第6話
……さっきのはおかしいだろう。
事件が発覚するや否や、私はすぐに芋洗刑事に連れて行かれた。肌鰆喜一郎の出る幕さえなかった。
名探偵は頭がいいだけでなく、勘が異常に優れていた。
同じ手口で三度も失敗すると、さすがに考えを改めざるを得ない。
どの日でも、肌鰆喜一郎は最後に同じ忠告を残した。
『こいつには絶対できない。君はそう思わせなくてはいけなかったのだ』
いままではその忠告を無視していた。そんな面倒なことはしなくても、この特殊な状況、タイムスリップさえ味方にしていれば、なんとかなると思っていた。
過ちを認めよう。私は殺人以上の努力を工作に費やしたくないと、心のどこかで思っていた。
弱さは改めなくてはいけない。
いままでの工作は所詮、この女は星定男を殺さなかった可能性もある。そう思わせる程度にすぎなかった。
この女に犯行は不可能。私はそう思わせなくてはいけなかったのだ。
肌鰆喜一郎は私にはない武器を持っている。
しかし武器なら私だって持っている。私は本来なら知るはずのないことを知っていた。
この知識の差を利用して、探偵には絶対に解けないトリックを作るのだ。
部屋にこもっても、優れたアイディアは出てこない。
私はホテルを出ることにした。
寒い土浦を練り歩く。なにかヒントになりそうなものを探し、五感を研ぎ澄ます。
肌を突き刺す冷気に、日の当たらない薄汚いビルの隙間。私は埃をかき抱くように泳ぎ、野良猫の吐瀉物を幾つもまたいだ。
霞ヶ浦を覆う大量の水。……氷を溶かす方法は使えるだろうか?
路上に転がっている灰皿。……煙草の吸い殻は使えるだろうか?
電柱のそばに落ちていた針金。……細い紐は使えるだろうか?
見たもの全てを、犯行に結びつけてみる。
しかし、どの想像にも断定口調の肌鰆喜一郎の姿がまとわりつく。
名探偵に対して氷や煙草や紐を用いたアリバイトリックを用いる。こんなもの愚行だ。愚行でしかない。
土産物の商品を片っ端から手に取った。ビンゴカードを持って、これでアリバイ工作が作れないかと無謀なことを考えた。当たりの番号を知ることで、その場に確かに私がいたと思わせるとか……。
端的に言えば、私はアリバイ工作をするべきだった。犯行時刻、別の場所にいたと証言する。遠くで起こった偶然の出来事を話せれば……。
イメージする。けど、イメージは上手くいかない。どうしても肌鰆喜一郎の断定口調が最後に浮かぶ。
情報は、人づてにだって知ることができる。ただ他の場所の事件を知っていただけでは、あの名探偵はだませない。
他人の口から、私が犯行時刻、別の場所にいたと証言できれば……。
……犯行時刻、別の場所か。
一つ思いついた。上手くいくかどうかは分からないが、試す時間は山ほどあった。
いまどこにいるか分からなくても、国道125号がどこかはすぐ分かる。私はぐるりと道を回り込んで、橋に向かった。
『レンタルボートうだがわ』の店員に話しかけられる前に、私は湖側へと回る。
――いた。
丁寧にカットされた芝生で、腰の曲がったおじいさんが絵を描いていた。くの字型の腰、枯れ枝を思わす骨と肌。いつもの画家のおじいさんだ。
私は足音を殺して背後に回り込んだ。絵に熱中している猫背のおじいさんは私に気がつかなかった。手の届く場所にスケッチ箱がある。その上にデジタル時計。表示されている時刻は……、
十一時。
私はそっとデジタル時計を持ち上げて、時刻を変えた。表示時刻を十二時半にして、いったん離れた。
今度は足音を立てておじいさんに近づいた。
「どうしてスケッチ対象に背を向けてるんですか?」と私は声をかける。
「このまま描いても面白くないじゃろ?」おじいさんはスケッチから目を離さずに言った。
「現実と違くなっちゃいますよ」
「違くも描けるから絵は面白い。アクション映画もCGを駆使した方が激しくなる。見合い写真はフォトショで加工した方が美しく見える。いまなら自宅で簡単に腰のまっすぐなナイスミドルになれる。二十一世紀はコルセットなんか要らないんじゃ!
わしも、長い間猫背矯正ギプスをつけていた。これでは体調が悪くなると、医者の勧めに従って、毎日強制ギプスをつけて暮らした。しかし、その結果はどうだと思う?」
「さあ?」
「なんと、前以上の猫背になったのだ! 大リーグボール養成ギプスのように、バネにも負けない強じんな猫背。わしの猫背にかなうコルセットは、この世に存在しない!」
「生活から改善するべきでしたね」
「それは無理な相談じゃな。今日も六時からずっとこの姿勢をキープしている」
よし。この流れだ。この流れが必要だった。
私は言う。
「はあ、六時からですか」
そして猫背のおじいさんが言う。
「ちなみにいま何時じゃ?」
「……十二時半ですよ」
これで、私は犯行時刻におじいさんと会話したことになる。おじいさんは、猫背は酷くても頭の方ははっきりしている。証言者として申し分ない。
「ほんとか?」
おじいさんがぐるりと身体を反転させて時計を見た。
そして時計をまじまじと見る。
おじいさんがぽつりと漏らす。
「……そんなはずはないのじゃが」
猫背のおじいさんは画材道具を放り出した。コートの内側に手を入れて、昔ながらのパカパカ携帯を取り出した。
「やっぱり。まだ十一時じゃ。子供にいたずらされたのかもしれんの」
そう言うと、猫背のおじいさんは難なく私のアリバイ工作を破壊した。
私はずっとその場にたたずんで、おじいさんがスケッチを進めるのを観察していた。
発想は悪くなかったはずだ。今日ではない今日、私が十一時だと伝えたとき、猫背のおじいさんはその正確な時刻さえも疑った。一方で、自分の携帯で確認するほど疑ったわけではなかった。時間の感覚が馬鹿になっているのは間違いないが、時刻があまりにも離れすぎると、それはそれでバレるようだ。
私は留置所で一夜を明かす。
朝になってから、もう一度おじいさんの背後で時計をいじった。時刻を十二時に変え、猫背のおじいさんに話しかける。
「ちなみにいま何時じゃ?」
やりとりのあとにおじいさんが訊く。
私は言う。
「……十二時ですよ」
「ほんとか?」
おじいさんが時計を見る。私はその一挙手一投足を見守る。おじいさんが視線を上げた。
「……ほんとじゃった」
「でしょう?」
十二時。その時刻ならおじいさんは信じた。欲を言えば犯行時刻の十二時半がよかったものの、移動時間を考えれば十二時でも目的は達成できる。ここから三十分でホテルに行くには、車か自転車を使うしかない。しかし私は車の免許を持っていないし、バスにはドライブレコーダーがついている。ドライブレコーダーには、停留所で待つ客が写る。私が乗車していないのは明白だ。タクシーなら乗車記録から私が乗っていないと分かる。
あとは自転車だったが、他の人には当てはまる問題が、私にだけは当てはまらない。私が自転車に乗れないのは診断記録にも残っているれっきとした証拠だった。これは少しでも調べれば分かる話で、すでに春子には話しているし、総支配人の猪去だって身辺調査をしたからには、知っている可能性があった。
もしかしたら、ヒッチハイクを疑われるかもしれないが、そうなったらそうなった、だ。このプランは諦めて、次の回に、別のやり方を試せばいい。私にとってはそれだけの話だ。
猫背のおじいさんが再度スケッチに取りかかる。もう私には見向きもしない。
これで犯行の準備は整った。
私はホテルへ戻ろうと足を動かした。
そのとき小さな影が道をふさいだ。
「話ぐらい聞いてや、でっかい姉ちゃん」
……忘れていた。
おじいさんのそばには、子供たちがいたのだ。昨日はおじいさんのそばで長時間スケッチを見ていたから話しかけられなかったが、ある程度距離を取ると私は話しかけられてしまう。
私がなにも言わないでいると、無視されたと思い込んだ少年たちが、いつものように図々しくまとわりついた。
結局、私は少年の願いを聞いて、凧を取る羽目になった。
そしてその結果待っていたのは……、
「子供たちは覚えていたぞ。十一時に歩いていた背の高い女性のことを覚えていた!」
私の証言を聞いた芋洗刑事は、事件検証を終えるとすぐ戻ってきた。今回は、肌鰆喜一郎が現れる展開にすらならなかった。
私はきつく追及された。
もう何度目になるかも分からなくなってきた。
今日の私はレストランには向かわなかった。朝一でコンビニに寄り、少年が凧を揚げる予定の場所へと向かった。
少し離れた場所では、猫背のおじいさんがすでにスケッチを始めていた。おじいさんはスケッチに熱中している。私はおじいさんに見つからないよう、移動する。
私は腕を大きく広げた。その姿勢のまま木の幹を抱いた。誰かがそばを通れば、怪しい女性がいたとたちまち記憶されるだろう。私は樹皮が服や髪に絡まるのも厭わず、素早く幹をよじ登った。
ようやく少年らが糸を絡ませていた枝に足が乗る。
私はコンビニで購入したカッターの刃を枝に仕込んだ。
慎重に仕込んだ刃は、下から見ただけでは分からなかった。樹皮に軽く切れ込みを入れて挟んだので、今日中に落ちるとは思えない。そう簡単には取れない場所に、刃はきちんと固定してある。
あとはことが狙い通りに進むのを祈るだけだ。
私は何事もなかった顔をしてホテルに戻った。朝食を取らずにまっすぐ来たので、まだ九時前だった。
時間になったらルーレットで負け、フィジオに私の印象を残させてカジノを去る。
時間が過ぎる。十一時になる。
国道125号をまたも通る。私は猫背のおじいさんの時計を一時間進めた。猫背のおじいさんと会話をし、時間と私を印象づける。
……あの凧は、糸が引っかかっただけだった。糸はすでにほとんど切れかかっていて、少し力を入れただけでぱつんと切れた。
ならば事前に糸が引っかかっていた場所にカッターの刃を仕込んでおけばどうなるか?
「……」
誰からも話しかけられることなく私は歩く。怪しまれない程度に周囲を見渡しても、凧を揚げている子供はいない。凧糸が切れて、帰ったのだろう。
ホテルに近づくときもタイミングを見計らった。ドアマンが荷物を運ぶ隙を狙って移動する。
私は無事、誰の記憶にも残らないタイミングでホテルに入った。
十二時二十八分。混乱の隙を突いてフィジオの目をかいくぐる。
十二時半。無機質な廊下であの人と追いかけっこをする。
十二時三十二分。リネン室であの人を殺害する。
十二時三十五分。フィジオに怪しまれないようカジノを抜ける。
私は部屋に戻ってシャワーを浴びた。すでに何度も繰り返している行為。いまのところは順調だった。忘れずに髪を乾かし、元々着ていた服に身を包んだ。
十三時五分になってから、私はホテルを出た。
湖沿いの道を歩く。古ぼけた帽子の男も、目つきの悪い少年たちにも私は会わない。それでもスケッチをしている猫背のおじいさんはまだそこにいた。私はおじいさんに気がつかれないよう忍び寄り、時計を元の時刻に戻した。
これで……終わりだ。
思いついたことを全部やった。
私はホテルに入る前に、おじさんからもらった千円で昼食を取った。
十六時過ぎ。ノックの音がする。
「あれ? 猪去さんじゃないですか」
朝食を食べていない私は、このタイミングで初めて猪去と会う。少し堅めに、それでいて親しみをわかせる距離感で話しかける。
「テレビを見てたのかね?」
「いやー。それが、ルーレットで全額すっちゃいまして……」
「全額?」
「はい。まがうことなく全額です」
私はあえて所持金をすった。資金がないということが、カジノにいない理由になるからだった。
猪去と芋洗刑事。二人を部屋に入れて会話する。私が犯人だと指摘するときには必ず現れる芋洗刑事のあのきつめの視線が、今日はない。眉の古傷もいまはまだ大人しい。
話はとんとん拍子に進んでいく。
「十二時半だ。君はどこでなにをしていた?」芋洗刑事が問う。
「その時間帯だと……うーん、はっきりしたことは言えませんけど、多分散歩してたかなあ?」
「何時にどこを歩いたか、可能な限りで教えてもらえると助かる」
私は眉をひそめ、記憶をほじくる振りをした。
「多分、ここを出たのは十一時ぐらいです。国道125号沿いに歩いて、向こうにレンタルボート店がありますよね? あそこで湖側の道に回って、それで、あ、そうそう画家のおじいさんに会いました」
「画家のおじいさん?」
「そうです。すごい猫背のおじいさんで……」特徴を説明すると、猪去が、
「すごい猫背。それなら
「ババシシ……? 有名な人か?」
「昔は水墨画で生計を立てていて、いまは趣味でしか描いていない。表彰されていたから住所は市の方で把握していると思う」
「証言者としては申し分ないな。問題は時刻を覚えていればだが」
私はそのタイミングで嬉しそうにしてみせた。
「それなら大丈夫ですよ。だって私、おじいさんに時間を訊かれましたから。ちょうど十二時でした」
「それは君の時計で示したのか?」
「いえ、おじいさんの持ってる時計を、代わりに読んであげたんです」
猪去が芋洗刑事の顔色を窺った。芋洗刑事は一つ頷いた。
犯行時刻についての尋問はここで終わった。次は、午前中の行動を細かく訊かれた。
実際に私が取った行動は、起きると同時にカッターナイフを仕込みに木登りし、ドアマンに見つからないよう戻ってきて、カジノに直行したというものだ。しかし、当然これはこのまま証言するわけにはいかない。
私は起きた時間を遅くして、九時ちょうどにカジノへ行ったことにした。
「となると、君は来て早々スッカラカンになったのだな」
「……そう言われるとちょっと傷つきますよ」
「いや、私と同じだなと思っただけだ……」
芋洗刑事が申し訳なさそうに言う。そんな表情を見るのは初めてだった。
「またあとで話を聞きに来るかもしれん」
「カジノは明日の朝まで休止だ。お詫びで大忙しだよ」
二人が慌ただしく立ち上がった。
ドアをくぐる直前に、芋洗刑事が言う。
「……事件のせいで俺の連れが暇している。君さえよければ、そいつの食事につき合わないか? 阿呆みたいに勝っていたから、多分おごってくれるだろう」
きちんと昼食を食べた私は、間髪入れずに言った。
「わー、本当にいいんですか?」
「天田君か。よろしく頼むぞ」
肌鰆喜一郎は十九時ぴったりにやって来た。
私は外で待っていたルームサービスを部屋に入れた。
「ご苦労。さあチップだ。受け取ったら犬のように去りたまえ」
「わんわん。きゃんきゃん」
従業員は律儀に叫び声を上げ、二足歩行で鷹揚にスイートルームを去っていった。
「うむ。実によい従業員だ。芋洗君にも見習わせたいぐらい素直な教育を受けている」
やりとりが微妙に変わっている。これは私に対する意識が変わった証拠だろうか。
肌鰆喜一郎が席へ着く。
「さて、食事にしよう。ステーキにしたが、君はマクロビアンかね?」
……えーと、
「マクロビ?」
「略称を知っているぐらいにはマクロビアンなのだな」
「ち、違います。マクロビアンという単語を知らないだけですよ」
「まあ君が肉を食えるのなら別に構わん。早く席に着くといい。お腹が減っているのだろう?」
肌鰆喜一郎がクロッシュを持ち上げると、分厚いステーキが現れる。
手を合わせて、私たちはステーキに取りかかった。
「んー、美味い。なにかドリンクも頼めばよかったな。頼めばよかった? それは違うぞ。これから注文すればいいだけの話だ。さあ、君はなにを飲む?」
この言い方。今回の肌鰆喜一郎は、『窪田』にワインを持ってこさせていないのだろうか?
試しに私はワインを提案してみた。
「ダメだ。ワインは却下だ。他のものにしろ!」と、強い口調で断られた。
細かく説明するつもりもなさそうなので、私はウィスキーを選んだ。
「強めを好むのだな」
「だ、ダメでしたか?」
考えてみれば私はおごられる立場だった。値段を基準に注文すべきだったかもしれない。
しかし、肌鰆喜一郎は言った。
「全然構わん。ただ、女性に強めの酒を飲ませたと知ると芋洗君が下品な想像を働かせてうるさいのだ」
そうと決まると、肌鰆喜一郎はすぐに電話でウィスキーを注文した。
電話が終わり、芋洗刑事への中傷活動が再開される。ここにはいない誰かに聞かせる話しぶりで、このワゴンにも盗聴器が仕掛けられているのだなと私は思った。
これまでに判明した芋洗刑事の行動パターンは以下の通りだ。
1.私が犯人だと確信しているとき、芋洗刑事は十六時の時点で私を捕まえる
2.十六時の時点で私が犯人だと確定できなくとも、その後の調べて確定できるなら、肌鰆喜一郎は現れず、本人自らしょっ引きに来る
3.私が犯人だと確信できないとき、芋洗刑事は肌鰆喜一郎に協力を頼み、私と食事するよう仕向ける
今回は3だ。きっと芋洗刑事は、肌鰆喜一郎がなにか掴むのを期待して、盗聴器に耳を傾けているだろう。
ルームサービスがやって来る。高価なウィスキーが並んでゆく。
「いったい何本頼んだんですか?」
「知らん。語呂がよいものを片っ端から頼んだのだ。うははは。この広いスイートルームをアルコール臭くするのもまた一興だ」
「飲む前から目に沁みますよ」
飲み始めると、肌鰆喜一郎がうわばみなのに驚いた。私がひぃひぃ言いながら一本飲む間に、肌鰆喜一郎は四本も空にしていた。肌はまるで赤くならず、話もいっかなぶれなかった。そして、隙あらば芋洗刑事を馬鹿にするのも忘れない。
飲んでいる量は少ないのに、私の方が酔っている。
私は、いったん洗面所に入り、顔を洗った。鏡を見ると、目の周りが赤くなっていた。酔いに任せてボロを出さぬよう、心を強くしなくてはいけない。
「ところで、君の身長はいくつかね?」
洗面所から出た瞬間に訊かれる。
「百七十五ですよ」脳だけ素面にして答える。
「そうか。そういえば、犯人の身長も百七十五センチだったらしいぞ」
「へー。最近は身長とかも分かるんですね」
とっさに出たにしてはよいごまかし方だった。私は内心、自画自賛する。
「いや、芋洗君は無能だからな。現場を見れば少なくとも百七十五センチ以上あるのは一目瞭然なのだが、彼は最後まで『まだ分からないだろ!』とか言って鼻息を荒くしていた。まあ彼の反応は仕方がないのだ。芋洗君も一応頑張ってはいるのだが、所詮、無能の頑張りだからな」
「そんな無能無能って連呼してー。あれ? 芋洗さんって、先輩なんですよね?」
肌鰆喜一郎は気分を害す。
「僕があの無能の下で働いていると思うか? そんなわけがなかろう。彼は全ての国民の下で働くことに命さえも賭けている、すかしっぺマゾギャンブラーだぞ。一方の僕は人民を僕の下で働かせる、世界に名だたる一族の一員。僕と彼には個性豊かな人民全ての壁がはだかっているほど差があるのだ」
「はー、へー。……で、なんなんですか? 一族って」
「よくぞ訊いてくれた」と私にとってはいまさらな名乗りを彼は上げる。「僕は肌鰆喜一郎。全ての事件を解決できる名門肌鰆家の第二十八代名探偵だ。壮健で偉大なる父や祖父と区別して、人は喜の字と僕を呼ぶ」
「名探偵さんなんですか」
「先祖代々な」
「お父さんやおじいさんもですか?」
「うむ。二人とも素晴らしい名探偵だ。僕と父と祖父。この三人は我が一族唯一の血脈保持者でもある。僕以外の二人はいまはバカンスでマッターホルンを登っている。祖父など八十を超えているのに、だ」
「そ、それはすごいですね」
「本当は僕も行く予定だったのだが、一日で終わるゴミ仕事が入って行けなくなった。仕方なく、どうせすっからかんになるであろう芋洗君を誘い、ここに来たのだ」
「名探偵って、具体的にはなにをするんです?」
「おお。なんという愚問。名探偵なのだ。名探偵の仕事なんて解決に決まっているだろう」
「それは警察となにが違うんですか?」
肌鰆喜一郎はふむ、と小さく間を取った。
「……警察は事件を解決できないこともある。一方、名探偵はどんな事件でも絶対解決に導ける。警察は我が一族に嫉妬して、幸運の星に選ばれているなどと運頼みのように言うのだが、それはちょっと違うのだ。我が一族は、幸運の星さえも自らの手で勝ち取った。僕らには代々ちょーすげーパワーがあるのだ」
「はあ、なんかすごそうですね」
言っていることは全然分からないが……。
「……君、さては信じていないな。ではこの僕がとっておきの推理活劇を幾つか披露してあげよう。ありがたく傾聴したまえ」
肌鰆喜一郎が勢い込む。彼の前には、八つの空になったボトルが並んでいた。
「僕が最初に事件を解決したときは六歳だった。まだ反抗的なクソガキだった」
「六歳で反抗期……。そこはかとなく早熟な気がします」
「なにを言う。僕はまだまだ熟していないぞ」肌鰆喜一郎は心外だという顔を浮かべる。「忘れもしない初めて解決したあの凶悪な事件。そうだな。あえて名づけるなら駄菓子屋のおばちゃんお釣りごまかし事件とでも名づけようか」
いきなり事件の内容が分かってしまう。……名づけた意味があったのだろうか?
「ふふん。僕レベルとなれば、君程度の人間がなにを考えているかなどすっかりお見通しだ。僕が駄菓子屋のおばちゃんにお釣りをごまかされるような愚鈍な人間には見えず、困惑しているのだろう? だが、それは違う。真っ赤な誤解だ。というのも、お釣りをごまかされたのは僕ではなかったからだ。お釣りをごまかされたのは、そうだな。プライバシーを守るためには仮名が一番。依頼人の守秘義務を守れないようでは、名探偵とは言えないからな。うむ、それでは、彼の特徴を取ってアホ山マヌケ右衛門にしよう」
プライバシーは守れても名誉は守れていないのだが……。
「アホ山マヌケ右衛門君は、なけなしのお小遣いで二十円のお菓子を買ったのだ。アホ山マヌケ右衛門君が払ったのは銀に輝く百円硬貨だった。本来なら八十円返ってくるところを、おばちゃんは、いま十円がなくてねぇと、五十円玉と五円玉でお釣りを渡した。アホ山マヌケ右衛門君はアホでマヌケだったので、やったーお金がいっぱいだーとか言って喜んでいた。おばちゃんは親切そうな声音で、真ん中に穴が空いているから紐でまとめると格好いいよと言った。アホ山マヌケ右衛門君は、さらに五円払っておばちゃんから紐を一本買った。
しかし、当時からロンブローゾの骨相学にハマっていたほど頭脳明晰な僕は騙されなかった。なにしろおばちゃんの顔は、見事にロンブローゾの指す犯罪者の骨格を備えていたからな。僕は注意深くアホ山マヌケ右衛門君の釣り銭を見た。すると、紐に吊り下がっていた五円玉は、なんと四枚しかなかったのだ。
つまり、おばちゃんは、どさくさに紛れて五円硬貨を一枚ちょろまかしたというわけだ。
僕は自分の十倍は生きているであろうおばちゃんに、このようなこすっからいやり方はやめたまえ、と勇猛果敢に非難を加えた。最初は笑っていたおばちゃんだったが、次第に本性を現して、そんなに五円玉が欲しいならくれてやる。もう二度と来んなクソガキが! と僕に五円玉を投げつけた。
僕は頭を打ち、怪我をした。たまたま通りかかった顔見知りの花屋のお兄さんが僕の傷を治療してくれた。まあバンドエイドを貼ってくれたという意味だが……。
む。どうした? なんか顔色が悪くなったな」
「すいません。私、傷口の話って苦手なんですよ」
「そうか。それは済まなかった。悪気はないのだ。許したまえ。で、まあ、仕方ないから僕はおばちゃんを通報し、傷害罪と詐欺罪で訴えたものの、不起訴になったから仕方なく、町内会の回覧板に事件のあらましを載せ、おばちゃんのところで商品を買うときには気をつけようと地域住民全員に伝え、その翌年には駄菓子屋はもうなくなっていた。これにてめでたしめでたし。事件も一件落着だ」
はしょられた部分に一番事件性を感じたのだが……。
肌鰆喜一郎の長い話をまとめると、お釣りを渡し間違えたおばちゃんが難癖をつけられて店を潰されたという話だった。六歳の少年がこれをやったと思うと、確かに凶悪な事件でもある。
「どうだね? 僕の偉大さが伝わったかね?」
偉大っていうか尊大っていうか……。
「僕を敵に回すと怖いよ、ってことですね!」
「いや、違うぞ?」肌鰆喜一郎は、きょとんとした。「我が一族は代々味方に対しても怖いのだ。それを表す事件もある。なあに、今度は傷口なんて野蛮なものは出てこないから安心したまえ。事件名は、そうだな、体調が悪くなったアホ山マヌケ右衛門君を保健室に連れて行ったらそれを機に二度と学校に来なくなった事件、とでも名づけようか……」
私の精一杯の聞きたくないオーラは、肌鰆喜一郎には受け取ってもらえなかった。肌鰆喜一郎は、見た目は酔っていないのに、そこらの酔っ払いよりも激しく舌を動かした。
ちょっとでも聞いていないそぶりを見せると、彼は「ちなみにステーキとウィスキーで合計四十万円近くかかっている」と呟く。
こうして私は適切なタイミングで相づちを打つことを強要されたのだった。
「……というわけで、僕の鼻毛によって四羽のクジャクが救われることになったのだ。僕レベルの人間となると、鼻毛でさえも命を救うことができるわけだ。分かるね?」
「戦地へ行く際、恋人の陰毛をお守りにした、みたいな話ですね……」
「いや、違うぞ?」
話を聞くだけなのに、私は飲まずにいられなかった。冷静さを保つので精一杯だった。どうでもいい質問に、考えて返すなどできなかった。
「うーむ、小さくて文字が読めんな。いま何時になっている?」
肌鰆喜一郎が顎で枕元のデジタル時計を指す。
「……ええと、二十二時五十八分ですね」
「ほぉ、もうそんな時間だったのか」
私には長すぎるぐらいに感じられた。
逮捕されずに済んだ喜びなどどこにもなかった。
「二十二時にはここを出るつもりだったのだが」
二十二時までいるつもりだったんだ……。
「名探偵さんなのに、間違えちゃいましたね」
私はちょっと復讐するつもりで言った。
しかし、肌鰆喜一郎は往生際の悪い男だった。
「それは逆だろう。いつだって名探偵は間違えないのだ。となると、その時計が間違っているに違いない。天田君。お疲れのところ悪いが、君の携帯では何時になっているか、調べてくれないか?」などとほざく。
「……はぁ」
面倒くさかったが、この四時間ですっかり肌鰆喜一郎の命令に応じる癖がついてしまった私は、ポケットからスマートフォンを取り出して、その時刻を見た。
……そして、我が目を疑った。
「あ、あれ?」
「……と、まあこれが君のトリックの全貌だ」と、肌鰆喜一郎は言った。「なんのために僕が聞くに耐えないゴミ話を長々としていたと思ったのかね? 少し相手の感情を撫でてやれば、時間の感覚など睾丸よりもたやすくずれるのだ。関係ないが、芋洗君は睾丸捻転症にかかったことがあるのだ」
私のポケットに入っていたスマートフォン。
その液晶が示していた時刻は、二十一時五十八分だった。
「スケッチに熱中した老人の証言など検証する気にもならん。デジタル時計なら、ボタン一つで時間がずれる」
あのときだ。私が洗面所に入ったときだ。
あのとき、もうこのデジタル時計は……。
「無関係の第三者を証言者に仕立てる。その発想は見事だったがね。手口は陳腐だ。芋洗君が真面目な捜査をしてくれれば、本来僕の頭脳を煩わせる必要などなかったのだ」
……や、やられた。
木にカッターの刃まで仕込んだのに……。
それでも私は肌鰆喜一郎を欺けなかった。
語り終わった肌鰆喜一郎は、デジタル時計を一時間戻した。彼はそのまま立ち上がると、玄関にまっすぐ向かっていった。
ドアが開くと、そこで待ち構えていたのは、
「俺の睾丸の話はするな」
芋洗刑事はそう言って、
肌鰆喜一郎は笑いながら部屋を出た。
肌鰆喜一郎が部屋を出た瞬間、視界の隅でデジタル時計が動いた。
59は00に、21は22になる。
名探偵が部屋を出たのはぴったり二十二時だった。
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