第4話

 柔らかなベッドが私に合わせて沈んでいる。

 身体が自然に動き出す。私は身を起こして枕元の時計に目をやった。

『7時』

 やっぱりデジャブでも気のせいでもなかった。朝になると、私はまたもスイートルームに戻っていた。

 これで三度目の朝を迎えたわけだ。

 枕元のスイッチでカーテンを動かす。そばを一羽の白い鳥が飛んでいる。

 いったいなにが起こっているのだろう? 昨日が二回も消えてしまった。

 廊下に出ると、「おはようございます。昨日は勝ちましたか!」と清掃スタッフが大きな声を張り上げた。私は頭を下げてその横を通った。

 エレベーターを上がり、VIP用レストランに入る。怪しい敬語の従業員にルームナンバーを告げ、席に着く。

 目の入るのはワインを飲んでいる芋洗刑事。

 これまでに、彼は二度、私を逮捕している。

 私には不味い料理を食べるつもりはもうなかった。パンとクラッカーと水だけを取る。

「やあ、タダ飯は美味いか?」

 ビリジアンセーターの青年が芋洗刑事に話しかける。彼は今朝もセーターの袖をめくって、肘の内側を見せている。

「天田君だったね」と言って現れるのは総支配人の猪去忠義。

「おはようございます。今日は勝ちますよ!」

「ハルちゃんから話は聞いているよ。昨日も勝ったんだろう?」

 その表現は正しくない。私としては、昨日も一昨日も負けている。しかし、私は嬉しそうに頷き、猪去の言葉を肯定した。

 今度も猪去は私のテーブルに座らなかった。猪去は離れた席でウェイターを呼ぶ。皿の料理を食べて、顔をしかめる。レストランの閉店が決まり、しばらくすると諏訪が来る。

 私はクラッカーを頬張った。初めて食べたときはあんなに甘くて美味しかったクラッカーが、昨日と今日ではそれほど美味しくなかった。皿に残っていた最後の一品なので、違うクラッカーとは思えない。些細でもこういう違いは気になる。同じようで、なにかが違う。

 私はレストランを出て、カジノに降りた。昨日、一昨日よりも早い時刻だった。

 ルーレットの席に座る。最初のうちは本腰を入れず、軽めに賭けた。細かくチップの増減を繰り返すも、損得と呼べる範囲ではなく、地味な勝負になっていた。

 一勝負は約一分で終わる。私は時刻を確認した。いまは九時七分だった。

 赤が出て私は勝った。時間が九時八分になる。赤。これもいただき。九時九分、赤。

 私は連続して勝つ。

 そして、次のゲーム。

 九時十分の勝負が始まる。

 私は手持ちのチップを全て6につぎ込んだ。赤か黒かではない。数字の6に全額賭けた。当たる確率は1/37になるが、当たれば36倍になって戻ってくる。客の一人が短くひゅっと口笛を吹く。

 ディーラーが確認する。

「本当によいのですか?」

「はい。よいのです。置いてください全額6に!」

 私は胸を張って答えた。

 全額といっても、微々たる金だ。昨日儲けた分は、全て宿泊代に回した。手元に残ったのは、元金の二万円だけだった。そこにこのルーレットで勝った五千円をプラスした額。これがいまの私の使える全額だ。

 6のマスにチップが置かれる。客の何人かは私に乗った。ディーラーがボールを転した。まだ賭けられる時間は終わっていない。黒に賭ける人が増えてゆく。

 ルーレットについて講釈を垂れたおじさんは、その瞬間を狙ってさっと赤にチップを載せた。おじさんが載せたのは私の額を超えた五万円分のチップ。その顔はしめた! とほくそ笑んでいた。

 回転が緩やかになったところで、地面が揺れる。地震だ。時計を見るときっかり九時十分だった。今度は私がほくそ笑み、おじさんの顔が蒼白になった。

 ボールは数字の外側を回る。その勢いが弱くなる。一度転がったボールは、軽くバウンドして内側にはねる。はねたボールはまたも外側に向かい、あっちに行ったりこっちに行ったりを繰り返す。それでも台の形状に沿って、ボールは一つの数字へと向かう。

 木を叩く音が何度も鳴って、ボールは枠に収まった。

 回転はまだ続いていた。どの数字に転がったか視認できるほど、回転が遅くなるのを待った。ゴクリと唾をのむ音に、大きな叫び声が飛ぶ。

「やった! やった! 勝った!」

 声が上がる。勝利の雄叫びを上げたのは私ではなく、おじさんだった。

 ボールは黒の6ではなく、その隣、赤の34に入っていた。

「ああー、めっちゃ惜しい!」

「地震がなければ6だったかもなぁ」

 私に乗って損した人が、同情と慰めを口々に言う。

 誰かのため息が私の肩にのしかかる。

 私は呟く。

「赤の34……」

 それは、あり得ない数字だった。

 昨日、地震の後に出たのは確かに黒の6だった。一昨日は数字こそ覚えてはいないものの、それでも赤が連続したあとの地震の回は黒で間違いない。

 ボールの入った枠が目の前で止まる。

 何度見ても赤の34だった。

 私のチップが回収される。

 一昨日言われた、おじさんの台詞が蘇る。

『ディーラーはな、狙った目に入れることができるんだよ。だから赤の次は黒だなんて賭け方は下の下。ましてや玉が転がる前に賭けるなんてのは愚の骨頂だ。玉が転がっている最中に、さっとディーラーが狙っているところに賭ける。いま分かってる範囲でカジノの取り分が少なくなるところに賭ける。ルーレットは心理戦だ』

 私は、ルーレットが回転する前にチップを置いた。

 そしてその結果、黒の6は赤の34になった。

 しかし、昨日と一昨日は、結局黒に入ってカジノは損をしたのだ。ならば今日だって黒に入るべきではないか。

 おじさんの説明の全部が全部正しいとまでは思わない。しかし……、

「ほらよ、姉ちゃん」

 テーブルを横断して一枚のチップが転がる。チップは無一文になった私の前でころりと倒れる。

 それは千円チップだった。

「金がないままじゃ困るだろ。そのチップまで賭けるなよ?」

 チップを転がしたのはおじさんだった。

 負けたときはあんなに迷惑だったおじさんが、勝ったときはこうしてチップを分ける優しいおじさんになっている。

 ただの嫌な人ではなかったのか……。

「ありがとうございます。あのときは守銭奴なんて言ってごめんなさい」

「……は?」

 おじさんの口がぽかんと開いた。失言に気づいた私は、慌てて席を立った。


 資金がなくなり、これ以上ゲームができなくなってしまった。

 私はカジノを出ることにした。門を出て振り返ると、フィジオの二人が立っていた。私は手を振って去りゆく自分の姿を彼らに記憶させた。

 フィジオからの反応はない。それでも、見られてはいるはずだ。

 部屋に戻って、ベッドに倒れる。考えるべきことは山ほどあるようで、実は全然ない気もした。私を巻き込んでいるこの不可思議な現象は、世界最高の物理学者にこういう理由で生じた現象なのだと説明されたところで、到底納得できるものでもないだろう。

 とりあえず分かっていることは二つあった。


 ルール1.私は同じ二十四時間を繰り返している

 ルール2.繰り返すのは完全に同じ日ではない


 ルール2はまだ例が少なく、検証すべき余地がある。変化の法則性が掴めればよいが……。

 二つのルールを踏まえた上で、次に私がどういう行動を取るべきかを考える。といってもこれも必死に頭を悩ませる必要はない。

 私がしたいこと、それはいつでも一つしかないのだ。


 つまるところ、星定男を殺す。私にはそれ以外の目的はない。


 復讐を果たすことに比べれば、他のことなどどうでもよかった。このわけの分からない繰り返しは、一生悩み事に困らないぐらい不可思議な現象ではある。しかし復讐の前には、こんな現象など些末な事象の一つに過ぎない。私からしてみれば、やり直すチャンスがもらえてラッキーという程度でしかない。

 私はすでに星定男を二回殺している。その感触はいまも細胞に残っている。

 肉に出刃包丁が沈む感触。シーツを染める赤黒い色。空気を入れるために引っかき回す腕の疲労。

 作業を終えたあとにぷんと発する死の香りを除けば、どれも生涯最高の一瞬だった。

 これまでの二回とも星定男を殺すところまでは成功した。しかしそのあとがいけなかった。監視カメラの映像やフィジオの証言で、私がシャワーを浴びていたことが判明する。それをきっかけとして私は一気に留置所まで転げ落ちる。

 星定男を負かしても、私まで負けてしまったら意味がない。

 星定男が負け、私が勝つ。そうでなくては、幸福な一生なんて送れない。

 キャリーバッグを開く。まだ一度も使われていない出刃包丁が、キャリーバッグの中で妖しくきらめいていた。


 十二時を回り、部屋を出る準備を整える。下ろしていた髪は軽くかき上げ、盛り気味にする。白いだけのなんの記憶にも残らない服装に着替え、現場に残すつもりの出刃包丁は背中に隠す。

 ひやりとした冷たい感触が背中に広がる。鏡でチェックし、外から見ても出刃包丁の形が浮き出ないのを確認する。

 エレベーターが下がる。私はロビーを回り、カジノへ向かった。スマートフォンを開き、時刻を調べる。

 十二時二十七分。早すぎず、遅すぎず。最適な時刻だった。

 カジノの門に近づく前に、私は意図して歩調を緩めた。

 あと一分。ルーレットの一ゲームと同じだけの時間が必要だ。

「僕はカジノをやりに来たんだ!」

 遠くで騒ぎが始まり、私は足を速めた。複数の客が通りしな、騒ぎを起こした人物に目をやった。騒いでいる人は幼い顔に髭を生やしている。まったく似合っていない髭だと思ったら、二人のフィジオに捕まれて髭だけが落ちた。その落ちた髭を群衆の一人が踏む。男はもうおしまいだと、ひときわけたたましく叫んだ。

 門を通るのは、いまだ。

 フィジオの視界の外から門を通る。ホールに入っても、監視カメラに写らないよう移動する。私は素早く『スタッフ専用口』の扉を開けた。

 しんとした静寂が廊下を支配していた。あの人はまだ来ていない。この時刻では、私以外誰もいない空間だった。

 息つく暇もなく、私は早足で歩く。

 角を曲がってすぐ『スタッフ専用口』の開く音が背後から聞こえた。走ってはいけない。かといって、遅すぎてもダメ。あくまでも自然に歩かなくてはいけないのだ。大股に、それでいてゆっくりと……。

 逸る心を押し殺し、速まる足を押しとどめ、それでも気分だけは疾風のように先を行く。

 最後の角を曲がる。

 ようやくリネン室の扉が見えた。私は廊下のシーツを一枚取って、スイングドアを押した。

 中に入ると、軽く手を添えてスイングドアの動きを止めた。

 素早く部屋の隅に移動する。出刃包丁を背中から取り出す。シーツをかぶり、目のところに穴を開けた。もうこの作業も三回目で、どこに穴を開ければよいか、私は時間をかけずとも分かるようになっていた。

 私はシーツで出刃包丁をぬぐった。柄をシーツ越しに掴み、これにて準備は完全に終了。

 廊下の足音が壁越しに聞こえる。音がひときわ大きくなって、リネン室のドアが開く。反動でドアがかっぱかっぱと揺れ動く。先客かいるかどうかの確認もせず、あの人はまっすぐシーツに囲まれた中央に立つ。

 部屋の隅から私は出る。あの人は後ろを向いていて気がつかない。ここまでいけば、あとは気づかれてもよかった。

 私は音を立ててあの人に駆け寄った。

 あの人が振り返る。腹部を見せて振り返る。あの人は出刃包丁を突き刺してほしいと訴える腹部を私に見せて振り返る。おやおや、これはどうしたことでしょう? 私の手元にはたまたま出刃包丁が握られているではないですか。どうやらこの出刃包丁も腹部に刺さりたいと訴えている様子です。出刃包丁にブッ刺されたい腹部と、腹部をブッ刺したい出刃包丁がこの部屋には存在しているわけですよ。となると、当然、

「……ブッ刺すしかないよねェェェー!」

 星定男の腹部と出刃包丁が濃厚に激しくキスを交わした。それはもう、見ている私が恥ずかしくなるほど濃厚で、思わず手助けしたくなるほどだった。二人はキスだけでは物足りないと、強い衝動にその身を任せる。ここから先は大人の時間だ。子供は目をつぶって寝ていなさい。そうクールに呟く出刃包丁。私は立派な大人なので、しっかり目を開いて二人の行為を見守った。

「衝動! 衝動! 衝動! 衝動!」

 力が湧いてくる。過激な運動で筋肉は細かく震えているのに、骨の芯から十分な力が溢れてくる。骨は筋肉の疲労を無視して、活力の源にさえなっている。

「はい、次の質問は体液にリトマス試験紙を当てたら、どうなるの? ですね。それでは、実験してみましょう。こちらが胃になります。おやおや、胃の液体に浸したらリトマス試験紙は赤くなりましたよ。っていうことはこの体液は酸性ですか? でもこの赤はどす黒くないですか? そうですね。ゴミと同じ色ですねェェェー!」

 ぷんと死の香りがし、私は即座に腕と口を止めた。

 星定男にシーツをかぶせる。その上に刃の欠けてしまった出刃包丁を落とす。

 リネン室の壁がロールシャッハテストのように染まっていた。

 こうして、私は今回も無事浄化されたのだった。


 難関はカジノを出ることだった。

 フィジオはカードカウンターを入れないのが仕事だ。だから、出る客にはそれほど注意を向けていないと思う。しかし、油断は禁物だ。

 中央を通ると、二人のフィジオのどちらからも見られてしまう。それならばと、私は最初から片側に寄ることにした。これならば一人のフィジオから見られないよう対策すれば事足りる。

 私と同じぐらい身長のある男性がカジノを出ようとする。私はその人をフィジオの視線から避ける壁にした。フィジオの隣に男性、その男性の隣に私。私たち三人は、一瞬だけ横一列になった。

「……?」

 門を通り抜けたところで、男性が同じペースで歩く私に気づいた。

 私は素早く顔を背け、男性からは髪と服だけしか見えないようにした。

 廊下を抜けて、ロビーを曲がる。男性から離れ、エレベーターを上がる。

 部屋に戻り、いつものようにシャワーを浴びた。

 冷たいシャワーが温かくなる。私の肌が弛緩する。

 こうして世界が鮮やかになる。

 ああ。生とはなんと美しいのだろう。復讐を果たしたあとに現れるのは、いつだって私のための生だった。過去を振り切り、真っ当に生きるのが可能になるこの瞬間。この素晴らしい生を守るためなら、私はどんな努力だって厭わない。努力という美しい言葉に殺害という汚らわしい行為が含まれていても、私は止めない。止まらない。

 浴室を出て、髪を入念に乾かす。シャワーのおかげで、盛った髪も自然に下りる。

 十分に髪が乾いたのを確認してから、午前中に着ていた服を手に取った。

 犯行時の服の処理にはやはり困った。燃やしたら火災報知器が鳴るだろうし、細切れにしてトイレに流せば詰まる。刻んで捨てようにもゴミ箱から布地が発見されれば疑われる。かといってホテルの外まで捨てに行ったところで、見つかる可能性がゼロになるわけじゃない。

 クローゼットにもキャリーバッグにも入れられず、結局私はベッドの下に服を隠した。


 今度はカジノには行かず、自室で時間を潰すことにした。

 ルーレットでは大敗したものの、金がないということがいまはメリットになっていた。

 なにしろ、手本引きをしようにも、元手がないのだ。例えどれだけ手本引きがしたくとも、私にできることといえば、訪問者が現れるまで自室にいることだけなのだ。

 十六時になり、テレビをつける。やっていたのは時代劇の再放送だった。ノックの音が響いたとき、私は誰しも一度は口ずさむ、あの有名なオープニングテーマを口ずさんでいた。

「こんにちは、猪去さん。どうかしましたか?」

「テレビを見てたのかね?」

 猪去が言うと、背後の芋洗刑事も部屋の奥に興味を示した。

「いやー。それが、ルーレットで全額すっちゃいまして……」

「全額?」

「はい。まがうことなく全額です」

 自分の大敗を話すと、芋洗刑事の瞳に親しみの色が浮かんだ。

 猪去が言う。「ハルちゃんから聞いていたが、天田君は本当に無謀な賭けをするのだね」

「うう。あまりいじめないでください」

「部屋はこのまま使ってくれて構わないからね。ところで、食事は大丈夫なのかい?」

「あ、はい。ルーレットで勝ったお客様が、私を哀れに思ってか、千円くれました」

「うん。それは間違いなく哀れに思ったんだな」

 言ったあとで、猪去は部屋を指さした。

「中に入っても問題ないかね?」

「どうぞどうぞ」

 私は半身引いて二人の入れるスペースを作る。

「彼は当ホテルのお客様でもある芋洗是近さん。刑事だ」

「昨夜と今朝、レストランで二回会ったな」

 芋洗刑事の声音は、気持ち柔らかくなっていた。

「刑事さんだったんですか。どうもこんにちは」と、私は芋洗刑事に向かって腰を曲げる。

「単刀直入に訊くが、君は星定男を知っているな」

 身構える前にいきなり質問が飛んできた。猪去からの前置きは一切なかった。

 私は意図して表情を作り出す。今度は少し悲しめの、あとを引きずった表情をした。その顔で、やや俯き気味に短く告げる。

「……知ってます」

「彼は先ほど、死体になって発見された」

 そうして私は顔を上げる。大きな驚きは浮かべない。無言で相手の反応を待つ。

「……死亡時刻が休憩の直後なのははっきりしている。そこで天田さんに訊こう。十二時半だ。君はどこでなにをしていた?」

 過去二回と同じことを訊かれたが、質問の切り込み方が全然違う。比較対象があるから、私は不安にならずに済んだ。

 頭は冷静に働いている。

「ずっと自室にいました。特になにかしていたということはなかったと思います」

「ちなみに何時ぐらいからルーレットをしていた?」

「ええと、朝食後、いったん部屋に戻ってからだから。……八時半とかですかね」

「カジノを出たのは?」

「地震があったでしょう。あのタイミングで負けたんです。だからそのぐらいです」

 猪去が不安げに芋洗刑事の顔色を窺う。

 芋洗刑事は顎に手をやって一つだけ頷いた。

 私のもくろみは、恐ろしいぐらい上手くはまっていた。

 なにも知らなければ不安になったであろう芋洗刑事の頷く仕草。しかし何度も同じ状況を体験した私にはその意味がはっきり分かっている。彼は一つ頷いたことで、私とフィジオの証言が一致していると猪去に伝えた。九時過ぎにカジノを去った私をフィジオは覚えてくれていたのだ。そして犯行前後の私の顔はフィジオに見られていなかった。

 猪去が安心したように息を吐く。

「またあとで話を聞きに来るかもしれん」芋洗刑事が言った。

「カジノは明日の朝まで休止だ。お詫びで大忙しだよ」

 二人が立ち上がる。

 ドアを出る直前になって、芋洗刑事が振り向いた。

「天田さんだったか……」

「はい、そうですよ?」

 芋洗刑事は過去にも唐突な質問で私の不意を突いた。今度はなにを言うつもりかと、私は心の中でだけ構える。

「君、本当に千円しか持ってないのか?」

 え? その話?

「お、お恥ずかしながら……」

 警戒心はおくびにも出さず、私は表面上だけで照れてみせる。

「……事件のせいで俺の連れが暇している。君さえよければ、そいつの食事につき合わないか? 阿呆みたいに勝っていたから、多分おごってくれるだろう」

 敵のはずの人物からの、思いがけない提案だった。所持金千円では、さすがにこれからの暮らしが心許ない。私は復讐に精一杯で、昼はなにも食べられなかった。今日一日、ビュッフェのパンとクラッカーしか口にしていない。

「わー、本当にいいんですか?」

「ああ、いいとも」

 ドアが閉まる。その瞬間、芋洗刑事と目が合った。

 ――眉の傷口が蠢いている。

 私はまたもやネガティブな予感を抱く。


 連絡はいつまで経っても来ず、私は空腹を抱えたまま三時間も待たなくてはいけなかった。

 十九時という、一般的な夕食の時刻にノックが響く。

 空腹にちなんでヨガをしていた私は、すぐさま立ち上がった。

 ドアの向こうにいたのはビリジアンセーターの青年だった。

「天田君か」相手は私の返事を待たず、部屋に入る。「よろしく頼むぞ」

「あ、はい。ええと……」名前を訊こうとするも、その青年自身の動作によって続きが遮られる。

「僕のことはいまはよい。それより外に荷物があるのだ。持ってきてくれたまえ」

 青年は横柄に命令を下す。食事というよりは、泊まるかのような口ぶりだった。不安が大きくなりながら、私はもう一度ドアを開けた。

 廊下に従業員が一人いた。

「ルームサービスでえす」

「早く入れてあげたまえ。僕がこの世で一番見たくないものは男の凍える姿なのだ。震える男は単純にキモい。悪と言っても過言ではない」

「は、はあ……」

 どうも引っかき回されている。わずか一分でこの調子だった。

 従業員が慣れた手つきでワゴンを運ぶ。静かな音を立てて車輪が回転している。

 スイートルームに二人分の料理が並ぶ。

「ご苦労。これがチップだ。おもしろおかしく受け取りたまえ」

 横柄な口調で、青年がチップを握らせる。従業員は青年の扱いに慣れているのか、

「ぐへへ。いつもすいやせん」と、奇妙な下っ端笑いをして受け取った。

「なるほど。これはおもしろおかしいな。できればいつも君みたいな人にルームサービスを頼みたいものだ。もうあの女はこりごりだぞ」

 従業員は賛辞をありがたく受け取って、部屋を出た。

「唐突にこんなことも訊くのもあれだが、君の身長は幾つだね? どうも僕より高いようだが」

「百七十五センチです」

「ほぉ、百七十五。奇遇だな。僕はついさっきもその数字を口にしたばかりだ。さて、それでは食事にしよう。ステーキにしたのだが、君はヴィーガンかね?」

 ……えーと、

「ヴィ?」

「それはフランス語ではい的な意味の?」

「ち、違います。ヴィーガンという単語を知らないだけですよ」

 青年はそこになにか面白いものがあるというように、軽く天井を見上げた。「まあ君が肉を食えるのなら別に構わん。早く席に着くといい。お腹が減っているのだろう?」

 青年の言動は気になった。が、私はこれ以上、空腹に耐えられなかった。

 すっかり自分の部屋のようにくつろぐ青年。その対面に私は座る。

 青年が料理を覆っていたクロッシュを持ち上げると、スイートルームに焼けた肉の匂いが漂った。

 瞬時に空腹が強まった。

「遠慮せずがつがつしたまえ。僕はするぞ。いただきます!」

「じゃあ私も、いただきます!」

 こうして私たちは肉を頬張った。

 ここ数日で私が口にしたのは不味いビュッフェだけだった。いま、私は久しぶりに美味しいものを食べている。それだけでこの横柄な青年にも感謝の気持ちが湧いてくる。

「んー、美味い。なにか飲み物でも欲しいところだ。注文するか? もっとも、ワインはダメだぞ。ワインだけは絶対にダメだ」

 青年はビュッフェでもワインを断っていた。あのときは献血したからと言っていたが……、

「アルコールがお嫌いなんですね」

「まさか。大好きだとも。普段から自分に酔っているというのに、酒に酔うことさえできるのだ。アルコールはみんな好きだ。オーデコロンでさえ僕は好きだ。中でもワインは格段に好きだ」

 自分に酔っている自覚はあったのか……。

「じゃあどうしてワインはダメなんです?」

「実はカジノが閉まって暇になったものだから、今日すでにルームサービスでワインを頼んでみたのだ」

「そこに問題があったわけですね」

 青年がドンとテーブルを叩く。肉が一瞬宙に浮いた。

「あり得ないことをされたのだ! 聞いてくれるかい?」

 断りたくもあったが、青年の話につき合うことが芋洗刑事に頼まれた私の仕事なのだった。

「僕の頼んだワインだがね。なんと、すでに栓が開いていたのだ! 一口飲むと、やはり風味が落ちていた。持ってきた従業員を問い詰めると、悪びれもなく、他の客に出したものを持ってきたとほざいた。なんだそれは、飲みかけではないかと言うと、そうじゃない。これは開けられたものの飲まれなかったものなのだと答える。だから安全は保証できる、と。まったく、あの女はワインをいったいなんだと思っているのだ!」

 意外と真っ当なクレームだった。私にもその怒りは理解できる。

「もったいないの精神は分からないでもないが、本来提供されるものよりも、品質は悪くなっていたのだぞ。途上国ならどこにでもある残飯市。あれだってもったいないの精神だが、人に食わせたらどう思う? バックパッカーでさえさすがに残飯は食べないぞ!」

「バックパッカーは飛行機代を出す程度のお金は持っていますものね」

「……君の返答もなかなかにずれているな。面白い。まあ君も『窪田くぼた』という名札をつけた女性従業員を見たら警戒したまえ」

 窪田、か。おそらく、私が彼女と会うことはないだろうけど、それでも覚えておくだけ覚えておこう。いつか使う機会が訪れるかもしれない。

 鬱憤を晴らし終えた青年は、満足げに肉を一切れ食べた。

 昨日と一昨日の二日間、私はこの青年と話をした。合計で一時間にも満たない短い受け答えだったが、それでもこの青年がどういうタイプの人間かは私なりに分かっているつもりだった。

 青年は普通の返事を憎むタイプだ。予想通りにしか動かない会話を憎んでいる。逆に予想できない会話ならば、かみ合わなくとも満足感を抱く。

 初めてこの青年を見たとき、春子は彼を「あえてバカラのマナーを無視している」と表現した。その認識はある意味正しいが、間違ってもいる。

 青年はバカラで一人勝ちするために他人を敵に回すタイプではない。彼はそこまで深い人間ではない。

 おそらく青年の気性が自然と敵を作るのだ。ただ、それだけの話なのだ。

「どうだね? 量は足りたかね?」

「堪能しました!」

「追加注文は要らないかね? 遠慮しなくてよい。なにしろ僕には愚民を導く使命があるのだからね」

「大丈夫です。本当なにからなにまでありがとうございます」

 感謝の気持ちに嘘はない。素敵な満腹が私を包んでいた。

「ところで、君は死体の話をどう思う?」

「……ひゃ?」

 今度は不適な困惑が私を包んでいた。

「可か不可かで答えて欲しい。君は僕と死体の話をするのは嫌かね?」

 これは、どう答えればよいのやら……。

 おそらくこの青年も、芋洗刑事と同じく、警察組織の一員だ。ここで受諾しておけば、捜査状況が分かるかもしれない。

「大丈夫ですよ。私、死体の話なら気にしません。でも、傷口の話は止めて欲しいです」

「それは心配ない。では、話を続けよう。

 実は僕はついさっき死体を見てきたのだ。食事前に男の死体など見たくない、嫌だ。いっそ君が死んで仏さんと仲よくモルグに行きたまえと散々言ってやったのに、結局哀れな僕はその無能な男に無理矢理死体を見せられてしまった」

「えーと、その無能な男って……芋洗さんのことですか?」

 青年は強く頷いた。

「そうだ。その芋洗君なのだ。彼は困ると自分で考えることを放棄して、僕を酷使しまくっちゃうのだ。本来ならば僕が使う側なのに、彼は僕を使おうとする。それが嫌だ。もうほんと、ああいう無能な輩に僕らの税金が支払われているのかと思うと腹が立って鼻水も出る」

 言って青年は本当に鼻をかんだ。

「あなたも刑事さんじゃないんですか?」

「もちろん違うとも。刑事だなんて、薄給で歩かされる健康オタクの就く仕事ではないか。僕は高給で歩かされない仕事の方が好みだ」

「というと、お医者さんとか?」

 刑事の連れで、死体を見せられる人。高給取りで、歩かされない仕事。とくれば監察医しか思いつかない。

 しかし、青年は首を振って否定した。

「まさか! 医者なんてものは、病人相手のサービス業だぞ。数ある客の中でも、病人は世界最悪の客なのだ。まあ病人自体に罪はない。誰だって、気分が悪ければ優しくなる余裕がなくなるからな。しかし、そんな怒り立つ客相手の仕事に就こうなんて思う奴らは全員マゾだね、マゾ。研究医に至っては臨床医より悪い。僕は医者だけどサービス業はしたくないぜーっていう偉ぶりたいだけの腐った人間の就く職業が研究医なのだ」

 この青年なら、キング牧師さえも悪く言えそうだなと私は思った。

「じゃあ、あなたはなんなんですか?」

 私はついにそれを訊ねた。

 ビリジアンセーターの青年は胸を張る。

「僕は肌鰆はださわら喜一郎きいちろう。全ての事件を解決できる名門肌鰆家の第二十八代名探偵だ。壮健で偉大なる父や祖父と区別して、人は喜の字と僕を呼ぶ」

「め、名探偵!?」

 あだ名の酷さと思いがけない正体に、私の声が裏返る。

 いや、それよりも、ブックメーカーを眺めていたとき、肌鰆喜一郎は名探偵の存在自体を否定したはずだ。

「普段僕は名探偵だと名乗らないがね」肌鰆喜一郎はそう言った。「そもそも名探偵を名乗るようになったのは僕の曾祖父の代からだ。それまでは普通の警察機構にいたらしい。岡っ引きだとか目明かしだとか、まあその時々の名探偵の役職に就いていたようだ」

「えと、名探偵ってことは、今日の事件も解決できたんですか?」

 私の関心はそこにある。ようやく刑事を退けられたら、その次に三百一倍の伝説が舞い降りた。

 床が機械仕掛けに開いてゆく。

 床下から覗くのは、魔女を焼かんとする業火の炎……。

「はっきり言うが、芋洗君は基本的に馬鹿で無能なのだ。世の中には有能な刑事だって当然いるが、彼は無能側の人間なのだ。しかし世界最低レベルの無能であっても、特筆すべき長所が一つぐらいはある。

 実際、芋洗君は人を動揺させることだけは僕も舌を巻くぐらい上手いのだ。捜査は昭和の手法をいまだに真似ているが、自白率の高さも昭和並みだ。その能力はいつか訴えられてクビになり、夜間警備員の仕事とかで糊口をしのぐ羽目になるというプレコグに近い確信を抱いて僕が毎夜ぐっすり眠れてしまうほど高いのだ。

 それでは、芋洗君がどれだけ馬鹿かを説明しよう。彼はあんなにも露骨な証拠が目の前にあるのにまったく気がつかないほど馬鹿なのだ。ほぼバラバラになりかけている死体を指さして『これは相当に恨みのある犯行だな』なんて愚にもつかないことを平気で言うのだ。それで給料をもらえると思っているから、彼は無能の極みなのだ。だから犯行現場を無理矢理見せられた僕が『?』とやる気なく言っただけでびっくり驚き山椒の木となってしまうわけだよ」

 肌鰆喜一郎の話が進んでいくと、ヒーヒーと場違いな音が聞こえるようになってきた。それは甲高く、耳障りな音だった。

 かすれた音の出所を探ると、音は私の喉から発せられていた。

 声帯が、制御を、失っている。

 肌鰆喜一郎は先を続ける。

「大体だ。彼はやたらと死体から情報を得ようとするが、そんなものは法医学者に全部丸投げすればオッケーなのだ。彼の仕事は刑事だぞ。ならば磨くのは観察眼であるべきだ。

 死体に掛けられたシーツ。そこに二つの穴が空いていた。一つは目を出すための穴で、もう一つは包丁で刺したためにできた穴。

 犯人は返り血を浴びるわけにはいかなかった。だからシーツをかぶる必要があった。血の飛び散り方を見れば、被害者が立っていたことぐらいすぐ分かる。何人分もの刺殺死体を見ていれば、最初に刺されたのが腹だってこともすぐ分かる。頭の中で死体を立たせ、その一番刺しやすい腹部に向かって凶器を刺す。そうするとあら不思議。二つの穴から、犯人の目の位置と腕の位置が分かるではないか。

 ここまでいったら、さらにシーツを観察しよう。シーツにあるものではなく、シーツにないものを考えよう。地面とこすれた痕跡がシーツにはなかった。正確に言うと、こすれた跡とは、床にへばりついた血を吸ったときに生じる、赤い痕跡のことだ。シーツは血で汚れていたが、シーツの端は綺麗なままだった。鑑識の結果を待つまでもなく、シーツはぴったり犯人の身体を隠したはずだ。いや、もしかしたらぴったりではなかったかもしれない。少しは足が出たかもしれない。しかし、いずれにしろ身長は百七十五センチよりも低くはならないというわけだ。

 しかし、芋洗君は馬鹿だからこう反論しちゃうのだ。『殺しやすいようにシーツを折り曲げた可能性だってあるぞ』とな。馬鹿だろう? 本気で彼は馬鹿だろう? もちろん僕は言ってやったよ。『そんなことをしたら、ではないか』と。前述の通り、シーツは返り血だらけだったが、さすがにシーツ全部を染めきれるほどでもなかった。犯行時にシーツが折られていなかったのはちょっと見れば分かるのだ。つまり、犯人の身長は最低でも百七十五センチ。日本人からするとちょっぴり珍しい、かなり高めの身長だ。

 それで、天田夜君。と言っていたっけか?」

 恐怖が辺りに漂っている。

 芋洗刑事以上の恐怖が、この男から放たれている。

 まだ私が犯人だと確定されたわけではない。しかし私には分かる。このワゴンに盗聴器が仕掛けられていることが私には分かる。隣室でずっと芋洗刑事たちが耳をそばだてている。そんな状況だからこそ肌鰆喜一郎は、執拗に芋洗刑事を小馬鹿にする。なぜならそれが面白いから。自分の台詞に歯がみする芋洗刑事を想像すると笑えるから。

 確たる証拠はないのに、それでも私は最有力容疑者になっている。せっかく上手くやったのに、またもや私は失敗していた。

「もう遅いだろうがね。愚民に忠告するのは僕の使命なのだ。そもそも君は勝利条件を誤解していた。フィリップ・マーロウがこう言っている。『証拠というのは常に相対的なものだ。バランスがどちらに傾くかで、が既成事実になる。要はそれがどれほどの説得力を持つかということだ』。動機を持っている人間がいて、犯行現場に当てはめるとしっくりくる。有罪にするにはそれだけで十分なのだ。人を殺す前に、裁判をもっと傍聴したまえ。原則無罪など不可能だ。あんなもの所詮建前でしかない。犯人は百パーセントこいつでしかあり得ない。そうやって有罪になる人間なんてのは映像つきの殺人だけだ。

 こいつには絶対できない。君はそう思わせなくてはいけなかったのだ」

 肌鰆喜一郎が立ち上がる。スイートルームのドアを彼は開ける。

 私の予想を裏づけるように、警官が足音を立ててやって来る。私はされるがまま手錠をかけられる。もはや抵抗は無意味だった。

 名探偵は実に恐ろしい存在だった。暗くなってからパトカーに押し込まれたのはこれが初めてのことだった。

 しかし、私はもう一度同じ日を繰り返せる。失敗したまま繰り返しが終わるはずないと信じている。

 いまは冷たい留置所にいる。

 腹はステーキでふくれている。いままでのように昼寝をしなかった分、睡魔があった。

 私は自分の未来を信じて眠る。

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