第5話
「天田君だったね」
「おはようございます。猪去さんは、いつもここで朝食を取られるんですか?」
私にとっては白々しい台詞だったが、これは距離を近づけるための問いだった。
猪去は案の定、私のテーブルに座った。
「……参ったよ。料理が不味いというクレームが朝からひっきりなしだ。あまりにも多いものだから、直接確認に来た」
「わあ、大変ですね」
ウェイターが皿を持ってくる。猪去が料理に手をつける。閉店が決まり、食べる手の速度が落ちたところで私は訊ねた。
「あのー、うちのルーレットって、イカサマしてるんですか?」
猪去は腕を止めた。
「お客様がおっしゃってたんです。ディーラーは狙った目に入れられるから、ルーレットは運じゃなくて心理戦なんだって」
黒の6ではなく、赤の34に落ちた理由。原因を探るためには、猪去に訊くのが一番早い。
「カジノにおける私の信条を一つ教えよう。『得しようとしない』だ」
「でもお金がなくちゃ給料だって払えませんよ?」
「得しなくとも、お金が入らないわけではないよ。一番分かりやすいところで、スロットを例にしよう。うちのスロットは出玉率九十二パーセントを売り文句にしている。天田君はこの数値が具体的になにを指しているか、その意味を知っているかね?」
「うちのスロットはすっごい負けにくいよーって意味です」
猪去は笑う。「曖昧すぎるね。それでは丸は上げられないな。
例えばここに百人のお客様がいるとする。彼らはそれぞれ百円ずつスロットに入れて、一回だけレバーを回す。ある人は負けて百円を飲み込まれ、ある人は勝って五倍、十倍の額を手に入れる。さて、レバーを回す前は百人×百円で、そこに一万円があった。それが一回レバーを回し、出てきた金を集めてみると九千二百円になっていた。これが出玉率九十二パーセントだ。この例におけるカジノの取り分がいくらかは分かるね?」
「八百円ですね」
「一万円における八百円。この八パーセントを、私たちはハウス・エッジと呼んでいる。ハウス・エッジさえあれば、カジノは必ず儲かるのだ。
ハウス・エッジがあるのはスロットだけではない。ルーレットにしてもハウス・エッジで儲けを得るのは同じなんだ。
ルーレットだと、ほとんどのお客様は赤か黒かに賭けるね。しかし、赤に賭けても黒に賭けても、1/37の確率で、ボールは緑色の0に落ちてしまう。
スロットと同じように、ここに百人のお客様がいるとしよう。ルーレットの台を百台並べて彼らに百円ずつ賭けてもらう。百人×百円で合計一万円がそこにある。あるお客様は勝って、あるお客様は負けた。一勝負終えてから、お金を回収すると、今度は九千七百三十円になっていた。まあ百円単位で支払われるはずだから、これは計算上の数値だけれども」
「つまり、カジノの利益は……たった二百七十円?」
「これはあくまでも一例だからね。少し数値をいじってみよう。もしゲーム前に賭けた額が一人一万円。百人で百万円なら、このゲームでのカジノの利益はどうなる?」
「なんと、二万七千円になりますね!」
「たった一分のゲームでね。まあさすがにこれは極端だ。でも極端な方が分かりやすい」
猪去は、カジノにイカサマをするメリットはない、と主張する。
「自由にルーレットの目を操作できるディーラーの存在は、私もお客様の口から何度か聞かされたが、ディーラーの口から聞いたことは一度もないな。お客様からすると、運よりももっと明確な負けた理由が欲しいのだろうね」
「はー。でも、ルーレットで勝つお客様だっていっぱいいらっしゃいますよね。そういう人がいるってことは、やっぱりカジノが損することもあるんじゃないですか?」
猪去の手がまた止まる。猪去は食事を続けるより、話を続ける方を選んだ。
「カジノにおける私の信条をもう一つ教えよう。『長時間プレイしたい環境を作れ』だ」
「時間がなにか関係あるんですか?」
勝った負けたの世界に、時間の入る余地はない気がするが……。
「大いにあるとも。ここではまたスロットに活躍してもらおう。確率を考えるには、ルーレットよりもスロットの方が分かりやすいからね。
さっきの例をまだ覚えているかな? 一万円は最初のゲームで九千二百円になった。今度はここでゲームを止めない。みんなにはさらにゲームを続けてもらおう。九千二百円あったお金は、次のゲームを経ると八千四百六十四円になる。八千四百六十四円は次のゲームで七千七百八十七円になる。そしてその次のゲームでは、七千七百八十七円が七千百六十四円になる。お金はどんどん減っていくね。これがなにを示しているかというと……」
「お客様のプレイした回数が多くなればなるほど、その分カジノは儲かっていく?」
「その通り。母数が増えれば理論値に近づくものだしね」
しかし、まだプレイヤーの肩を持ちたい私だっている。
「その理屈でも、いつかは大当たりが出ちゃいますよね?」
「確かにほとんどの人がそう思っている。宝くじを買う人がよく言うだろう? 買わなければ当たらないってね。しかし買った分だけ当たりに近づくという考え方ははっきり断定できるほど誤りだ。買った分だけゼロに近づく。それが正しいギャンブルの見方だ」
「……うわあ、夢も希望もない台詞を聞いてしまいました」
猪去はにやりと笑い、私を指さした。
「そんなことはない。個人レベルで見ればギャンブルで得した人はここにいる」
私は頭を掻いた。
「しかし、一度は得した君も、毎日やり続ければその分資金はゼロに近づく。要はどう折り合いをつけるかなのだ。勝って止めればそれでよし。負けても楽しければそれでよし。ギャンブルの基本はゲームへの情熱と、クールな資金管理力だ。うちでもいまだに『絶対勝てる賭け方』と、マルタンギャル方式を取られるお客様がいるが、個人的な見解を言わせてもらえれば彼らはギャンブルには向かないね」
「なんか可愛らしい名前が出てきましたねえ」
「マルタンギャルか。確かにちょっと可愛らしいな。名前はあまり知られてないが、その賭け方自体は有名だ。負けたら賭け金を倍にする賭け方をマルタンギャルと呼んでいる。一度でも勝てたらそれまでの負け分をまとめて取り戻せると彼らは言う。しかし、マルタンギャルはハイリスクローリターンで、最も愚かな賭け方の一つだ」
「その賭け方なら知ってます。私も初めて聞いたときはすごい納得しました。でもこれダメなんですか? だって一度でも勝てば全額取り戻せるのは本当でしょう?」
「狙い通り勝てればね。でも、1/2で勝てるゲームだって千回プレイすれば十回連続で負けるんだ。十回も連続で負ければ、それままで勝っていた分を全額飛ばすほど負け金は膨らんでしまっている。
私の知人にギャンブルで負けた人を撮る女性がいる。彼女は写真集まで出したのだが、モデルのうちの半分以上がマルタンギャルであり得ない連続負けをした素人ギャンブラーたちだった」
「そこまで酷い目に遭っちゃえば、もう二度とカジノに来ないでしょうね……」
絶対勝てると思い込み、ゲームを楽しむわけでもなく、機械的に賭ける人たち。大敗し、所持金を失う人たち。絶望にうちひしがれる顔を見れば、カジノ側だって嫌な気持ちになってしまう。
「カジノが禁止していない時点で、その賭け方には穴があると考えられる。カジノで絶対に勝つ方法なんてない。あったとしてもすぐに対策を取られてしまう。一流のカードカウンターでさえ、顔を覚えられることで対策を取られる。無限大の資金でもない限り、マルタンギャルなんて使わないことだね」
遠くから諏訪が近づいてくる。私は礼を言って店をあとにした。
無限大の資金……か。
いつぞや肌鰆喜一郎がお金とは価値だと言っていた。そして時間だって価値の一種だ、と。
ならば、同じ日を繰り返す私は、無限大の資金を持ってマルタンギャルに挑戦している状態だと言えるのではないだろうか?
何度連続で負けようと、私は最後に一回だけ勝てばよい。
勝つために重要なのはルール2だ。
ルール2.繰り返すのは完全に同じ日ではない
これは特別複雑な話ではなかった。話しかけられたとき、近づけるような返事をすると、猪去は私のテーブルに着く。一方で少しでも突き放した返事をすると、親しげな言葉であっても猪去は私のテーブルに着かない。
他の変化も、全てはこれと同じなのだ。
私以外の人の動作は基本的に固定されている。しかし、私だけは固定されていない。私だけが変化する。そして、その私の変化に応じて、他の人の動作が変わってしまう。
黒の6に賭けたとき、私はディーラーの意識に軽く触れた。かすかなディーラーの意識の変化は、指の力加減をわずかに変えた。こうしてボールの落ちる場所は一つずれることとなった。
ボールの落ちた場所が変わると、今度はルーレットをしていたおじさんの運命も変わる。おじさんは五万円を勝ち、文句を言わなくなる。おじさんはカジノを追い出されない。そして、これからもカジノを堪能する。おじさんは誰からも嫌な人だと思われなくなる。
ディーラーに私の賭けが確認される。そんなかすかな変化だけでもおじさんの運命はまったく真逆になってしまう。
ならば、変化を積極的に起こせばどうなる?
私があの人を殺害する方法は変えない。その状態で他の行動だけを変える。そうすれば、いつかは同じ犯行をしても芋洗刑事にも肌鰆喜一郎にも私の犯行が見抜かれなくなるかもしれない。
ディーラーの確認でおじさんの運命が変わったとはいえ、小さすぎる変化はあまり意味がないだろう。例えば、廊下の右側を歩かず左側を歩く程度の変化。その程度で数時間後にはなにもかもが変わってしまうなら、過去三回も、もっと違う形を取ったはずだ。
私が求めるのは大きな変化だ。ならば、より確実性を得るために、直接、肌鰆喜一郎に働きかけてみよう。
十二時二十八分になり、私は殺人を決行した。
一仕事を終え、フィジオの間を抜ける。自室に戻り、死の香りを落とし、元々着ていた服に身を包む。
十六時に猪去と芋洗刑事がやって来る。
芋洗刑事は最後にとってつけたように言う。
「……事件のせいで俺の連れが暇している。君さえよければ、そいつの食事につき合わないか? 阿呆みたいに勝っていたから、多分おごってくれるだろう」
まずはここで返事を変える。
「え? いいんですか? 実はもうさっきからお腹が鳴って、お腹が鳴って。参ってたんですよ」
芋洗刑事は宙に視線をさまよわせてから「そうか……。少し早いが、あの男は食事の時間など気にせんだろう」と言って去った。
肌鰆喜一郎は、食事の前に死体を見せられたと言っていた。
彼は現場を見たから私の身長に注目したのだ。私を見てから現場に行けば、反応が変わるかもしれない。
一時間後、肌鰆喜一郎がやって来る。
ドアを開けると、彼は開口一番言った。
「君が天田君か。随分と背が高いじゃないか。身長何センチだ。百七十五センチぐらいか」
時刻は7時。カーテンを開くと白い鳥が飛んでいる。廊下にいるのはいつもの清掃スタッフ。
私は新しいルールを加える。
ルール3.繰り返しには目的がある
繰り返しは不思議な現象だ。目覚めるたびに、変な感じがする。起きたばかりなのに、まだ大きな夢の中にいる気がする。
繰り返しとは二十四時間巻き戻ること。つまり、私の身に起こっているのはタイムスリップという奴なのだ。
よりにもよって、私が殺人を決行した日が延々と繰り返されている。ならば、繰り返しの目的だってこの殺人が絡んでいるに違いない。
きっと、私が無事殺人を成就させることが、この繰り返しの目的なのだ。
タイムスリップの背後にいるのは、人よりはるかに大きな存在のはずだ。世界を創造できる存在でもない限り、私をタイムスリップさせることなどできるはずがない。
つまり、世界でなによりも大きな存在が、私の後ろ盾になっているのだ。タイムスリップという驚くべき現象も、そう考えれば納得できる。
私は、自分を助けてくれる存在のためにも、復讐を遂げようと再決意する。
目下邪魔なのは、肌鰆喜一郎だった。
この二十四時間で、彼と会うタイミングは三回ある。
一つは、いつも犯人だと指摘される夕食時のタイミング。言い換えると、私の部屋でステーキを食べるタイミングだ。しかし、ここまで来ると全てが遅かった。いくら工作しても肌鰆喜一郎は私の身長に注目する。犯行現場で犯人の身長が注目され、二つの同じ数字があれば、見た順番には関係なく、肌鰆喜一郎は私を犯人に結びつける。
もう一つは昼食時のタイミング。スポーツ・ベッティングルームで会うときだ。しかし、このときも小細工する余裕はない。会えば服装を覚えられ、服装が違うことで芋洗刑事の疑いを招く。
となると私が工作すべきは朝食時のタイミングだ。
レストランに行くと、芋洗刑事が一人でワインを飲んでいた。
やがて肌鰆喜一郎が現れる。
私は彼に近寄った。
「あのー、肌鰆喜一郎さんですよね?」
「ほお、僕を知っているのか?」
「はい。噂で聞いたんですけど、探偵ってのは本当なんですか?」
私は自分の中のミーハー濃度を高めていった。
いまの私は、芸能人大好きモードだ。有名人が大好き。著名人が大好き。サインが欲しい。話がしたい。一緒に写真に写って欲しい。そういう人格を作って、笑顔を作る。試着室で衣装係と話していたときのように、目を意図的にきらきらと光らせる。
事件が起こる前に親しくなるのだ。前もって好感度を高めて、名探偵の判断力を鈍らせるのだ。
たとえ彼が自分の職業を肯定しようと、否定しようと、私は話を膨らませられる。本気を出せば、私は誰にだって気に入られることができる。復讐のためならばどんな人格だって作ってみせる。
私の質問に、肌鰆喜一郎は肯定も否定もしなかった。
彼はただこう言っただけだった。
「突然探偵に話しかけてくるヒロインは、これから起こる殺人事件の犯人だと決まっているのだ」
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