。静かなリネン室で、時が経つのを待っている。

 私と同じぐらい、つまらなそうな人生だった。

 あの人が最初のテーブルに戻る。

 二回の休憩を踏まえて、ブラックジャックにおけるディーラーのシフトがうっすらと分かってくる。

 一時間仕事をして、三十分の休憩を挟む。二つの台を合計三人で回す。おそらく、ディーラーのシフトはこんな感じだ。規則正しく、閉じられた範囲でサイクルが決定されている。

 十七時から十七時半の休憩のときだけ、あの人はリネン室に行かなかった。ホテルを出てどこに向かうのかと期待したのに、行き先はただのコンビニだった。あの人はおにぎりと缶コーヒーを一つずつ買って外に出た。

 それが彼の夕食だった。

 歩きながら食べるせいで、ホテルに着く前に食事は終わる。ホテルに戻ると、あの人はすぐ働き始めた。

 あとは定められた一時間労働、三十分休憩の繰り返し。

 あの人の仕事が終わったのは二十三時だった。夜通しプレイする客に惜しまれながら、あの人はカジノを抜けた。

 寒い裏路地で、私はあの人がホテルを出るのを待った。

 念のためずっと挟んでいた背中の出刃包丁も、出番をなくして輝きを減らしてきていた。

 あの人はなかなか出てこない。もうすぐ日が変わろうとしている。まさか見落としたのかと、心配になってきたところで、ようやくあの人は姿を現した。あの人は国道125号を使わず、私が春子と共に歩いたあの閑静な道を使っていた。

 ネオンとLEDの光で、ホテルの周辺は輝いていた。しかし、私とあの人が歩く湖沿いの道は暗かった。霞ヶ浦の水面が、光を吸収するようにちゃぷちゃぷ音を立てている。あの人と私から発せられているかすかな光も、湖によって吸収される。

 私たちは、暗闇の中に二人ぼっちだ。

 桜川沿いに道が曲がる。ハリネズミを思わす草が、私たちを貫こうと暗闇で震える。

 誰とも出会わず、私たちは闇を無心で歩く。

 橋を渡るわずかな間、車の人工的なライトに照らされた。一瞬あとに流れたのは深夜の静寂だけだった。

 橋を渡ったあの人は、駅を使わず、桜川沿いの土手を歩いた。再び霞ヶ浦に近づいてゆく。あの人は暗闇こそ自分の居場所だと、わざとわびしい道を歩き続けた。

 桜川と霞ヶ浦の境目。河川管理境界で、あの人は土手を降りる。

 そこは住宅街だった。サイキ・グランド・ホテルの従業員が住んでいるとは思えないほど、ひっそりと静まりかえった場所だった。

 まともな人間なら寝る時間だ。こうして歩いている間も、左右の明かりは一つずつ消えていった。あの人の居場所に呼応するように、住宅地は暗くなっていった。

 住宅地から全ての明かりが消えた。街灯さえもこの辺にはなく、一等暗い場所で、私はあの人を見失った。その場で耳を澄ませると、カンカンと高い足音が聞こえた。音の出所に目を凝らせば、薄ぼんやりとした人型の輪郭が、アパートの階段を上がっていくのが見えた。

 街灯のない街角。照明のないアパート。

 暗い二階のドアが開く。

 いまどき珍しい白熱電球の光が、アパートの一室を染め上げる。

 あそこがあの人の住処なのだ。

 私はアパートをぐるりと回った。ブロック塀に囲まれた狭い隙間が裏手にあった。隙間の幅は五十センチにも満たない。私はその狭い隙間に身体を入れる。首を伸ばして白熱電球の部屋を見る。

 窓を覆う薄い布。ほとんど役割を果たしていないカーテンが、あの人をシルエットにして映す。質量のない人影だった。一緒に住んでいる人はいない。生活臭が欠片もない。

 午前二時。あの人の部屋から電気が消える。

 私はようやく人心地つく。

 どうしようもなく無意味なことをしている気がした。この尾行だけの話ではない。あの人を殺すこと自体もだ。

 すでに生きていない人を殺して、それで世界のなにが変わるというのだろう?

 ちっぽけな行為で、私はなぜ救われるのだ? 私があの人よりももっとちっぽけな存在だからか?

 殺しても、なんの影響もなく生き返るあの人……。

 しかし、いまさら復讐は止められなかった。それがどれだけ無意味でも、殺した瞬間、私は確かに救われる。感情が膨れて、爆発する。そのとき私は生を得て、ようやくおぎゃーと泣けるのだ。

 爆発はビッグバン。ビッグバンは全ての生命誕生の源。

 ならば……結局、殺すしかない。

 夜通しアパートを監視した。空虚を知ることで、実体を得たかった。時間がみるみる流れていき、空がかすかに明るくなった。

 時計を見ると六時五十分だった。もうすぐ、繰り返しの始まる時刻だ。

 突然、私は不安に溺れた。

 あの人を殺さないで一日を終えるのは、今日が初めてだ。

 殺さなかったことで、殺意がなくなったと誤解され、繰り返しが終わってしまったら?

 せっかく新しい情報を得たというのに、使う機会が奪われる。そしたら、私はまたなんにも武器を持っていない、無力な女に戻ってしまう。

 祈るように時計を見た。その瞬間、世界が暗転し……。



 ああ、7時1分だ……。

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