第2話

 覚醒する直前、いま何時だか分かることがある。

 今日の私がまさしくそうだった。七時ぐらいだなと思って目を覚ますと、枕元のデジタル時計はちょうど『7時』を示していた。

 広々としたダブルベッドに、マホガニー製のタンス。よく分からないけれど、高級そうな布地と木材の組み合わせだ。それとは別に複数の材質の匂いも混じっている。

 デジタル時計のそばにはスイッチがある。スイッチを押すと、カーテンが自動で開いた。窓ガラスを通過した朝の光が、眼球を激しく貫く。

 窓のそばを一羽の白い鳥が飛んでいた。群れも番いもいない孤独な鳥。しかし、鳥はどことなく気持ちよさそうだった。

 身支度を調えて部屋を出ると、清掃スタッフが廊下を掃いていた。通りがけに「おはようございます。昨日は勝ちましたか!」と快活な声をかけられる。その元気のよさをうっとうしく思いながら、「おはようございます! もう大勝でしたよ!」と返事する。

 エレベーターに乗る。目指す先は展望レストランだ。部屋にあったホテルの案内によると、朝食時にはビュッフェスタイルになっているそうだ。

 あまりお腹は減っていないけれども、卵料理とスープぐらいは入れておくべきかもしれない。私は昨日の料理を思い出しながら、エレベーターを出て左に曲がった。

「……?」

 レストランが見えた瞬間、違和感を覚える。具体的には、そう、昨夜は混み気味だったのに、今朝はがらんと空いていた。時間帯の問題かと思ったが、そういうわけでもなさそうだ。歩いているウェイターから浮ついた気持ちを感じ取る。彼らは接客に集中できていなかった。

 間違った敬語を使うウェイターにルームナンバーを告げ、昨日と同じ席に案内される。

 対面のテーブルには、昨日と同じ格闘技の男が腰掛けていた。男の着ている服も同じ。ただ、男が手にしている飲み物だけが違っていた。私の記憶が確かなら、昨夜の男は水を飲んでいた。しかし、今日はワインを飲んでいる。夜はノンアルコール。朝はアルコールというわけだ。

 私が頭を下げると、男も軽く頭を下げた。

 ひとまず飲み物を取ろうと席を立つ。そのとたん、ずっと感じていた違和感はより強まった。

 ビュッフェスタイルでは、同じ色、同じ焼き加減、同じ味の料理が、大きな皿にずらりと並ぶものだと思う。しかし、目の前の料理は一部が焦げていたり、色が違ったりと、統一感が欠如していた。料理のあまりの有様に帰る人もいたほどだ。

 なるほど、それで空いていたのか。

 スクランブルエッグを皿に移し、パンとコーヒーを取る。デザートは大皿に残っていた最後の一つ、クラッカーにクリームとリンゴを載せたものを取った。

 席に戻り、手を合わせる。そして私はコーヒーを口に含む。

「……うっ」

 それは控えめに言っても泥水だった。舌にまとわりつく苦いだけのものだった。泥水の粘度は破壊的なまでに高く、口腔はあっという間に浸食された。身体は温まっているのに、冷や汗が流れている。

 口直しを求めてパンを取った。一口サイズにちぎったパンは、冷めてはいたが、泥水のあとでは美味しかった。ふんわりとしたスポンジ生地に、口腔のコーヒーが染み込んでゆく。

 口がすっきりしたところで、私はスクランブルエッグに取りかかる。コーヒーを飲んだ時点で、嫌な予感はしていた。いつだってネガティブな予感ほど当たる。

 卵料理を舌に載せる。

 まるで遠心分離機にかけられたように、スクランブルエッグは無味だった。焼き方が悪く、柔らかいスポンジを咀嚼している気分になった。

 私は食事を残すのが嫌いな人間だ。一度皿に載せたからには、なんとしても空にしたい。それがどんなに不味い料理でも、私は絶対に空にしたい。

 だから私は、泥水とスポンジを、一口食べては無理矢理気分を盛り上げた。

 一口食べては盛り上げる。一口食べては盛り上げる。

 咀嚼の儀式を繰り返すうちにコーヒーもスクランブルエッグも冷めていく。料理はますます食べにくい代物に変わってゆく。

「やあ、タダ飯は美味いか?」

 店内に響き渡る声に、私は顔を上げた。対面で黙々と食べていた格闘技の男に、青年が話しかけていた。

「驚くほど不味いぞ」と格闘技の男。

 青年が座る。その服に見覚えがあった。

 濃いビリジアンのセーター……。

 昨日、バカラで一人勝っていた青年だった。青年は格闘技の男の連れだったのか。しかし、二人の関係性が見えない。友人にしては年が倍ぐらい離れているし、親子にしては近すぎる。上司と部下のようでもあるが、態度は青年の方が大きい。若くて奔放な実業家と、堅実な重役あたりだろうか。

「朝からワインを飲んでいるのかね?」

「お前の分も頼むか?」格闘技の男がグラスを持ち上げる。

「よいではないか、と言いたいところだが、ダメだ。僕は飲めない」

「珍しいな」

「というのも、ついさっき献血してきたからだ。献血した直後にアルコールを飲むと大変なことになるのだ」

 私はホテルの前に止まっていた献血バスを思い浮かべた。

 青年がぐっと袖をめくった。肘関節に白いパッチが貼られているのが見えた。

「朝から献血かよ」

 男の台詞はもっともだ。

 しかし、青年は気にしないようで、「笑止の至り。血は美しい。そして僕は美しい。すなわち、我が高潔なる血液は世界でも最たる美しさを放っている。僕は自分の血を見たいという理由で献血する世界一素晴らしい人間なのだ」

「恐ろしくエゴイストでナルシストな献血理由だな」

 そんなやりとりをしたあとでビリジアンセーターの青年は、水を持ってきて飲み始めた。

 二人の話を聞く間にも、私は手を止めなかった。皿の料理を片づける。途中でパンをおかわりし、コーヒーの不味さをごまかした。必要以上に腹が膨らみ、それと引き替えに皿は空に近づいてゆく。

 あと少し。もう少しだ。

 ついにスクランブルエッグを全て平らげ、私はコーヒーを飲み干した。

 これで残るはデザートのみとなった。最後の仕事を終える前に、私は青年を見習って水を持ってきた。どういう理由でこんなビュッフェになったかは知らないが、水が不味いことはない。無機質なウォータークーラーの音に、いまは癒やされる。

 席に戻ったとき、一人の老人がレストランに現れた。

 私はその老人を知っていた。というよりも、ホテルの従業員は全員がその老人を知っていた。

 私は彼に挨拶するために腰を上げた。

 すると、老人の方から近づいてきた。

「天田君だったね」

「わ。知っててくれたんですか!」

 驚いて軽く叫ぶと、老人は私のテーブルに座った。

「君のような美しい女性のことはもちろん知っているとも……、と言いたいところだがね。昨日、ハルちゃんから君のことを聞いたんだ」

「春子さんですか?」

「彼女は私の二人いる秘書のうちの一人だ」

 なるほど。顔はともかく、名前さえも老人が知ってくれていたのは春子のおかげだったのだ。

 もちろん私は老人の名前を記憶している。

 なにしろこの老人は、サイキ・グランド・ホテルの総支配人なのだから。

猪去いさりさんもお食事に来られたのですか?」

 猪去忠義ただよしは手を上げてウェイターを呼んだ。命令を受けたウェイターが、大皿に料理を全種類載せる。その大皿は猪去の前に置かれた。

「……参ったよ。料理が不味いというクレームが朝からひっきりなしでね。あまりにも多いものだから、直接確認しに来たわけだ」

「な、なるほど……」

 大量の不味い料理を前に、つい私の語尾は濁る。

 猪去が最初に口にしたのは、カリカリを通り越して、ただ焦げているだけのベーコンだった。

「……酷いな」

 猪去はコーヒーカップに手を伸ばす。私が注意する時間はなく、猪去は泥水を口に含んだ。そして案の定、目だけで助けを求めてきた。

「パンでごまかせますよ。パンで」

 猪去は素早くパンを取った。

「……これは接客業における私の信条の一つだ。多いクレームは来るべくして来る」

 再びウェイターが呼ばれる。去り際、ウェイターは安堵の表情を浮かべていた。

「今日は営業停止だ」

「でも、なんでこんなに不味いんでしょうね。昨日は相当美味しかったんですよ」

「天田君は昨日の騒動を知らないのか?」

 もちろん、逮捕劇のことなら覚えていた。しかし一人逮捕されただけで、ここまで料理が不味くなるとも思えない。

「言わない理由もないな。説明すると、料理を作っていた連中は全員逮捕された」

「全員? 昨日逮捕されてたのは一人だけでしたけど?」

「その後、レストランぐるみの犯行だったのが判明した。手口も知りたいかね?」

 私は軽く頷いた。

「……大まかに分けると、VIP用レストランには二種類のお客様が来られる」その口調から、私は春子を思い出す。春子も昨日はカジノを二種類に分けて説明した。あれは元々、猪去の口癖だったのかもしれない。「一つは普通に金を払うお客様。そしてもう一つはカジノで負け続けたお客様だ。

 カジノからすると、負けた人は多めにお金を払ってくれた大切な人だ。それゆえに、負けた額に応じた特典を用意している。送迎無料、宿泊無料、そしてお食事無料……。

 食事の無料対象はホテル内の全ての店ではなく、この店の、全ての料理だ。コース料理も一品料理も、ドリンクさえも全てを無料で楽しんでいただく。しかしあの連中はドリンクは有料だと告げて、大切なお客様のなけなしのお金をさらに奪った」

 猪去の奥で、格闘技の男性がワインをもう一杯注文していた。

 ビリジアンセーターの青年は「タダ飯」と言っていた。

 つまり、あの男性は大負けしたのだ。だから昨日は水で、今日はワインを飲んでいる。

 昨夜、私がワインを頼んでもお金を請求されなかったのは、春子越しに予約したからだろう。

「あの連中のしたことは、信用を傷つける許せない行為だ。この犯罪に関わったもの全てを訴えると私は決めた。その結果、従業員が足りなくなった。負けたお客様は、ここ以外のレストランでは無料の食事を楽しめない。代わりに他のレストランを無料にしたところで、その告知は漏れるかもしれない。営業停止は最後の手段にしたかった。そこで、今日は別のレストランスタッフをこの店の補充に回した。そしてその結果得られたのがこの不味いビュッフェなのだ」

 なんだかコックがかわいそうになってくる。「それでもパンは美味しかったですよ」と私はフォローを入れてみる。

「ホテルで使うパンは、全て地下のベーカリーでまとめて作ってる」と猪去は私のフォローを台無しにする。「ここのレストランの調理器具は少々特殊でね。使い方が分からなかったのだろう。私の采配ミスだな」最後に猪去は自分でフォローをした。

 猪去は文句を言いながらも、不味い料理を平らげていく。

 強い責任感だ。私ならこんなには食べられない。

 料理が半分なくなったところで、痩せぎすの不健康そうな男が近寄ってきた。

 彼は猪去に耳打ちする。

「弁護士から連絡が来ました」

 男はちらちらと私を気にするそぶりを見せた。

「こちらは天田君。昨日、ハルちゃんが言っていた子だ。天田君。こちらは私のもう一人の秘書、諏訪すわ君だ」

「どうも」

「諏訪です。よろしくお願いします」

 諏訪は疑り深い目で私を睨む。敵意に近いものさえ感じ、私は居心地が悪くなった。

「席、外しましょうか?」

「そうしてくれ」答えたのは猪去ではなく、諏訪だった。

 私は手洗いへと向かった。

 手洗いを出てからも、展望台をぐるりと一周して、十分に時間を見計らう。

 そろそろ戻るかと角を曲がったとき、身体に強い衝撃を受けた。

「おっと……」

 私がぶつかったのはあのビリジアンセーターの青年だった。

 ビリジアンセーターの青年は袖をまくり上げたままだった。私とぶつかった衝撃でパッチが剥がれ、献血した痕から血が滲む。

「どうもすみません」

 頭を下げてから、私は青年の腕を掴んだ。青年は不思議そうに私を見た。青年の腕を軽く回し、血の滲んでいる箇所に、私は肌身離さず持っているバンドエイドを貼りつけた。簡単に剥がれないよう、指で強く圧迫する。

「あーあ」

 青年は変な声を上げた。そのまま落ちたパッチを拾い、近くのゴミ箱に放った。

「貴重なパッチが。ま、いっか」

 予防接種のとき、パッチをずっと外さないクラスメイトがいたな。私は子供の頃を思い出しながら、もう一度詫びを告げた。

 レストランに戻ると、格闘技の男は一人でワインを飲み続けていた。

 猪去はもうすぐ料理を食べ終えそうだった。

 秘書の諏訪は、すでに姿を消していた。

 そして、私の皿には食べ時を失ったデザートが残っていた。

 クリームとリンゴのクラッカー。これも不味いのだろうな。そう考えると気が滅入る。私は猪去の様子を盗み見た。猪去は退路を断つように食べていた。私も彼を習って無心になるべきなのだろう。

 意を決して、クラッカーを勢いよく口に入れる。

 瞬間、広がったのは極上の甘さだった。嫌らしくなく、それでいてすっきりとしていて、後味もよい。この世にこれほどの甘さがあるとは信じられないほど、素晴らしいクラッカーだった。鼻は芳醇な香りを受け取って、舌は織りなす食材のハーモニーに白旗を揚げる。

 てっきりビュッフェで美味しいのはパンだけかと思っていた。しかし、他にも美味しいものはあったのだ。

「デザートは美味しいですね!」

 私が言うのと、猪去が皿を空にするのは同時だった。

「……そうか。私の皿にはなかったな。もうなくなってしまったのか。残念だ」

 猪去は膨らんだ腹を一つ叩いた。

「……想像以上に時間がかかってしまった。悪いけど、予定が押していてね。私はこれで失礼するよ。天田君。機会があったらまた食事をしよう」

 猪去は親指を額に押し当てた。彼は来たときよりもフラフラになってレストランを去った。

 私も水を飲み干したら出よう。予定が押しているのは私だって同じなのだから。


 フィジオの間を人々が流れてゆく。行き来する全ての顔をフィジオはチェックしている。血走った眼球をフィジオはサングラスで隠す。

 私は団体客に混じった。しかし、背の高い私は必ず頭が出てしまう。高身長は男でも目立つのに、女性となればなお目立つ。フィジオの目から逃れるのは難しい。

 今日は最初から所持金とチップを交換した。私はチップをポケット内でこすりながらカジノを回った。

 真っ先にブラックジャックテーブルに向かうも、ディーラーは知らない女性だった。

 ブラックジャックテーブルで黒人と日本人が隣り合っている。彼らは英語と日本語で互いの戦略を話し合う。意思の疎通が取れているのが不思議だった。

 他のテーブルを見渡しても、あの人の姿はどこにもない。昨日あの人を目撃したのは夕方だった。朝にはいないのかもしれない。

 時間を潰す目的でクラップステーブルを見るも、昨日のディーラーはいなかった。

 今日もクラップステーブルは人気がなく、席に着いただけで注目されそうだった。知り合いがいない状況では気後れがして近寄りがたい。私はクラップステーブルを通り越して、別のゲームを探した。

 一番時間を潰せそうなゲームはなんだろう?

 こうして私はルーレットに注目した。

 ルーレットの客は機を窺う。テーブルに着いているのに賭けていない人も多いのだ。

 ルーレットの空いていた席に私は腰掛ける。

「赤で」私はおっかなびっくり百円チップをディーラーに渡す。

 チップを渡しながらもこんな安い金額では嫌がられるか? と、ついつい卑屈になってしまう。そんな私の心情を知ってか知らずか、ルーレットのディーラーは人懐っこい笑顔を崩さずに、私のチップを赤に載せた。

 台が回り、ボールが転がる。

 回転が止まる。

 結果は、……赤。

 百円があっという間に二百円になった。

 当たったのに気がよくなる。私は次のゲームも賭けると決めた。賭ける場所も同じ赤。ディーラーに渡すのもさっきと同じ百円チップ。

 見た目からは想像できない重い音を鳴らして、ボールが区切りの一つに入る。

 回転が止まる。

 結果は……よし。赤だ。

 あっという間に百円が三百円になった。

 今度は黒に賭けてみようと思う。百円チップを一枚掴むと、隣に座っていたビール片手のおじさんが唾を飛ばしながら言った。

「少しずつ賭けんなよ。流れにノってるときはダーって賭けんだよ。ダーって」

 喋りかけておきながら、おじさんは私を見ていない。おじさんは賭けにも参加していなかった。その双眸はボールを転がすディーラーの指を凝視していた。

 初心者の私はおじさんの忠告に従ってダーっと賭けた。五百円ほどダーっと。

「どうせなら五千円賭けちゃえよ」

 そう言われても、すでに締め切りは過ぎていた。

 ボールがゆっくり転がっていく。

 ……入ったのは、赤だった。

 あっという間に二百円プラスになったのに、今度はあっという間に三百円マイナスになった。

「ついていても外れるときは外れる。臆さずにもっと賭けろ、もっと」

 私は再び黒に五百円を賭けた。勝ったらさっきの分を取り戻せる。そう思って渡したチップだった。

 結果は……ダメだ。また赤だ。

 赤の四連続。こうして八百円の負けができた。

「あーあ、姉ちゃんカモにされちまったな」

 負けた上に、そんな風に言われるなんて。忠告なんて無視すればよかった。

「ディーラーはな、狙った目に入れることができるんだよ。だから赤の次は黒だなんて賭け方は下の下。ましてや玉が転がる前に賭けるなんてのは愚の骨頂だ。玉が転がっている最中に、さっとディーラーが狙っているところに賭ける。いま分かってる範囲でカジノの取り分が少なくなるところに賭ける。ルーレットは心理戦だ」

 またもボールが転がる。私が賭けている間は動いていなかったおじさんが、見てろといわんばかりにさっと動いた。

 五連続赤はないだろうと、客のほとんどが黒に賭けている。そんな中、おじさんは赤にチップを置いた。額は驚きの五万円。当たれば一瞬で十万円を得る。

 回転するスピードが遅くなる。ボールがころりと転がった瞬間、会場がかすかに揺れた。それは熱中していると気がつかないほどのかすかな揺れだった。

「……地震だ」

 ぽつぽつと呟きが漏れる。何人かは慣れた手つきで携帯電話を取り出し、震度を確認する。

 そうこうしている間に、ボールが止まる。

 結果は、……黒だ。

 五連続赤はなく、おじさん、五万円の負けが確定した。

「待った待った! いまの勝負は無効だ!」おじさんが口角泡を飛ばして騒ぎ出す。「地震のせいで狙った場所がずれたんだ! だから無効!」

「そういうのも含めて結果なんじゃないですか?」私は我慢しきれなくて言う。

「地震がなければ勝っていた。こんなの納得できるか!」

「地震のおかげで勝った人だっているんですよ。無効にするなら、その人の勝ち分を、おじさんが代わりに払ってくれるんですか?」

「払うわけないだろ。なに言ってんだ。せっかくいろいろ教えたのに」とおじさんは私を指さす。それはねじ曲げてやりたいぐらい、ぶしつけで失礼な指だった。

「こっちはおじさんの言う通りに賭けて、二勝二敗だったのに損してるんですけど。おじさんは負け方しか知らないんじゃないですか? 相手に損をさせておきながら尊敬を強要させるなんて、人としてどうかしてません?」

「最近の若者は恩を仇で返すわけだ」

「だーから、恩なんてないんですよ。年のことで優位に立とうとするのは、年齢以外に尊敬される箇所がないと自分で認めているからじゃないんですか? 本当に尊敬に値する人なら、周囲に迷惑かけないで、利益を持ってきてくださいよ、利益を」

「ったく、偉そうな口を叩いておきながら、なんだ、利益? 利益だって? 結局金が欲しいんじゃないか!」おじさんはほら見たことかと、馬鹿にするように顎を上げる。そして最後に言い放つ。「この守銭奴が!」

 私はもうぷっつんしていた。さっきからずっと切れていたが、頭がかっとなると、私は周囲が一切気にならなくなる。客もディーラーも巻き込むように、気づいたら私は大きな声を張り上げていた。

「カジノにいる人がそれ言うんですかあ? 大体、利益ってのは真っ当な忠告も含めてその人に幸福をもたらすものですよ。利益から金を連想する方がよっぽど守銭奴だと思いますけどー」

 二人そろって席を立ち、罵り合いが白熱しそうなところで、

「あのー、お客様方……そろそろその辺で」と、ディーラーが間に入った。

 おじさんは注目を浴びていることに気づくと、慌ててルーレット台から去った。グラスに半分残ったビールの泡がはじけて消える。

 私は席に座って、テーブルに額をくっつける。

「……ああー、私のせいで、カジノの上客が減りましたー」

 ネガティブな感情が爆発する。それが私という生き物だった。普段は前向きに見えるよう努力しているのに、苛立つと本性が出てしまう。

 ディーラーは静かに言った。

「気にする必要はありません。ああいうお客様が一人いなくなることで、十人のお客様の利益が守られたわけです」

 ディーラーは慰めてくれたが、このときすでに、私は心に決めていた。

 爆発は注目を浴びる。注目は私の目的に反するものだ。もっと自制心を強めよう。たった一つの例外を除いて、私は爆発しないようにしよう。


 ルーレットの一勝負は一分で終わる。短期間での勝ったり負けたりを繰り返すうちに、不思議と損ばかりするようになる。

 次は黒だと思う。でも最近負け続けだから、あえて赤に賭けてみる。裏をかいたつもりでも、結局黒にボールは落ちる。あがいても負けという運命からは逃れられない。

 そろそろ息抜きが必要だ。

 私は席を立った。カジノを去る前に、ブラックジャックテーブルを見た。ディーラーはまだ知らない人のままだった。

 冷たい空気を求めてホテルを出る。

 十時前のほどよい時刻だった。バスが四台同時に停まり、ドアマンは荷物運びに大わらわ。おかげで私は誰にも見とがめられずにホテルを出られた。

 今日も昨日と変わらない強い風が吹いている。

 私は国道125号側に足を向けた。

 土浦にはサイキ・グランド・ホテル以外にもたくさんのカジノが建てられている。カジノの合間を縫って、土産物屋が並ぶ。棚にカードシューと和傘が置かれているのが面白い。

 ある地点を境に、街の雰囲気が変わる。騒がしい繁華街から、牧歌的な景色になる。高層ビルが並んでいたのに、いま見えるのは平べったい家屋ばかりだった。

 唐突に景色が変わるのは、カジノの建設が認められているのは土浦市だけだからだろう。歩いているうちに、私はいつしか市の境界線を越えてしまったようだ。

 家屋の隙間から霞ヶ浦が顔を出している。クルーザーとボート。それに粒となった小さな鳥たちが灰色の湖面を流れている。

 橋を渡っている最中に下を覗く。川の横で手こぎボートが一艘ひっくり返っていた。あの湖に浮かぶボートの仲間かと思ったが、その割にはやけにぞんざいに扱われている。私は道を戻って、土手に下りた。ボートの腹には『うだがわ』と大きく書かれていた。

 そのまま湖沿いの道を進むと、ボート小屋が建っていた。看板には『レンタルボートうだがわ』と書かれている。

 小屋を覗く。古ぼけた帽子をかぶった男がいる。彼はパイプ椅子にまたがって、新聞で顔を隠していた。私の視線を感じたのか、男が新聞をたたむ。

 男は煙草をくわえたまま私に言った。

「一日二千円」

 出し抜けに料金だけ伝えられた。無愛想な接客だ。注文しづらいにもほどがある。

「あのー。向こうの橋の下のボートも借りられるんですか?」

 男は手をふらふら振った。

「穴空いてる」

 だからあのボートだけ店から離れた場所にあったのか。しかし、穴が空いているようには見えなかったが……。

「水が漏れて沈むよ」と男は言う。

「そうですか。ありがとうございます」

 客じゃないと分かると、男は天井を見上げた。それがもう行けというサインのようだった。

 街を歩き始めて、結構な時間が経った。冷たい空気を肺に入れるたびに、頭がクリアになり、興奮も流れていった。

 そろそろホテルに戻るか。

 同じ道を戻るだけではなんだか損をした気分になる。今度は国道125号沿いではなく、霞ヶ浦沿いの道を使うことに決めた。

 元々のどかな道だったが、道を一本はずれると、穏やかな雰囲気はさらに増す。

 丁寧にカットされた芝生で、腰の曲がったおじいさんが絵を描いている。くの字型の腰。枯れ枝を思わす骨と肌。このおじいさんを空に向かって投げればブーメランのように戻ってきそうだ。

 このおじいさんは奇妙なことに湖に背を向けていた。

 普通、ここで絵を描くなら題材は霞ヶ浦にするはずだ。だというのに、おじいさんは湖を見ていない。

 私は背後から近づいて、おじいさんの絵を盗み見た。キャンパスに描かれていたのは、やはり霞ヶ浦の風景だった。

「どうしてスケッチ対象に背を向けてるんですか?」私は訊いた。

「そのまま描いても面白くないじゃろ?」おじいさんはスケッチから目を離さずに言った。

「現実と違くなっちゃいますよ」

「違くも描けるから絵は面白い。アクション映画もCGを駆使した方が激しくなる。見合い写真はフォトショで加工した方が美しく見える。いまなら自宅で簡単に腰のまっすぐなナイスミドルになれる。二十一世紀はコルセットなんか要らないんじゃ!」

 おじいさんはコルセットを口悪しくののしった。

「……わしも、長い間猫背矯正ギプスをつけていた。これでは体調が悪くなると、医者の勧めに従って、毎日強制ギプスをつけて暮らした。しかし、その結果はどうだと思う?」

「さあ?」

「なんと、前以上の猫背になったのだ! 大リーグボール養成ギプスのように、バネにも負けない強じんな猫背。わしの猫背にかなうコルセットは、もはやこの世に存在しない!」

「生活から改善するべきでしたね」 

「それは無理な相談じゃな。今日も六時からずっとこの姿勢をキープしている」

「はあ、六時からですか」

「ちなみにいま何時じゃ?」

 おじいさんの背後に、スケッチ箱が置かれている。箱の上にデジタル時計があった。すぐそこなのだから自分で見ればいいと思ったが、この老人はどこか逆らいがたかった。

「……十一時ですよ」

「ほんとか?」

 わざわざ訊いておきながら、おじいさんはぐるりと身体を反転させて時計を見る。

「……ほんとじゃった」

「でしょう?」

 初めておじいさんと目が合う。その顔は、他の部位に負けじ劣らじ枯れ木のように痩せていた。

「疑ったのはすまん。どうもスケッチしていると時間の感覚が馬鹿になる」

「休憩は取らないんですか?」

「気分が乗っている間はいっさい取らん。いまわしは最高に燃えている。十五時までこのまま描き続ける」

「十五時?」

「……観たいドラマの再放送があるでの」

 そう言うと、おじいさんは再度スケッチに向かった。

 手は動き続け、腰は曲がり続けている。

 年季は短所を誇りにまで引き上げるのだなと私は思った。


「なぁ、そこ行くでっかい姉ちゃん」

 おじいさんから離れると、すぐに声変わり前の甲高い声に呼び止められた。

 でっかい姉ちゃんとは、十中八九私のことだ。しかし、私はあえて声を無視した。

「話ぐらい聞いてや、でっかい姉ちゃん」

 四人の子供が回り込む。そこまでされてしまっては無視を続けるわけにもいかなかった。

「……なに?」

「お。聞いてくれるんか。すまんな」

 道をふさいでおいてよく言う。

「で、なんなの?」

「ちょっと上見てくれへん?」

 リーダー格らしい眼鏡をかけた子供が頭上を指さす。

 太い幹から出た枝。そこから白いものが垂れ下がっていた。

「ゲイラカイトが引っかかってしまったん」

 言ったのは太った子供だった。

「うん、それで?」

「かー、話分からん姉ちゃんやな。取ってくれ言うてんのに」

 言うてないし。

「俺らじゃ背伸びしても届かんからな。でっかい姉ちゃんの働きによって恵まれない子供たちが救われるって話や。分かるやろ?」

 やけに鼻の穴の大きい少年がふんぞり返って言った。

「君たちずっとここにいたの?」

「せやで」

「誰か通るの待たないで、あのおじいさんに頼めばよかったじゃん」と私は絵描きを指さした。

 おじいさんは私たちの様子には気づかず、黙々と腕を動かしている。

 太った子供がため息を吐く。「姉ちゃん頭おかしいんとちゃう? あんなじいさんせいぜいハムスター小屋のつっかえ棒にしかならんわ」

 どうも少年たちが困っているのは本当のようだ。私は親切心からではなく、早くこの場を去りたいがために、取ってあげることにした。

 腕を伸ばすも、宙ぶらりんの凧は、私をあざ笑うかのように揺れるだけだった。ジャンプをしても、凧まではわずかに届かない。

「めっちゃ惜しいわ」

「あと少しなんやけどなぁ」

「姉ちゃん一人じゃ無理なんや。おう、ドケ秀。おま、土台になれや」

 眼鏡をかけた少年が指図すると、それまで喋らなかった最後の少年が丸くなる。

「これ、足場にし」

「いいの?」

「大丈夫。こいつ土下座の秀坊言うて、筋金入りの変態やから。噂によると姉ちゃんみたいな綺麗なおなごに踏まれて死ねるのなら本望って話よ」

 見知らぬ少年を踏めと言われ、さすがに私は戸惑った。しかし伏せている少年はじっと身動きせずに待っている。凧が取れるまで、この子は動かないのかも知れない。

 私は靴を脱いで少年の上に立ち、腕を伸ばした。

 指先が凧に引っかかる。勢いよく指を引くと、糸がパチンと音を立てて切れた。

「ええ仕事するやん」

 凧が地面に触れる前に太った少年がキャッチする。見かけからは想像できない俊敏な動きだった。

「凧なんて久しぶりに見たよ」靴を履きつつ私は言った。

 土下座の秀坊は、何事もなかったかのように立ち上がり、膝についた泥を払う。その動作は不気味なほどこなれている。

「親どもが『子供はこれで遊んでなさいー』って言って渡すんや。なんや舐めくさりおって。一日中ゲームでじゃらじゃら遊んでんのはお前らの方やないかい。いまどきの子供がゲイラカイトなんかで遊ぶもんか」

「でも遊んでるじゃない」

「ま、人生で一度ぐらいはこういう妥協を経験してもええんとちゃうか?」

「内申点と同じや。凧揚げすることで、親の子供に対する内申がよくなるわけよ」

「姉ちゃんもいろんな人の内申点上げときや。善人に思われると生き方便利になるで」

 三人の子供たちは銘々好き放題言って去っていく。ぺこりと頭を下げたのは、土下座の秀坊だけだった。


 カジノに戻る前に、私はサイキ・グランド・ホテルの裏側に回った。部屋の窓から見下ろせるトタン屋根が、いったいなにを隠しているのか。それが私の気になっていた。

 ホテル裏に回っても道はない。ある程度から先は、湖岸に生えた、あの芯の通った草を踏まなくては進めない。

 足を下ろすたびに、頑丈な草に身体を突かれ、その痛みに引き返したくなる。

 これはホテルの周辺を知っておくために必要なんだ。そう私は自分に言い聞かせて、痛む足を動かし続けた。

 数分ほど歩くと、なにかに日を遮られる。

 下ばかり見ていて気がつかなかったが、いつの間にか私は、トタン屋根の下にまで達していた。

 視線を横に動かすと、高さ五メートルほどの壁が、ずっと遠くまで延びていた。

 コンクリートむき出しの壁。旧ベルリンを思わす、なんの変哲もない壁だった。

 これはもしかしたら、水難事故防止のための壁かもしれない。

 壁を建てたはいいものの、この壁はあまりにも見栄えが悪い。きっとトタン屋根は、硬質な壁を宿泊客の目から隠すために設置された目隠しなのだ。

 このまま壁沿いに進めば裏口ぐらいあるだろう。そう考えてさらに歩き続けてみたものの、裏口はいつまで経っても現れない。

 ここまで進んでしまった以上、いまさら戻りたくはない。かといってこのまま草木を踏み抜き続けるのもおっくうだ。

 なんとか楽できないだろうかと辺りを探る。草をかき分けたとき、足になにかが引っかかった。

 頭を下げると、足下に細い竹が倒れているのが見えた。これが私に引っかかったのだ。

 こんなところに竹か……。

 発見したものを手に取ると、周囲一帯の植物が音を立てて揺れた。

 手に取ったのは一本の竹だけなのに、立ち上がったのは二本の長い竹だった。この二本の長い竹は、平行に連なった複数の短い竹によってつなげられている。

 竹梯子だ。それもちょうど壁と同じぐらいの高さの竹梯子だ。

 持ち上げてみると竹梯子は意外に軽かった。私は試しに竹梯子を壁に掛けてみた。ものはついでと、一段目にそっと足を乗せると、梯子全体が大きくしなった。私は動きを止めて、しなりが落ち着くまで待った。

 一段、もう一段と梯子を昇る。見た目は古いが、まだ使える。慣れると、このしなりが楽しくなる。足を乗せてはしなりを楽しみ、しなりを楽しむために足を乗せる。

 いつの間にか、私は竹梯子をほとんど昇っていた。あと少しで壁を越えられる。ゴールが見えて気が緩んだまさにそのとき、上から二段目の足場がポキリと折れた。

 身を守る余裕はなく、顎に足場の一段が当たった。衝撃が走り、竹梯子が反動で大きくたわむ。私の身体が揺れている。たわんだ竹梯子が壁から離れる。

 ここは五メートルの高さで、人に気づかれない場所だった。

 私はしゃにむに必死になって腕を伸ばした。奇跡的に壁上部に指が触れた。考えるよりも早く、私はぐっと肘を曲げた。

 竹梯子が揺れる。私の身体が硬くなる。見下ろす地面も揺れている。壁の表面がこぼれて落ちる。

 揺れが収まっても、私の心臓は激しく収縮を繰り返していた。もう安全だというのに、いつまで経っても緊張はほどけなかった。

 見上げると、ゴールはいまだそこにある。

 乱れた呼吸のまま梯子を昇る。アスファルトに腕を掛け、身体を持ち上げる。

 コンクリートの壁は、竹梯子とは比べものにならないほど安定していた。私は厚さ一メートル以上ある壁の上で横になり、心臓が落ち着くまでトタン屋根の溝を数えて過ごした。

 のどかな鳥の鳴き声が聞こえる。

 私は静かに身体を起こす。

 脈は平常に戻っていた。

 しかし、今度は降りる作業が必要だ。そのためには竹梯子をもう一度使わなくてはいけない。

 目で地面の様子を探る。さっき竹梯子を昇ったのとは逆側、ホテル側には足を貫く草が生えていない。どうせ降りなくちゃいけないのならこちら側の方が歩きやすい。

 目を滑らせると、一つの錆びたドアがホテルに作られているのが見えた。いかにも使われていない感じの孤独なドアだ。非常用出口だろうか。どこで降りても同じなら、あそこまで行ってみてもいい。ドアが開けば、いちいち表まで回らなくてもホテルに戻れる。

 私は壁の上から竹梯子を引っ張った。湖側に掛けられていた竹梯子を、今度はホテル側へと下ろした。その際、折れた段を地面側に回すのは忘れなかった。

 足を掛ける。竹梯子が揺れる。着実に地面に向かいながらも、もうこの揺れは娯楽だと思えなかった。

 身体が軟らかい土を踏む。無事地面に戻れた私は、安堵のため息を長々と吐く。

 肺の空気を入れ換えてから、先ほど発見したドアに近寄った。手のひらでドアノブを覆うように掴む。ノブは硬く、どれだけ力を込めても回りすらしない。

 やはり非常用出口だ。外からは入れないように作られている。

 植物も生えておらず、揺れもしないホテル側の地面を、私は歩いて正面に回った。


 カジノは出たときよりも繁盛していた。

 チップ交換窓口に長い列ができている。私は並びたくなくて、列から離れた。

 ゲームをプレイせず、今度は傍観者として回ろう。

 人目を引かないよう歩き、肩の凝りをほぐすために頭を回す。

 回る視界の中で、ブラックジャックテーブルに目を留めたとき、世界が一瞬停止した。

 血管が広がる。肌が熱くなる。脳が白くなる。周囲の雑音が消える。

 ……私が見たのはあの人だった。

 挙動がおかしくなっているのが自分でも分かった。身体の支配権が奪われ、歩行者と肩がぶつかった。

 客と喋るあの人。ぴくりとも笑わず、淡々と作業をこなすあの人。一見プロフェッショナル然としたあの人……。

 ゆっくりとあの人の顔が私に向く。

 ああ、このままでは私は見られてしまう。彼に私の存在が気づかれてしまう。それはいけない。まだ早い。いまはダメだ。私たちには、もっと相応しい会い方がある……。

 背の高い私は否応なしに人目を引く。私はあの人に見られないよう、スロットマシンの森に逃げ込んだ。そのまま長い廊下に入って、この目立つ身体を隠れさせた。

 そのまま安心して廊下にたたずんでいたら、通行人から不審な目で見られた。ここで立ち止まっていてもダメだ。私は廊下をさらに進んだ。そしてさも、初めから目的地はここでしたよと言い訳するように、一つの部屋に入った。

 そこはスポーツ・ベッティングルームだった。

 ほとんどの人が吊り下がったテレビを見ている。ここなら私は注目されない。背もたれつきの椅子に腰掛けて、私はアメフトの試合に視線を向けた。

「おや? 君は今朝の人じゃないか」

 突然、隣から声をかけられた。

 あの人のことをいったん頭から追い出したい私にとって、話しかけられたのは渡りに船だった。なにかで気を紛らわせられれば、もっと早く冷静に戻れるはずだ。

 私は相手が誰かを確認する前に、「その節は……」と言って、止まった。

 隣にいたのはあの青年だった。バカラで勝っていた青年。今朝ぶつかってしまった、二十歳ぐらいの、あのビリジアンセーターの青年だった。

「……ご迷惑をおかけしました」

「なあに、気にすることはない。人民はみな、僕に迷惑かけることを義務づけられているのだからな」

 変な返事をされる。これはどう反応するのが正解だろうか? とっさには上手い返しが思いつかない。

 私が返事をしないでいると、青年は携帯端末をいじりだした。フィルターのない画面で、横から覗けた。青年が眺めていたのは、アルファベットと数値の並ぶ外国のサイトだった。

「なにを見てるんですか?」

「ゲロみたいな賭けばかり載ったブックメーカーだ」

「ブックメーカー? なんですかそれ?」

「スポーツ・ベッティングの規模の広がったものだ。ブックメーカーは、スポーツに限らず、なんでも賭けの対象にするのだ。自分の子供が今年中に仮出所できるかとか、今世紀中にアメリカが国際単位系を徹底するかどうかとか」

「なんていうか、どうでもいい賭けですね」

 言ってから失礼かと思ったが、青年は気にしなかった。

「阿呆な賭け対象を見ると、モチベーションが湧いてくるのだ。この愚民どもを正しく導くのが僕の天命。そういう気持ちになれるのだ。ほら、この賭けを見てみたまえ。なんだ18ホール中ホールインワンを3回取れるゴルファーが現れるかどうか? って。なんて無知な輩なんだ。すでに金正日が11回取っているというのに」

 青年が携帯端末を傾けたので、私も幾つか読んでみる。

「『盲目の人用のアダルトビデオが出るかどうか?』わー、心底くだらないですねー」

「まったくだ。盲目の人だって普通のアダルトビデオで興奮できるのに。言ってみればこれは差別だよ。一つの特徴を大げさに捉えて騒ぎ立てる、れっきとした差別なのだ」

「ん? これ、審議中になってますね。っていうことは、ビデオ、出たんですかね?」

「もちろん違う」青年は鼻から息を出す。「客は賭けのアイディアを出せばそれで終わりだが、ブックメーカー側からすると長い時間を費やしてオッズの計算をしないといけない。時間の割に合わないものは、このサイトでは全部審議中と表示されるのだ。資料を集め一時間かけて計算しても、客が一ドルしか出さなかったら、時給一ドルの仕事になって大損だからな」

「はー、なるほどー」

 言われて確認してみると、とんでもない賭けは全て審議中になっていた。

 オッズが表示されているものもあるにはあった。が、大体がブックメーカーを知らない私から見ても低めの設定がされている。例えば、『私がダイエットに成功するかどうか?』は百ドルかけても七ドルしかもらえない。

「オッズの低さを言い訳に、ダイエットしなさそうですよ」

「一度ダイエットに成功した人が、確実なマネーを得るために太り直した可能性だってあるからな」

「この程度の倍率なら、普通のスポーツ・ベッティングの方がよくないですか?」

「高い倍率もあるにはあるぞ。明らかに不可能とされるものは、記念で高めのオッズをつけられるのだ」

 ページをスライドしていた青年の指が止まる。私は首を伸ばして携帯端末を見た。ページの真ん中に、300\1と表示された賭けがあった。

「おおー。三百倍」

「元金を入れれば三百一倍だ」

 賭けの内容を読む。

「……名探偵は存在するか? 探せばいそうな気がしますけど。これ割りのいい賭けじゃないですか? 私、賭けようかな。名探偵がいれば三百一倍かあ」

 青年は呆れたように首を振った。「。ミスをするから人間なのだ。ミスしない人間など存在しない。もしミスしない人間がいたとしても、探偵なんて利益の出ない仕事はしない。ミスしない人間がいて、そいつがお金に困っていなく、難事件の解決を望む変な奴だったとしても、普通なら警察の門を叩く。せいぜいが弁護士か判事になるところだ。名探偵? 素行調査以外で、なんのために探偵になるというのだ。夢の見すぎだ。ネッシーの方がまだ写真を撮られただけ存在する可能性は高いぞ」

「うんうん。ほんとそうですよねー」

 言って青年は携帯端末の電源を落とす。青年は賭けていたバスケの試合が始まると、テレビの一つに視線を固定した。

 私はスポーツ・ベッティングルームを出た。青年のおかげで、気持ちは大分落ち着いていた。

 私の中で覚悟が固まりつつあった。


 ホールに戻り、ブラックジャックテーブルを見る。そこにいたのはあの人だった。

 胸が一度だけ高鳴る。けれど、私の身に起こった異常はそれだけだった。

 常にあの人を視界に捉えながら、ぐるりとホール内を半周したとき、入り口から叫び声が上がった。

 何事だろうと顔を向けると、一人の男が二人のフィジオに止められていた。

 昨日の春子の説明が脳裏によぎる。

 あのなんでもなさそうな男は、カードカウンターなのだろう。

 カードカウンターは腕を振り回して、無理矢理カジノに入ろうとしていた。フィジオの二人がその腕を掴む。男が叫び、フィジオがヘルプを呼ぶ。

 入り口で騒動が発生しているのに、門を通る人は誰も足を止めなかった。物騒だと思ってはいるようだが、誰もがカードカウンターの行動よりも、自分のギャンブルを優先していた。

 私は長い間、成り行きを見守った。

 最終的にはフィジオに引っ張られて、カードカウンターの姿は消えた。

 悶着が終わったので、私は視線をブラックジャックテーブルに戻した。

 危うく、今度は私が叫び声を上げるところだった。

 ブラックジャックテーブルのディーラーが若い女性になっていた。

 騒動に気を取られていた隙に、あの人がいなくなったのだ。

 一度は落ち着いた私の心臓が再び暴れる。汗が流れ、自制が効かなくなってくる。あの人を求めて眼球がカジノ中をさまよった。

 騒動に心を奪われていたのは数分だ。交代したのはついさっきのはず。あの人はまだカジノのどこかにいるはずだ。

 無数の人を私は視線だけでなぎ払う。

 あの人はどこに……。あの人はいま、どこに……。

 カジノの一番目立たないところ。高級な雰囲気もなく、テーブルどころか椅子もない場所に『スタッフ専用口』と記されたドアがある。そのドアが開き、一人の男が入っていった。

 背中しか見えなかったが間違いない。……あの人だ。

 このまま見失うべきではない。私は足早に、それでいて目立たないように人の群れを抜けてドアに向かった。

 まだ働き始めてはいないけれど、私だってスタッフの一員だ。もし誰かに見つかっても、大丈夫。言い訳は作れる。

 私は『スタッフ専用口』のドアに手をかける。ドアの横にチップ盗難防止用の機械が設置されていた。一瞬ぎょっとするも、散歩から戻ってきた私は現金とチップを交換しなかった。窓口が混んでいたおかげで助かった。

 私はドアを開けて、素早く中に入った。

 無機質な白色の廊下が続いていた。

 あの人の姿は見えなかった。でも、いるのは間違いなかった。遠くで二足の靴がリノリウムを叩いているのが聞こえた。

 私は音を追った。

 あの人の足音に、私の足音が混ざる。

 ギィと扉の音が鳴り、私は慌てて角を曲がった。

 廊下の中程で、白いシーツが山積みになっている。そのシーツの隣で、スイングドアが揺れていた。

 スイングドアののぞき窓に私は顔を近づけた。ガラスが吐息で結露する。白く霞むその向こうに、あの人の後ろ姿があった。

 目に入るのは、大量のシーツ、毛布、それに布団カバーだった。

 ……リネン室だ。

 あの人はシーツに囲まれた場所で立っていた。あの人は肩の力を抜き、微動だにしていなかった。

 私は目を動かして、室内の様子を確認した。

 ……あの人以外に、人はいない。

 山からシーツを一枚掴む。人の臭いが残ったままのシーツをかぶる。シーツはすっぽりと私を覆う。頭頂部からくるぶしまでがシーツで隠れた。つま先までは隠れないので、いざというときにも動きやすかった。このシーツは、まるで私のためにこしらえられたかのようだった。

 足場の確保、よし。

 目の部分に切り込みを入れた。

 視界の確保、よし。

 勢いよくスイングドアを押す。大きな音が出て、リネン室の中央であの人が振り返る。

 その顔は十五年前と同じ顔……。

 ――ああ、私の運命の人。

 あの人はいまここにいた。

 こんなにも私の近くにいた。

 私は腕にぎゅっと力を入れて、あの人の元に駆け寄った。

 ああ、私の運命の人……。

 私の運命……

「……をぶち壊した人間だァァァー!」

 いまこそ感情を爆発させるときだった。私は自制心を意図的に全て捨て去った。そして、背中に隠し持っていた出刃包丁を星定男にぶっ刺した。

 豚肉の固まりと同じぐらいあっけなく、星定男の腹は出刃包丁を深く飲み込んだ。

 シーツから飛び出る銀色の刃。白い布の内側で、私は柄を握りしめ、破壊衝動に導かれるまま、腕を何度も振るってやった。

 空気を入れてやるのだ。肉と肉の隙間に空気を詰めて、組織をばらばらにしてやるのだ。

 血が飛び散る。リネン室中のシーツが真っ赤に染まる。

 私を覆うシーツが真っ赤に咲く。鉄の匂いが鼻を打つ。倒れたまま動かない星定男に、私はぐっちゃぐっちゃと出刃包丁を振り下ろす。

 ぷんと、あの忌まわしくも懐かしい、香りが漂った。

 これは私だけに分かる香り。

 その正体は死の香りだ。

 私は腕を止めてシーツを脱いだ。

 星定男は事切れている。

 死体の上で私は浄化されていく。

 死体の上で心が落ち着いていく女。

 それが私だ。

 復讐者、天田夜なのだ。


 年の離れた私の姉は、同じことをくどくどと言う人だった。

 家族で外出する際、私が手袋をつけていようものなら「手袋は持った?」とトイレから出るたびに言い、「手袋は持った?」とレストランに入るたびに言い、「手袋は持った?」と帰りの電車に乗る前に言う人だった。

 正直に言って、私は姉が嫌いだった。見れば分かるのに、持っていないとはなから決めてかかる姉が嫌いだった。うっかり本当に手袋を置いてきてしまうと、それ見たことかと偉そうにする姉が嫌いだった。

「お姉ちゃんうざったい」そう抗議するたびに「だってあんたには幸せになって欲しいんだもん」と悪びれもなく言う姉を、私は照れからではなく、心底嫌いだった。

 十五年前、姉は結婚したい人がいると発表して父母を騒がせた。姉は結婚相手を「優しくて、温かい人」となんの説明にもなっていない言葉で説明した。両親はまだ若いのに、と不安がっていたけれど、私は姉が家にいなくなれば、これでもう注意されなくて済むのだとはしゃいだ。

 姉は、家族の唯一の味方である私にプレゼントを買ってくれた。

 プレゼントはシルバーフレームの自転車だった。

 私がそれまで使っていた自転車は子供向けのデザインだった。全体的にピンク色で、ブザーを押すとピヨピヨ鳴る奴だった。同級生の誰もこんな自転車に乗っている子はいなかった。幼稚なデザインが恥ずかしく、私はもうすぐ中学生になるというのに、みんなと遠くまで遊びに行くことができなかった。

 私は友達に見せても恥ずかしくない自転車が欲しかった。そして、私がスポーツタイプの自転車を欲しがっているのを姉は知っていた。

 プレゼントは素直に嬉しかった。嬉しすぎて、しばらくは自転車を外に出さなかった。姉がいなくなったときに使おう。そう決めてリビングの隅に置いていた。両親は「こんなところにあっても邪魔だから」と何度も自転車を外に出したが、私と姉は両親の目がなくなるたびに、自転車をリビングに戻していた。

 姉の婚約者が家に来た、忘れもしないあの日――。

 初めて彼を見たとき、なんだ、姉の説明とは正反対の人じゃんと私は思った。やって来たのは、暗く憂鬱な瞳で、世界を斜に構えて見ている男だった。二十歳だと言っていたのに、生気がなくて、父より老けて見えた。

 それが星定男だった。

 姉は一生懸命、星定男を持ち上げた。しかし、彼は口を開くのも面倒くさそうで、誰の顔も見なかった。緊張だけでは説明しきれない底意地の悪さが、態度全体から滲んでいた。

「定男君。今日はなんかアレだね」ついに持ち上げることを諦めた姉が言った。

「……アレ?」星定男がぽつりと呟く。

「……ゾンビみたいだね」

 とたんに星定男が勢いよく立ち上がった。その衝撃で茶碗が倒れた。こぼれたお茶がテーブルに広がり、私はティッシュに手を伸ばした。

「定男君?」

 姉の不思議そうな声を私は十五年経ったいまでも覚えている。

 暗く憂鬱だった星定男の瞳は、立ち上がると同時に充血した。

 ゾンビはただの創作物だ。私としては「バカ」と言われる方がよっぽど腹が立つ。

 しかし、星定男はキレていた。ゾンビの言葉にキレていた。これほどキレた人間を、私はそれまで見たことがなかった。「ゾンビはお前らの方だろ!」彼はそう言ってキレていた。

 どこに隠し持っていたのか、星定男はコンバットナイフを取り出した。早すぎて彼が腕を振るった瞬間は私の目では捉えられなかった。気づくと、姉の二の腕に線が浮かんでいた。そして次の瞬間、線から血が飛び散った。

 何度両親に出されても、そのたびリビングに戻したぴかぴかのシルバーフレームの自転車。あんなに大事にしていた自転車に、姉の黒い血がへばりつく。血の部分だけが錆びたかのように赤黒く染まった。

 父が止めに入る。星定男は素早く喉を割いて父を殺した。母が受話器を掴む。星定男は背中を割いて母を殺した。

 私は手にしたティッシュでずっと線を押さえていた。大嫌いな姉の二の腕を私はずっと押さえ続けた。

「なんで……なん……で……」

 リビングで囁かれるか細い声。何度も事情を問いただす声が、姉の最後の台詞だった。

 姉の声を聞きながら、私は自転車を見続けていた。

 使っていないのに古ぼけてしまった自転車を、私はずっと見続けていた。

 どうして私だけが殺されなかったのかは分からない。殺す時間ならあった。しかし星定男は両親と姉の三人を殺害すると、警官がやって来るまで玄関で大人しく待っていた。

 逮捕された彼は裁判にかけられ、牢屋に入れられ、首を絞められる。

 星定男はこうして私の世界から永遠に姿を消す、

 ――はずだった。

 死刑になるためには彼の供述はあまりにも曖昧すぎた。前日会っていた友人の人物証言と、事件を起こした星定男は、別人格かと思われるほどかけ離れていた。

『会話をするのもままならず、精神になんらかの変調をきたしていると考えられる』

 こうして星定男は心神耗弱を認められ、懲役十五年の刑で済んだ。

 ある日、腐ったレモンみたいな顔のコラムニストが、この判決についての解説を新聞に載せた。

「心神耗弱は三人以上殺せば極端に認められやすくなる。これは裁判所の不思議なルールの一つだ。裁判所は、正常な人が殺せるのは二人までだろうと考えている。三人以上殺した人間が出ると、この事件は犯人が異常者だから行えたのだと考える。こうして三人を殺害した被告人は、極端に心神耗弱が認められやすくなる」

 最後にコラムニストはこう結ぶ。

「もしももう一人殺されていたら、心神耗弱が認められても罰は重いままだった。せいぜい無期懲役で止まっただろう」

 ……つまり、私のせいだった。

 私が生き残ったから、星定男は懲役十五年で済んでしまったのだ。

 そのコラムニストが適当なことを言っているのは分かっていた。それでも私の頭にこのコラムはすり込まれていった。

 自分の生存が、星定男を助けてしまった。それがどうしようもなく悔しく、憎かった。

 あんなに嫌いだった姉なのに、殺されたとなると、私の中に居場所ができる。居場所はいつしか目的となり、成長するに従って、比重はどんどん大きくなった。

 私は思い込んでいった。

 法が認めないのなら、私が復讐するしかない。復讐を終えない限り、私は前に進めない。

 私はそう思い込んでいった。

 結局、星定男は十三年で出所した。出所と同時にディーラー養成学校に入った。去年の春に卒業した彼は、ここサイキ・グランド・ホテルで働き始めた。

 それを知った私がどうしたか。

 いま私はなにをしているのだったか。

 ――そうだ。

 私は浄化されたのだった。


 私は赤黒く染まったシーツを星定男だったものにかけた。

 毛髪が落ちていないか確認しようとしたが、ここはリネン室。毛髪なんて何百人分も落ちていた。これまで泊まった全ての宿泊客の毛がここに落ちている可能性すらあった。ここに数本、私の毛髪が落ちたところで、大きな問題にはならないだろう。

 それより一刻も早く、ここから離れるべきだ。

 私は肉から出刃包丁を抜き取った。比較的綺麗なシーツを探して血をぬぐい、来たときと同じようにシャツと素肌の間に隠した。

 指紋をつけないようスイングドアは手の甲で開ける。

 さっと左右を確認する。廊下には誰もいなかった。

 歩きながら、自分の格好を点検した。どこかに血はついていないか。様子はおかしくないか。

 見える範囲に異常はない。

 すんすんと鼻を鳴らす。あの人から発せられた死の香りが、べったりと私に染みついていた。香り自体は不快だが、これが私を特別不利な状況に導くことはないはずだ。死の香りとは、人の死ぬ瞬間を知るものだけが嗅げる臭いのこと。せいぜい身内の死ぐらいしか知らない客や従業員に、この香りは嗅ぎ分けられまい。

 私は『スタッフ専用口』を堂々と開けた。誰も私に注目していなかった。スタッフは忙しそうにテーブル間をさまよい、客は自分の役に集中していた。

 フィジオの前を通るときだけは緊張した。しかし、私は呼び止められなかった。

 エレベーターを上がり、スイートルームに戻る。

 死の香りがする服を脱ぎ捨てたい。洗面所まで行くのだってもどかしい。私は歩きながら衣服を脱ぎ散らかした。

 裸になって、ガラス戸を開ける。

 まずシャワーから出すのは冷水だ。冷水が私の肌を震わせて、皮膚にこびりついた香りの元を流してくれる。

 次に冷水を温水に変える。身体を緊張させる冷水が、身体を弛緩させる温水になる。

 ――心地よい。

 いままでの私はずっと頭の中に蜘蛛の巣が張られていた状態だった。ねばねばした嫌らしい網に引っかかり、いつか自分を食い殺す虫が現れるのをずっと待っているような状態だった。

 あんなに忌々しかった蜘蛛の巣が、いまは全部剥がされている。

 シャワーから流れる水の美味しさ。窓ガラスを曇らす湯気の奔放さ。

 私の見るもの全てが輝きを放つ。私の聞くもの全てが喜びを奏でる。一足早い春が私の心に訪れている。新しい人生を歩むために必要なものは、いまここに、全てそろっている。

 世界とは、こんなにも美しかったのか!

 シャワーを止めてバスルームを出る。身体を拭くのがもどかしかった。ドライヤーも化粧も、なにからなにまで面倒だった。

 十五年という潰されていた歳月が、急速に膨れ始めていた。いままではいろんなものがどうでもよかったのに、これまでに捨て去ったもの全てが心の底から魅力的に見えてきた。

 やりたいことが山ほどできた。欲しいものがたくさんできた。

 あの衣装係を呆れさせるほど服を買い、まぶしくて目が開けられなくなるほどきらびやかなアクセサリーを買い、腹がふくれるほどドーナツを買うのだ。

 全ての願いを叶えるために必要なのは膨大な資金だ。

 出刃包丁はひとまずトイレのタンクに隠す。脱ぎ散らかしていた服は拾って、クローゼットに掛ける。

 身につけていたものには死の香りが付着している。服と凶器は、あとでまとめて浄化しよう。

 いまは他にやることがある。

 私はカジノに戻り、有り金を全てチップに換えた。

 まだスタッフ通用口は閉鎖されていなかった。それでもホールでゲームをするのは危険だなと思い、廊下を進んだ。

 ある部屋の前を通ると、タイミングよく扉が開いた。

 そこは、春子が近づかないようにしていた、あの手本引きの部屋だった。

 目の前で扉が開いたのも運命かと、私はここに入ると決めた。いまなら待っている客もいなかった。

 和服を着たスタッフから、1~6まで書かれた木の札を渡される。初心者だと告げると、和装のスタッフが賭け方を説明してくれた。

 説明を聞いてみると、春子の言う通り、手本引きは確かにシンプルなゲームだった。

 親が1~6の数字のうち、どれか一つを選ぶ。子は親がどの数字を選んだか当てる。

 手本引きはそれだけのゲームだ。

 面白いのは賭け方だった。親は一つの数字しか指定しないが、子は複数の数字を指定できる。一点張りもできることはできるが、配当は低い。当たる確率は1/6なのに、戻ってくるのは元本を入れても5.5倍でしかない。

 確率だけで選べば、一番得なのは5.8倍になる四点張りだ。その四点張りにも幾つか賭け方の種類があった。クラップスのときのように、全ての賭け方を覚えようとすれば私の頭はパンクする。率直に言ってどれが一番オススメですか? と和装の男に訊くと、それはヤスウケだと返ってきた。

 ヤスウケは第一志望から第四志望まで選ぶ賭け方だった。仮に百円を賭けたとして、当たったときの配当は第一志望から第四志望まで順に二百二十円。百六十円。百二十円。八十円で合計五百八十円となる。六つある数字のうち、第四志望で当てたところで元本より減った分しか戻ってこない。そこに道理があって面白い。

 ルーレットとは違い、手本引きは胴元の意思で一つの数字が選ばれる。そのため、胴元の心理を探る必要があった。過去のゲーム記録を見ると、二十回近く出ていない札がある。これがそろそろ選ばれるのではないかと私は第一志望に回してみた。意表を突いて前と同じ数字を出すのではと考え、この数字は第二志望に回した。第三志望と第四志望は私が個人的に好きな数字を選んだ。

 これでどうだ。

 進行係の合図で手ぬぐいがめくられる。手ぬぐいの下には親の選んだ木の札が置かれている。木の札に書かれた数字を私は読む。

 ……当たった。最初のゲームで第三志望が当たっていた。

 幸先がよい。

 次のゲームが始まる。私は先ほどと同じように賭けた。

 何ゲームも繰り返すうち、私は手本引きの魅力にはまっていった。

 これは熱中してしまうゲームだった。六つの数字の一つを選ぶだけなのに、子は四つも選んでいいのだ。そのため何回も連続して当たるし、外れてもそれまで積み重なった当たりの分があるから軽く考えてしまう。しかし、これが罠でもある。当たっているのに、チップは不思議と減っている。負け分を取り返すために、賭け金が自然と増えていく。

 当たり、当たり、当たり、外れ、当たり、外れ、当たり、当たり……。

 シンプルなゲームを、脳が勝手に複雑だと思い込む。胴元がどう動くか。迷ううちに、前回と同じ数字で賭けてしまう。子が親の心理を読むのなら、親も子の心理を読んでいる。私がずっと同じ数字に賭けているのに気づかれたのか、あえて私が選ばなかった数字ばかりが連続で出た。これはいけない。そろそろ予想を裏切って、親をぎゃふんと言わせるか。そう考えた私は、全然違う数字に賭けてみた。しかし敵も然る者で、数字を変えたタイミングを見抜かれた。八連続でずっと第一志望に置いていた数字をわざわざ外して賭けたのに、手ぬぐいがめくられて出てきた数字は見事にその外した数字だった。

「おい!」

「へい!」

 部屋の入り口から、洋装の従業員が声をかけた。ホールでは上品な従業員が、この部屋に一歩でも足を踏み入れれば、なぜか威勢よく振る舞い始める。

 洋装の従業員が、和装の男に耳打ちをする。次第に和装の男が慌て始めた。

「おうおう。なんだ手入れみたいな顔しやがって」

 客の一人がからかうように言うと、和装の男は急に真面目な顔つきになって、

「すいません。今日はお開きにさせてもらいます」

 不満の声がいっせいに出る。私も不満を言った一人だった。

 数えると、手元のチップは六割にまで減っていた。せめて七割にまで戻したい。

「ま、あちらさんも事情があるんでしょう。俺たちもここは大人しく、麻雀でもぶちましょうや」

 勝ちに勝っていた客が言った。

「申し訳ありません」今度答えたのは洋装の従業員だった。「カジノの全ゲームをいったん締めさせてもらいます」

 口を挟んだ客が唖然とする。事情を知っている私でさえも、なぜか唖然としてしまった。

 文句を言おうとして、ふと原因に思い当たる。

 そうか。事件が発覚したのだ……。

「ホテル内の移動はご自由にできます。しかし、許可なく外に出ることはできません」

「なんだよそれ」「せめてスロットぐらい回させろよ」「俺このあと約束あんだけど」

 口々に文句が叫ばれる。それらの台詞一つ一つに、私は不思議なぐらい共感していた。


 いっせいに手本引きの客が立ち上がる。それぞれスポーツ・ベッティングルームでスポーツ観戦をしたり、食事をするためレストランに入ったり、ホール内のバーカウンターへと好きな場所に移動する。

 賭けに熱せられていた私は、その賭けができないと知って消沈した。

 部屋に戻って、仮眠でも取るか……。

 出口に向かう途中、ちらりとスタッフ通用口に目をやった。

 誰も注目していなかったホールの片隅に、いまは警官が二人いた。二人とも、ドアの前をふさぐように立っていた。

 誰かがスタッフ通用口を開ける。私の見ている前で、扉が開く。警官が身体を動かしてスペースを作る。そして新たに二人の男が現れる。

 偶然にも、私はそのどちらの男性も知っていた。

 一人は朝食のときに出会った猪去忠義の秘書、諏訪だった。警察と緻密な連携を取るために、総支配人秘書の彼が動き回っているのだろう。それは想像するに難くない。

 中から出てきた理由が分からないのは、もう一人の男の方だった。

 その男は四十前後で、眉に傷のある男だった。VIP用レストランで夜も朝も食事をしていたあの格闘技の男だった。彼がドアを開けて諏訪と共に出てきたのだ。

 なぜあの二人が一緒にいるのだろう? あの二人はレストランで会話しなかった。そのときの様子から面識があったとは考えにくい。

 首をかしげながら、私はカジノを出た。


 ノックの音で目を覚ます。時計を見ると十六時を回ったとこだった。

 上着を羽織り、ドアを開ける。

 訪問者は意外な人物だった。

「あれ、猪去さんだ。おはようございます」

「天田君と会うのはいつも事件後だね」

 総支配人の背中からもう一人男が姿を現す。それは諏訪と一緒にいたあの人物。

 格闘技の男だった。

「悪いが、部屋に入らせてもらうぞ」男は愛想笑いも浮かべず言った。

「彼は」椅子に腰掛けてから猪去が言う。「当ホテルのお客様でもある芋洗いもあらい是近これちかさん。刑事だ」

「さっきまでオフだったがね」

 ……刑事だったのか。これでいくつか腑に落ちる。刑事なら、諏訪と一緒にいてもおかしくないし、格闘技をやっている体つきなのも当然だ。

 問題は刑事が私の部屋にまでやって来た、その理由だ。

 猪去は神妙な顔を浮かべている。

「実は……、天田君に一つだけ謝らないといけないことがある」

「なんですか?」

「前から君のことを知っていた」猪去が重い口を開く。「朝は君のことを知らない振りをしていた」

「そうなんですか? でも……」

「君の記憶通りだ。私たちは、直接会ったことはない。しかし、それでも私は君のことを知っていたのだ。雇う立場として、全ての従業員の経歴は調べさせてもらっている。だから私は当然知っているわけだ。天田君の過去も、星君の過去も……」

 そうか。それで刑事が来たわけか……。

「君のご家族は、星君に殺されている。そうだろう?」

 私はこくりと頷いた。しらを切れる状況ではなかった。

「先ほど、星君は死体となって発見された」

 さて、ここからが正念場だ。私は驚いて絶句する顔を浮かべてみせる。

 会心の表情を浮かべられたと思ったのに、猪去は私の反応には触れなかった。

「病死でなければ、自殺でもない。星君は明らかに殺されていた。刺殺され、恨みを持つものの犯行なのは、犯行現場を見れば一目瞭然だった」

「本題は私からだ」芋洗刑事が猪去を牽制する。「犯行時刻は十二時半前後だ。君はその時間、どこにいた?」

「十二時半……」私は考える。間違えればその瞬間、私の未来が確定する。牢獄に入れば、姉が私に望んだ幸せな生活なんて一生送れない。だから私は考える。その時間どこにいたのか思い出す振りをして、上手い嘘を考える。

 要は私が犯行現場にいなかったと芋洗刑事に思わせれば勝ちなのだ。ならば、現場から離れていればよい。散歩していたことにしよう。

 口を開きかけたとき、私は一人の男を思い出した。

 急に浮かんだのは、ビリジアンセーターの青年だった。

 そうだ。犯行の直前まで、私はあの青年と会話していたのだ。スポーツ・ベッティングルームでブックメーカーの話をしたのだ。

 朝食の席のやりとりから、青年は芋洗刑事の知人に間違いない。

 散歩はダメだ。

「……カジノにいたと思いますけど」曖昧な解答で先を伸ばす。

「カジノのどこにいた?」芋洗刑事は追及の手を緩めない。

「ええと……」考えろ。間違えてはダメだ。考えろ。

「その時刻はスロットマシン、かなあ?」

「それはない」なんとかひねり出した答えを、芋洗刑事はあっさり否定する。「スロットマシンの周辺では、監視カメラが常時動いている。君はスロットをやっていない」

「そう言われても……。私はただあの辺をうろついてただけで、スロットで遊んでいたわけじゃないから」

 芋洗刑事は無表情だった。

「……では私から言おう。君は監視カメラのどこにも写っていなかった。監視カメラはカジノの全てはカバーしていない。それでも、君がゲームの周辺にいなかったことだけははっきりしている」

 プレッシャーが増してゆく。

 芋洗刑事は暗に示していた。もしも次も監視カメラのある場所を告げたなら、お前の身柄を誰が預かるかは分かっているだろうな? と。

「ええと……十二時半は……あ、そういえば、入り口で騒ぎがありましたね」

「騒ぎ?」

「カジノに入れろだの入れないだのって騒ぎです。男の人がフィジオのお二人に止められていました。あれ何時頃ですか?」

 芋洗刑事が猪去に視線を向けた。猪去は頷いて、私の証言の正しさを示した。

「記録が残っているはずだ」猪去は携帯電話を取り出す。「……そうか、ありがとう。正確な時刻も分かった。十二時二十八分だった」

「どこでその騒動を見た?」

「ええと……」私はまたも頭を悩ませる。しかし、今度は気が楽だった。つじつまを合わせる必要がないからだ。本当に私がいた場所を思い出せばそれでよい。「ホールの、壁際の……」私は指で地図を描いて説明した。

「なるほど。君がカジノにいたのは間違いないな」

 ほっと胸をなで下ろす。

 私の気が緩んだその瞬間を、芋洗刑事は見逃さなかった。

「そう、君は十二時半にカジノにいた。奇しくも同時刻に君の家族を殺した男が殺害され、そしてその三十分後、君は手本引きをしていたわけだ」

 私は胸を押さえた。心臓を突かれたように胸が痛くなっていた。

「……なぜ髪が濡れていた?」

「えと、どういうことですか?」

「君は、なぜ、髪を、濡らした?」芋洗刑事は一言ずつ訊ねる。

「そ、それは……」

 ダメだった。上手い嘘をつくには、私の心臓は激しく脈打ちすぎていた。

「事件の起こった三十分後だ。君は手本引きをしていた。心理の読み合いの、ゲームをしていた。フィジオは君を覚えていたぞ。まるで急いでシャワーを浴びたかのように、髪を濡らした君を覚えていた! 君は身体に血がついていないか、気になったのではないか?」

「ち、違います」

 本当に違う。私はただ、死の香りを消したかっただけなのだ。

 呼吸が荒くなる。芋洗刑事が私を睨む。顔をそらすのが怖かった。だから私は芋洗刑事を見てしまう。眉の古傷。かつて血の滴った深い傷口が私を睨む。あたかもこの傷をつけたのはお前だろうと言わんばかりに、古傷が悪しく蠢いている。

 芋洗刑事が背中を向ける。傷口が消えた。芋洗刑事の背中が遠ざかる。

 睨み合いは私の勝ちで終わったのか? 

 芋洗刑事は近くの扉を開け、陶器のぶつかる音を立てた。

 そこはトイレだった。

 出てきた芋洗刑事は手になにかを持っていた。

 太い指が掴んでいたもの。

 それは、出刃包丁だった。

 芋洗刑事が持っていたのは、私が星定男を殺したときに使った、あの出刃包丁だった。

「嘘をついてもバレないと思っているのなら、警察を甘く見すぎだ。凶器をタンクに隠せばバレないと思っているのなら、刑事を甘く見すぎだ。天田夜。君を殺人容疑で逮捕する」

 そんな、馬鹿な……。

「違う。私が殺したんじゃない。殺したのはあの男だ。私じゃない!」

「それは自供と捉えていいのか? うかつな反論は首を絞めるぞ」

「父も、母も、姉も、殺したのは、あの男だ!」

 喉が張り裂けるのと頬が叩かれたのは同時だった。

 そのあとのことは、覚えていない。

 気がついたら、私は車に乗っていた。

 映画を観ているかのように意識が遠かった。

 猪去の悲しそうな声が離れない。刑事の追及する声が、私の耳から離れない。

 ……冷たい。

 ここは冷たかった。

 鉄格子越しに、靴音が聞こえる。コンクリートむき出しの部屋で、私は足を抱えている。起きているのか寝ているのかもはっきりしない時間が続く。

 やがて、視界が暗転する。


 光が差したとき、枕元の時計はちょうど『7時』を指していた。

 私は、豪華なベッドで身体を起こす。

 広々としたダブルベッドに、マホガニー製のタンス。よく分からないけれど、高級そうな布地と木材の組み合わせだ。それとは別に複数の材質の匂いも混じっている。

 デジタル時計のそばにはスイッチがある。スイッチを押すと、カーテンが自動で開いた。窓ガラスを通過した朝の光が、眼球を激しく貫く。

 窓のそばを一羽の白い鳥が飛んでいた。群れも番いもいない孤独な鳥。しかし、鳥はどことなく気持ちよさそうだった。

 光線に肌を焼かれながら、ようやく私は異変に気づいた。

「……ど、どうして?」

 三十五階のサイキ・グランド・ホテルのスイートルーム。見下ろせば眼下には霞ヶ浦が広がっている。


 一夜明けると、何事もなかったかのように私は部屋に戻っていた。

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