第3話

 私は目をつむって、ベッドで目覚める前に記憶をさかのぼらせた。

 フィジオの証言から疑われ、凶器が発見された。言い訳不可能な状況に陥り、パトカーに乗った。

 そこまでははっきりと覚えている。警察署に連行され、狭い部屋に入れられた記憶もあった。留置所だ。私は留置所に入れられて、夢と現の境をさまよったのだ。

 そして、気がついたらスイートルームのダブルベッドで寝ていた。

 これ以上はいくら記憶を揺さぶってもダメだった。肝心なところが思い出せない。

 もしかして私は記憶喪失になったのか?

 慌てて洗面所の鏡で自分の顔を見ても、とりわけ老けた印象はない。

 思いつくままに、隅に転がっていたキャリーバッグを開けてみる。特に荒らされた様子もなく、そこには昨日のままの荷物が詰められていた。

 ……いや、それどころか、

 キャリーバッグには押収された出刃包丁さえもそのまま中に入っていた。あたかも研がれたかのように、出刃包丁は曇り一つない新品の状態で光っていた。

 いまは現場検証の途中なのか?

 しばらく待っていれば迎えが来るかと思ったが、誰も訪問者は現れない。

 視線がテーブルに置かれているスマートフォンに止まった。私はすぐ手にとってロックを外した。

 ほとんど登録されていないアドレス帳。広告のみのメールボックス。このスマートフォンが私のものなのは間違いなかった。

 誰かと連絡を取ろうと、私は伯母に電話する。しかし、コール音の鳴っている最中に、彼女が入院中だったのを思い出す。

 電話を切った私は、次にニュースサイトを開いた。土浦で発生した殺人事件を検索すると、トップに出てきたのは数年前の土浦連続殺傷事件の記事だった。

 事件自体は他にも幾つかあるものの、私の事件は出てこない。

 次に『天田夜』と、自分の名前で検索した。姓名判断のサイトと、台湾のサイトが出てくる。自分の名前と土浦を合わせて検索すると、今度は一件もヒットしなくなった。

 スマートフォンをいじっている最中に、ふとした拍子からカレンダーアプリが起動した。

 七×五マスの日付がずらりと並ぶ。そのうち、昨日の日付だけが青く囲まれていた。

 ……昨日の日付?

 ブラウザに戻ろうとした手を止める。

 私はカレンダーをもう一度眺めた。

 青い四角は今日の日付を示す目印だ。しかし、囲まれているのは昨日の日付……。

 ……おかしい。なにか妙だ。

 ベッドに腰掛けて、テレビをつける。朝のニュースキャスターが各新聞紙の記事を取り上げている。私はその新聞の日付を見た。

 テレビで紹介されている今朝の新聞。その日付も全て昨日の日付だった。

 チャンネルを変える。別の民放で同じ企画をやっている。

 新聞も一緒、取り上げたニュースまで一緒。

 そして日付もやはり一緒……。

 変だ。なにも異常な事態が発生していないのが、かえって変だ。

 ドアノブに手を伸ばすと、オートロックのドアがガチャリと鳴った。重厚な扉が開いてゆく。自分の身体を外に出した。私は廊下の柔らかな絨毯を踏んでいた。

「おはようございます。昨日は勝ちましたか!」

 耳元で叫ばれ、私は二歩下がった。下がった勢いで、ドアが閉まった。

 ……部屋に戻ってしまった。

 私は深呼吸をして再びドアを開けた。

「申し訳ありません、お客様! 驚かせてしまい、失礼いたしました!」

 出だしにまたもや叫ばれる。それでも今度は下がらなかった。立ち止まり、清掃スタッフの顔を見た。

 覚えのある顔だった。昨日と同じスタッフだった。

「お、おはようございます」

 この清掃スタッフはなにも思わないのか? 私が殺人犯だと知らないのか?

 廊下を見渡してもどこにも警官の姿がなかった。いまなら逃げることも可能だった。

 しかし、逃げたところでどこへ行く?

 よく分からないまま、廊下を歩く。私はエレベーターを呼び出した。逃げるなら下のボタンを押すべきなのに、指が勝手に上を押していた。

 エレベーターに私は乗った。試しに三十九階を押してみる。あのレストランのある階だ。

 ドアが開く。レストランの前まで行くと、挙動不審なウェイターがやって来た。私も同じぐらい不審な挙動で応答した。間違った敬語で話しかけられ、ルームナンバーを告げる。お互い不審な挙動で、三度目となる席に案内される。

 椅子を引いて、腰掛ける。

 対面の席には一人の男が座っている。その男の指は異様に太く、耳は曲がっている。その左眉には古い傷跡。

 ――芋洗刑事だ。

 逃げるために身体を浮かしたところで、芋洗刑事と目が合った。

 彼の反応は決まっている。逃亡した私を逮捕するのだ。彼は私に駆け寄って、腕を掴む。身体を押さえつけ、パトカーに乗せる。

 芋洗刑事が一連の行動に取りかかる前に私は逃げ出さなくてはいけない。

 駆け出すために顎を引くと、芋洗刑事もつられて頭を下げた。

 彼がしたのは、それだけだった。

 ……これは?

 逃げるべきだと分かっている。頭は危機的状況だと判断している。しかし、芋洗刑事は落ち着いてワインを飲んでいる。

 私は芋洗刑事から視線をそらさず席を立った。逃げるためではない。確かめる必要があったのだ。

 ビュッフェの前に私は立つ。

 昨日のビュッフェは見た目からして不味かったが、今日のビュッフェも同じだった。料理の一部が焦げている。それでも店が再開したからには、味はよくなっているはずだった。

 昨日と同じメニューを皿に載せる。スクランブルエッグとコーヒーは少なめにし、パンとクラッカーは昨日と同じ量だけ取った。

 席に戻り、手を合わせる。

 最初はコーヒー……。

「……うっ」

 口に広がったのは昨日と変わらない味だった。今朝のコーヒーも泥水だった。苦いだけの飲み物で、全然改善されていなかった。

 私は口腔内のコーヒーをパンに染み込ませて飲み込んだ。

 スクランブルエッグを口に入れる。これも昨日と変わらないスポンジ風味の卵料理だった。

 少なめにしたおかげで、難なくスクランブルエッグとコーヒーはやっつけられた。私はまだ残っていたパンを、一口サイズにちぎって口に運んだ。

「やあ、タダ飯は美味いか?」

 唐突なはずなのに、脳はその台詞を予期していた。対面の席で、ビリジアンセーターの青年が、芋洗刑事に話しかけていた。

 芋洗刑事と目が合って、私はびくりと肩を震わした。

「避けられているではないか」青年が嬉しそうに言う。「ははーん、なにかやらかしたな?」

「お前じゃねぇんだ」

 芋洗刑事はそれ以外、私に関してはなにも言わなかった。

 青年が座り、セーターの袖をめくる。献血のあとを示すやりとりにも覚えがあった。

 パンがなくなり、あと残るのはデザートのみだ。私は立ち上がり、グラスに水を注ぐ。

 私が座るのと同じタイミングで、一人の老人が現れる。

「天田君だったね」

 総支配人の猪去忠義だ。

「あ、え、あ、はい」猪去は昨日私の逮捕された場に居合わせている。

 私の慌てる仕草を見て猪去は、「これからよろしく頼むよ」とだけ言い、別のテーブルに移っていった。

 遠くのテーブルで猪去がウェイターに合図を出す。大盛りになった皿がやって来る。猪去は食べながら顔をしかめる。呼ばれたウェイターがほっとする。皿の料理が半分までなくなったところで、諏訪が来る。しばらくすると諏訪も消える。

 私の回りをたくさんの現象が通りすぎていく。そのどれもが私にはぶつからずに消えていく。

 私だけが取り残されている。

 私だけが現象から孤立している。

 最後まで残したデザートを口に含む。昨日はあんなに美味だったデザートが、今日はぱさぱさとして味気なかった。


 エレベーターで一階に降りる。その途中でもデジャブはひっきりなしに発生した。ボタンを押すというなんでもない仕草にも、覚えがあった。

 やはりこれは現場検証なのか? 捕まったショックで、私の脳が警官や手錠を認識しなくなったのか? そう考えれば、このデジャブの多さにも納得がいく。

 私は、なにかに導かれるように、足をカジノへ向けていた。

 フィジオの間を抜ける。チップを持ってルーレットの席に行く。昨日騒ぎを起こしたおじさんがルーレット席に座っている。その隣の席は空席だ。

 私は彼から離れた席に腰を下ろした。

「赤で」

 百円チップをディーラーに渡す。結果は、……赤だ。百円が二百円になる。

 次のゲームも赤だった。その次も赤。そしてその次も……。

 ボールが転がっている最中に地面が揺れる。スマートフォンを取り出すと、時刻は九時十分だった。テーブルが揺れ、ボールが黒の6番に落ちた。

「待った待った! いまの勝負は無効だ! 地震のせいで狙った場所がずれたんだ! だから無効!」

 私はその言葉を聞き流す。何人かの客が不快そうに顔をしかめて席を立つ。ディーラーの合図で人が来て、おじさんがどこかへ連れ去られる。


 外に出て、冷たい風を浴びる。国道125号沿いを歩く。橋の下を覗くと、手こぎボートがひっくり返っている。ボートに書かれているのは『うだがわ』の文字。

 少し先に、ボート小屋が一軒建っている。ボートと同じ名前の店だ。

 パイプ椅子にまたがって新聞を読んでいる男を、私は無視する。男は私に気がつかずに新聞をめくった。

 霞ヶ浦沿いの道を歩くと、穏やかな雰囲気はより増した。

 丁寧にカットされた芝生で、腰の曲がったおじいさんが絵を描いている。くの字型の腰。枯れ木を思わす骨と肌。空に向かって投げれば回転しそうな世界最強の猫背。

 十一時を示すデジタル時計を通りすぎる。おじいさんは私に気づかない。彼は黙々と絵を描いている。

 おじいさんの向こうで、四人の子供がきょろきょろして人が通るのを待っていた。私は彼らに見つかりたくなく、あえて道を外れた。しかし眼鏡をかけたリーダー格らしき子供が私を発見する。

「なぁ、そこ行くでっかい姉ちゃん」

 聞こえないふりをして先へ進む。

「話ぐらい聞いてや、でっかい姉ちゃん」

 四人の子供が私の前に回り込む。

「……え、あ、うん」

「お。聞いてくれるんか。すまんな。ちょっと上見てくれへん?」

 太い幹から出た枝。そこに凧がぶら下がっている。

「ゲイラカイトが引っかかってしまったん」

 太った子供が言った。

「えと、取ればいいのかな?」

「せやで、話分かる姉ちゃんで助かるわ」

 私は一応ジャンプした。届きそうで届かない。

「めっちゃ惜しいわ」

「あと少しなんやけどなぁ」

「姉ちゃん一人じゃ無理なんや。おう、ドケ秀。おま、土台になれや」

 眼鏡をかけた少年が指図をすると、喋らなかった最後の少年が丸くなる。

「これ、足場にし。こいつ土下座の秀坊言うて、筋金入りの変態やから」

 私は靴を脱いで少年に立つ。指が紐に引っかかる。糸が切れて凧が落ちる。

「ええ仕事するやん」

 地面に落ちる前に太った少年が凧を受け止める。

「じゃあな姉ちゃん」

「お礼は五億年以内に払うわ」

「次会ったときも助けてくれや」

 三人の子供たちは銘々好き放題告げて去っていく。ぺこりと頭を下げたのは、土下座の秀坊だけだった。

 サイキ・グランド・ホテルの裏側を歩く。昨日踏んだはずの芯の入った草をまた新たに踏み分ける。たびたび足を突かれ、その痛みに引き返したくなる。

 細い竹を目にして手に取ると、竹梯子がのっそりと立ち上がった。

 私は上下を逆さまにして、二段目に軽く触れてみる。

 ……昨日踏み抜いたはずの段が壊れていない。

 見た目はしっかりしているのに、引っ張ると二段目の足場はあっけなく折れた。

 竹梯子を放って来た道を戻る。一度踏まれた草は、いまでは立派な道になっていた。


 考えないようにはしていた。

 しかし、考えないようにするとは、予想していたと同じ意味だ。

 カジノに戻ってブラックジャックテーブルに目をやった私は、たちまち吐き気を催した。

 そんなはずはない、ありえない。これは現場検証なのだ。

 そう思うたびに私の意識は別の考えを訴えていた。

 いままでだって、倒れないよう必死に耐えていたのだ。

 でも、こればっかりは、あんまりだ。

 カジノのブラックジャックテーブル。

 そこに一人の男が立っている。

 歳は四十になろうとしている。やつれた頬に、細い双眸。唇は小さく、肌は血が薄くて青白い。

 ……あの人だった。

 傷一つないあの人がいまもブラックジャックテーブルにいた。

 私が殺した星定男が、仕事をしていた。ぐちゃぐちゃにかき混ぜた腹部も、ガラス玉のような眼球も、漂わせた死の香りも、全部が全部なくなって、星定男を生きた人間にして、働かせていた。

 あの男を殺した瞬間、確かに私は幸福を感じた。充実した生を得られたのだ。

 その私の幸せが、全て無に帰している。

 こめかみが強く脈打った。夢や幻覚を疑う余裕はもうなかった。

 昨日、確かに殺したのだ。

 でも、その昨日が丸ごとなくなってしまった!

 壁に手を突いて私は歩く。胃が黒くなり、喉に酸っぱいものがせり上がっていた。すぐにでもこの場を離れたかった。背を向けて、長い廊下を進んでいった。ドアをくぐって、椅子に深く腰掛けた。

 背もたれに身を任せ、老犬のように長い息を吐いた。身体を空にすれば、私の昨日は戻ってくると信じた。

 でも、当たるのはいつだってネガティブな予想だけなのだ。

 心をどれだけ落ち着かせても、昨日は変わらず、ないままだった。

 隣の席を見ると、ビリジアンセーターの青年が携帯端末をいじっていた。

「ブックメーカーですか」

 話しかけると、青年が口だけを動かした。

「お金自体に価値がないというのは暴論だ」

「……え?」昨日とは全然違う話だった。

「君にも分かるよう論点を先に言ってしまおう。僕は価値の話をしている。いいかね。明治政府が発行した最初の紙幣、太政官札は兌換紙幣だったのだ。兌換紙幣。すなわち、同額の黄金と自由に交換できる紙幣だ。黄金と言っても別にSM用語じゃないぞ」

「どういう意味ですか?」

「SM用語ではウンコのことを黄金と呼ぶ」

 ……はあ。

「しかし、なぜ紙幣を発行するのにいちいち黄金などというものを示す必要があったのか?」

「最初の紙幣には信用がなかったからですか?」

「その通りだ! 君の解答は完全に正しい。しかして問いは次へと続く。では黄金はなぜ信用があったのか?」

「……ええと、それまでは小判が流通していたから?」

「外れだ」青年は端末から目を離さない。喋っている間もずっとその指は動いている。ピアニストのように繊細で、迷いのない細い指……。「答えは単純で構わないのだ。黄金は美しい。個性の備わった万人の価値観を統一させてしまうほど、黄金は単純に美しい。美しいものには価値がある。黄金と交換できるならと、最初の紙幣は信用を得られた。そして次なる問いが出る。では、いまの紙幣はなぜ黄金と交換できない不換紙幣になったのか?」

「……銀行に黄金を確保しておくのがもったいないから?」

「大外れだ、このバカモノ!」

「うひゃあ!」突然、怒鳴られれば誰でも叫ぶ。しかし青年は叫ばれたのは心外だと言わんばかりに淡々と話を進めた。

「価値が移ったからだ。黄金という段階を経なくても、紙幣自体に価値が生じ始めた。つまり、単なる紙っ切れが価値あるものになれたのだ。黄金と同じぐらいのシンプルな価値が、あんなに美しくない紙幣に発生した。

 こうして最初の呟きに話題は戻る。お金自体に価値がないというのは暴論だ。なぜなら、お金自体に価値がなければ、不換紙幣なんて誰も使わないからな!」

 話の内容が分かっても、なぜその話をされたのかはいたって分からない。それがいまの私の単純な疑問だった。

 次の台詞でようやく青年は私の疑問に答えてくれた。

「具合が悪そうに見えたのだ。それも風邪や貧血といった症状ではない。もっと精神的な具合の悪さだ。ここはカジノだからな。理由は大敗か、もしかしたら持っているだけで不安になる金額を得たのかもしれぬと考えた」

 どうやら私は慰められていたらしい。しかし、大敗したなら『お金には価値がない』という結論で締めなくてはいけないと思う。

「最初に言っただろう。論点は価値だ、と。価値はいろんなものにつながっている。価値あるものとは、美しいものや黄金、紙幣だけではない。お金なんて一つの例でしかない。なんなら時間だっていいのだ。人は価値あるお金を得るために働く。労働とは価値のあるお金を、同じく価値のある時間と交換する行為。君が労働を嫌う人間ならば、娯楽を例にしてもいい。人は価値ある娯楽を得るために、価値あるお金や時間を支払っている。

 君も価値あるお金を得、価値ある時間を延ばし、価値ある娯楽を見つけたまえ。自分の心が願うままの行動。その先に君だけの永遠の価値が眠っているぞ」

 私にとって価値のあること。自分の心が願うままの行動。それを青年はやれと言う。

 どうしてかは分からないが、昨日はなくなった。私が苦労して死体にした男は生き返り、歓びの根拠が消え去った。結果、私は立つこともままならぬほどの苦痛に塗れた。

 しかし、もし昨日の殺害があれほどはっきりしたものでなくて、私があの人を崖から落とした程度だったらどうだろう? 私はあの人の姿が見えなくなった時点で復讐を遂げたと思い込んだが、それでもあの人は息を吹き返し、近くの農村で名前を変えて暮らしていると、後日私が知ったとしよう。

 あの人の生存を知った私はどうするか?

 当然、もう一度殺しに行く。

 昨日がなくなったのは奇妙で驚くべき話だった。しかし、大きな驚きにだけ注目して当初の目的まで見失ってはならない。復讐の価値までなくなってしまったと考えてはならない。

 昨日がなくなったのなら、あれはリハーサルだと捉え、今日、改めて、同じことをすればいい。

 復讐するために私は土浦まで来たのだ。私にとって最大の価値とはあの人を殺すことに他ならないのだ。

 私のやることは、昨日も今日も変わっていないはずなのだ。

「……ありがとうございます。気が紛れました」

「なあに。礼ならいいさ。愚民を導くのも我が一族の使命の一つだ」

 お礼を言ったら、さらりと愚民扱いされた……。

 青年がスポーツ観戦をし始める。

 私はスポーツ・ベッティングルームを出た。

 私にとっての最上の価値はある人を殺すことだと言ったら、あの青年はどんな反応をするのだろう? 案外「価値があるならやりたまえ」と背中を押してくれるかもしれない。

 私がホールに戻るのと、あの人がホールを去ったのは同時だった。

『スタッフ専用口』のドアが冷たく閉まる。私は監視カメラを避けて移動する。ドアを押し、白色の無機質な廊下に身体を滑り込ませる。

 リノリウムの廊下が鳴っている。そこに私の足音を混ざらせる。

 角を曲がるとスイングドアが揺れていた。ドアの手前に山積みになったシーツがあった。

 私はシーツを一枚掴んだ。背中に隠していた出刃包丁で、目の部分に穴を開けた。私はシーツ越しに出刃包丁を掴んだ。指紋を残さないようにするためだ。

 用意が調ったので、勢いよくスイングドアを押した。大きな音が出て、あの人が振り返った。昔と変わらないあの顔だ。私は駆け寄る。手にぎゅっと力を込める。そして、

「……これが私の価値だァァァー!」

 私は感情を爆発させた。視界にノイズが走る。殺意が心を塗りつぶし、目の前の男をがむしゃらにぶっ壊したくなった。

「価値! 価値! 価値! 価値!」

 私は叫んだ。叫んで腕を振り下ろした。傷口に空気を入れて、細胞のつなぎ目を外した。この男を遺伝子レベルにまで分解してやりたかった。

「こちらがこの男から取り出したアデニンになっております! こちらがグアニン! こちらはチミン! シトシンはありません。私が全部壊しました! ぶっ壊してやりましたァァァ!」

 出刃包丁を抜くと、血がシーツに飛び散った。同時にぷんと、あの臭いがした。

 間違いようのない死の香り。

 腕を止めてシーツを脱ぐ。シーツを星定男だったものにかける。ただでさえ染まっていたシーツは、より赤黒く染まっていった。

 こうして私はなんだかよく分からないまま、二度目の浄化を果たした。


 出刃包丁を持ったままにしてはいけない。人を殺した凶器を自室に持って帰ればどうなるか。いまの私はその結末を知っている。

 私が出刃包丁を凶器に選んだ理由は、ナイフよりも入手しやすくて、女性が買っても違和感がないからだった。この出刃包丁は日本全国どこにでもあるもので、警察の組織力がどれだけ優れているかは知らないが、こんなありふれた凶器から私にたどるのは土台不可能のはずなのだ。

 凶器を現場に残して、リネン室を出る。やるべきことをやったいまは、身も心も軽くなっていた。

 廊下を歩いて鼻を鳴らす。死の香りがまた私に吸いついている。他の人には分からなくとも、私にだけは分かるこの香り。価値とは真逆の、酷い不快感を抱かせる香り。

 私は『スタッフ専用口』を堂々と開けた。フィジオの前を普通に通る。エレベーターを上がり、あてがわれたスイートルームへと戻る。

 衣服を脱ぎ散らかして、冷水を浴びる。死の香りが薄まったところで今度は冷水を熱くする。

 ああ、心地よい……。

 世界がクリアになっていく。解放感にあふれ、一度は見放されたこの世の善なるものが、再び私に戻ってくる。

 それまで無意味だった世界が、手のひらを返したように今度は私と関わってくる。

 私は世界の一員に戻れたのだ。

 シャワーを終えると、入念にドライヤーをした。鏡でまんべんなくチェックして、髪が乾いているのを確かめた。

 凶器はない。髪も濡れていない。これなら大丈夫だ。

 私は服を着替えて、カジノに向かった。いまはとにかく無性に手本引きをしたかった。

 私の前で手本引きのドアが勝手に開く。昨日と同様、タイミングよく席が空いたところだった。

 私はヤスウケで勝負を交わした。時折、札が見覚えのある形を取った。そういうとき、私は必ず勝てた。

 昨日よりも大分勝っている。

 そのはずなのに、全体的にはまだ負け気味だ。

 チップの数が減っていく。手元の金が七割を切る。せめて八割まで戻そう。そう思ったところで、洋装の従業員がやって来た。

「おい!」

「へい!」

 洋装の従業員が、和装の男に耳打ちをする。話を聞くうちに、和装の男が慌て始める。

「おうおう。なんだ手入れみたいな顔しやがって」

「すいません。場をお開きにさせてもらいます」

 不満と強気。負けている人と勝っている人で場が分かれる。その上従業員はさらに言う。

「申し訳ありません。カジノの全ゲームを一時締めさせてもらいます。ホテル内の移動はご自由にできます。しかし、許可なく外に出ることはできません」

 これがタイムリミットだ。私は負け分を取り返すことは諦めて、大人しく部屋に戻った。

 寝間着に着替えて枕元のスイッチを押す。カーテンが自動的に閉まる。爽やかな睡魔がまぶたの裏を優しく撫でる。


 ノックが聞こえた。時計に目をやる。十六時をかすかに回った時刻だった。

 誰が扉を叩いたか、いまの私には分かるのだった。

 上着を羽織り、訪問者を迎える。総支配人が頭を下げた。その背後には一人の男がいる。

 芋洗刑事が眉の傷口を向けて私を睨んだ。

「あれ、猪去さんだ。おはようございます」

「寝ていたのか。悪いことしたな」

「いーえー、構いませんよ。どうぞ入ってください。って総支配人に言う言葉じゃありませんね」

 猪去は薄く笑った。反対に、芋洗刑事は無愛想なまま部屋に入った。

「彼は、当ホテルのお客様でもある芋洗是近さん。刑事だ」

「さっきまでオフだったがね」

「最初に、天田君に言わなくてはいけないことがある。前から君のことを知っていた。星君との関係を知っていて、それでも君を雇ったのだ」

「……興味深い話ですね。どうして雇ってくれたんですか?」と私は問う。

「理由は二つある。一つは、その……」猪去は一瞬ためらった。「……星君は、どういうわけか君を殺さなかった。婚約者も含めて全員殺しているにもかかわらず、だ。私には殺人者の気持ちなど理解できないが、彼は君を殺せないのだと思った」

 星定男が私を殺さなかった理由。それは私も気になっていた。

「……あと、もう一つはなんですか?」

「何十年も前の話だ。私は生まれて初めてカジノに行った。場所はラスベガス。ビギナーズラックでどのゲームでも勝ちまくっていた私は、気をよくして遅くまでいた。0時を超えたとき、大人のためのショーが始まった。全裸に近い格好で踊るショーガールたち。彼女たちは全員美しかった。私は胸をときめかせた。それはハリウッド映画の光景だった。興奮した私は、彼女たちを見ているうちに、大切な事実に気がついた。ショーガールは美しいだけではなかったのだ。みなキラキラと輝いていたのだ。その輝きがカジノをより華やかにさせていた。

 私は、見たかったのだ。星君に家族を殺された君が、星君の前でキラキラと輝いて踊るのを、ただ見たかったのだ……」

 私は猪去に好感を抱く。

 この老人は善良だった。カジノを経営しているのに、芯から善良な男だった。

「そうだったんですか……」

「先ほど、星君は死体となって発見された」猪去は力なく呟いた。「病死でなければ、自殺でもない。星君は明らかに殺されていた。刺殺され、恨みを持つものの犯行なのは、犯行現場を見れば一目瞭然だった」

 選手が芋洗刑事に交代する。

「本題は私からだ。犯行時刻は十二時半前後だ。君はその時間、どこにいた?」

 さて、本番だ。

「カジノにいましたよ」

「カジノのどこにいた?」

「ええと、入り口で騒ぎがありましたね。あれは十二時半ぐらいじゃないですか?」

「騒ぎ?」

「カジノに入れろってカードカウンターらしき人が暴れていました。そのときは、ホールの、壁際にいて……」

「待て」

 芋洗刑事が猪去に視線を向ける。猪去は携帯電話を取りだして時刻を確認する。

「……十二時二十八分だった」

「なるほど。君がカジノにいたのは間違いないな」

 私は胸をなで下ろさずに、芋洗刑事の台詞を待った。

「そう。君は十二時半にカジノにいた」言いながら、芋洗刑事は私の反応を窺っている。「奇しくも同時刻に君の家族を殺した男が殺害され、そしてその三十分後、君は手本引きをしていたわけだ」

 どきりと、心臓が鳴った。覚悟していたのとは違う台詞が現れたせいだった。

 そうか。髪は些細な事象に過ぎない。本当に隠すべきは、髪が濡れていたことではなかったのだ。

「……なぜ着替えた?」

「なんで着替えたって断言できるんです?」

 言ってから、これは違うなと思った。この反論はダメだった。人を巻き込むパワーがない。

 これは、罪を認めつつある人の台詞でしかない。

「俺の連れは、君の格好を覚えていた。あの男は最悪だが、それでもその証言は信用できる。ぶしつけで悪いが……」刑事はそう言い、扉ごと剥がす勢いでクローゼットを開けた。「……この服だ」そう、その服だ。「君は十二時半までは確かにこの服を着ていた。新しい質問に答えてもらおう。君は、なぜ、服を、着替えた?」

「それは……」

「事件の起こった三十分後だ。君は手本引きをしていた。心理の読み合いの、ゲームをしていた。フィジオは君を覚えていたぞ。いまと同じ格好の君を覚えていた! 君は服に血がついていないか、気になったのではないか?」

「ち、違います」

 私は死の香りを消したかっただけだ。しかし、その事実は芋洗刑事の言いがかりよりもずっと酷い……。

 私は芋洗刑事の眉の傷口を恐ろしく感じ始めた。ひくひくと蠢く古傷。手で押さえていないと、あそこから血が飛び散りそうだった。飛び散った血は私の顔にかかるだろう。そして、温かだった二の腕はやがて冷たくなり、一度も使っていないシルバーフレームの自転車が錆びるのだ。

「嘘をついてもバレないと思っているのなら、警察を甘く見すぎだ。物証がなければ捕まらないと思っているのなら、刑事を甘く見すぎだ。天田夜。署にまで来てもらおう!」

 そ、そんな……。

「違う。それは、違う……」

「なにが違う? 納得できる理由があるのなら言ってみろ。殺害時刻に服を着替えた理由が言えるものなら言ってみろ。言えやしまい。貴様には言えはしまい!」

「おかしい。これはおかしい! 凶器は私の部屋から見つかっていないのに。ただ服を着替えただけなのに。なんでなの。なんで結局は捕まってしまうの?」

「それは自供と捉えていいのか? うかつな反論は首を絞めるぞ」

「この世界はなにもかもがおかしい!」


 こうして私は、再び捕まった。厳密な意味の逮捕ではないのに、参考人なんて上品な扱いはされなかった。

 物証がなくても逮捕されるだなんて。冤罪がこの世からなくならないのも当然だ。私は胸中で、納得できずに叫ぶ。

 しかし、あの人を殺したのは確かに私だ。自称利口な犯人も、こうやってあっけなく捕まる。そう考えるのが本来は正しい反応なのだ。

 取調室で私はもののように扱われた。天田夜の所有者は私ではないかというように、自由に行動する権利を奪われた。

 同房者のいない女性用留置所で、私は膝を抱えて丸まった。見回りの足音が、休む時間をも奪っていった。留置所の壁の染みが、私の悲しみと重なっていく。

 鉄格子越しに見える時計が時刻を示す。なめらかに動く秒針が、分針と重なる。

 秒針と分針の間で私の首なんて切れればいい。

 どうしようもないほど私は一人で、世界から弾かれていた。



 ああ、7時1分だ……。

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