58 ぎこちなく、廻る歯車
僕と天藍だけは自由の身。
もしかしたら対価としては少なすぎる要求だったのかもしれない。
あとで、そんなのはちっぽけなものだったと後悔するかもしれない。
でも、こっちに来てからの人間不信も手伝って僕は黒曜を信じられない。
ウファーリとイブキだけは直接関わらせたくなかった。
黒曜の要求にこたえるのは僕だけど、ウファーリの復学なんて依頼したら、将来的にそれが彼女の弱みにならないとも限らないからだ。
黒曜がもうひとつ僕に提供したもの、市警の捜査の及ばない《安全地帯》として挙げたのは市民図書館だった。
あの場所は青海文書を守るために彼が個人的な資産を寄付して建てた図書館であり、警備員はイネスみたいな退役軍人を中心に黒曜の息がかかった人材が揃っている。アリスもそうだ。そうとは知らずに、僕は呑気すぎた。知っていたとしても、どうすることもできなかったに違いないけれど。
問題はイブキの《輸送》だったが、表通りを堂々と歩いていくわけにはいかない。ヒゲじいに地下を案内してもらって近くまで送って行ってもらうのが安全策なように思われたが、どうしても首を縦に振ってくれない。
要求されていることが何なのかはわかっているのだが。
「天藍、手持ちいくらある?」
「なぜ俺が」
「自分はどこをひっくり返しても、無いものは出せません」
……という有様だった。
先立つものは大事だ。ほんとうに。
仕方がない。さよなら僕の爪、ということで、小指の爪と引き換えに、オルドルに数枚の金貨を出してもらった。
「できれば、すぐに両替でもするか、物に交換してください」
時間が経過した後どうなるかは、ちょっと保証できない。
『ちょっとちょっと、ボクの魔術をナメてもらっちゃ困るよね?』
水と金貨の詰まったコップの中から、声がした。
ヒゲじいは渡された金貨三枚をしげしげと眺めている。
「オルドル……なんで黙ってたんだよ」
僕は小声で訊ねた。
『姿を消してた』と端的な答えが返ってくる。
「黒曜相手に消したところで、もう意味ないだろ」
『ちがうちがう、また魔法のケハイを感じた……例の魔法のケハイをね。だから、ボクはいないほうがいいと思ったのさ』
「なんだって? どうして教えてくれなかったんだよ」
『だからぁ、こっちは姿を消してたんだってば~もう』
「それって……黒曜も感じたんじゃないのか?」
『う~~~~ん、こちらに向けて魔法を使っていたわけではないし、どうかなあ、そうかもしれない、たぶんそうだ、の間ってくらいかな』
「なんだそりゃ」
『マ、あいつは《代償》をほとんど支払いきっているから、可能性は高い』
代償を支払いきる……魔法を使ったときの反動である、視力の喪失をしきっている、という意味か。もし、完全な盲目になったら、どうなるんだろう。
『完全にデナクと黒曜がひとつになるのさ。もう魔法を使っても失うものはない。ただで魔法が使いたい放題、だよ。もちろん。文書の中にはそういう魔法もあるというわけだ。ボクはまあ、そういうわけにもいかないけどね』
オルドルの場合、代償は血肉だ。全て失うということは、不可能だ。それは死ぬってことだから。
『でももしそのときがきたら、キミに、ボクができるかぎり最高の魔法を見せてあげると約束するよ』
オルドルの過去の持ち主は一か月で死んだらしい。
いったい、どんな魔法を使ったんだろう……。
「最高ってさ、実際は何ができるわけ?」
『ボクに不可能はない。だって物語に出てくるのはだいたい、ボクが考えた魔法だからね』
「!」
『ボクは師なるオルドルだもの』
師なるって、そういう意味か。
「じゃ、デナクの弓の魔法も使えるっていうのか?」
そこまで話しこんで、僕ははっと気がついて、あたりを見回した。
天藍はうたた寝している。本当に、他人にはなんの興味を持たないやつだ。イブキはなんだか、こちらを見て優しい笑みを浮かべていた。
あれは、あれだ。可哀想なやつを見る目だ。
コップと話している自分に恥ずかしさを覚えたが、もういいや。
どうせ、イブキたちはボクとは違う世界の住人なのだ。
たまたま一緒の世界線にいるだけだ。他人だ。
『モチロン。ただ……今のボクは完全じゃない。むしり取られたときに、何ページか持ってかれちゃったんだ。だから、魔法書も一冊しか残ってないし……やる気出ないよ、ホント。ふあ~あ……』
まあとにかく、黒曜が青海文書の魔法の気配、とやらを察知していて、黙っていた可能性があることはわかった。
そして。
「あの式典関係で、また事件が起きるってこと……か」
でも、僕がいたときには、何も騒ぎは起きなかったはずだ。
また誰かが死んだのなら今頃はとんでもない大騒ぎになっているはず。
『昨日あんなに近くで魔法を使っておきながら、浮浪者どもを殺しただけで立ち去った。それがヒントだよ、ツバキ』
オルドルは、ひひひ、と引きつった笑い声を浮かべていた。
『ボクはマリヤが怪しいと思うな』
マリヤ……天幕からの帰りにすれ違った女の子。
彼女のことを、天藍は知っていた。
リブラの娘。
実の娘ではなく、養女だ。
崩壊した雄黄市では、無数の孤児が生まれた。マリヤもそのひとり。境遇を知ったリブラが引き取り、海市に邸宅を与えて育てていたんだそうだ。
多忙ではあるが、ときどきは顔を見にも行っていたらしい。学業は優秀で、魔法学院の生徒となって今は女子寮で暮らしてる。
みなしごを養女にするなんて、実にお人好しのリブラらしい。
誰にでも家族はいる。
リブラにもいた、というわけだ。
「彼女が、父親を殺す理由なんてないよ」
義理ではあるけれど、親子だったんだし、リブラを殺そうと思うやつは少ないはずだ。
それよりも、事件が起きるとわかっているなら、これは犯人を捕まえる千載一遇のチャンスなんじゃないだろうか。
「魔法の気配がわかるなら、それを追えば……」
『ムダムダムダ。誰が魔法の対象なのかは、わかるワケがない。向こうだって、それを隠してくるはずさ。それに、黒曜がそれに気が付いていたなら、何か手を打つハズだと思わない~?』
「それは……そうだけど」
ヒゲじいは報酬に納得したようだ。
無事に下水道を案内してくれるそうだ。
市民図書館にはウファーリが先回りして連絡を入れてくれている。
途中、どうしても地上に出なければいけない箇所があり、夜になってから移動をはじめた。
*
幸い魔法を使うことはなかったけれど、市民図書館に到着したときは心の底からほっとした。
ヒゲじいとは地下で別れて来た。ただ彼とはきっとまた会うことになる、ような気がする。
図書館に到着するやいなや、イネスとアリスの二人が待ち構えていた。
「先生、お帰りなさいですにゃ」
天幕で会って、ぶつかったことを思い出す。
「アリス、今日はごめん。すごく急いでたんだ」
「バカ弟子……いえ、ウヤクから話は聞かせてもらいましたにゃ」
アリスは、一時期黒曜家の家庭教師として雇われていたことがあるらしい。
この図書館ができる前のことだ。
もちろん、ウヤクの家庭教師だ。
「そんな大変なことになっていたなら、ひと言相談していただければアリスもご協力しましたにゃ……」
既に、黒曜から情報は伝わっているみたいだ。
イブキが指名手配をかけられていること、そしてそれが間違いである可能性が高いこと、僕が彼女を匿おうとしていることなどだ。
「ごめんよ、アリス……だから、僕の手を握るのはやめてくれないかな、いや、やめてくださいたたた」
アリスは瞳をうるうるさせながら、僕の手をがっしりと握ってきた。
気持ちはうれしいのだが、小指がとても痛い。
イネスが空気を切りかえるように、パチン、と手を叩いて注目を集める。
「さあ、それより着替えて来たらどうですか。イブキさんは宿直室を使ってください。先生は、二階のお部屋に荷物が届いています」
荷物? 誰からだろう。
誰もいない部屋に戻ると、確かに、机の上に無かったものが乗っていた。
ひとつは、真新しい青い制服……。
学院の、教師用の制服だ。
色々あってボロボロになっていたから、ちょうどいい。
それから、紙袋。
決闘の時、リブラが僕にくれた薬だ。
赤い薔薇が添えてあった。紅華が、これらの品を運ばせたんだろう。
薬の袋から、いかにも魔法薬って感じのきらきらした硝子瓶を取り出す。
『いいにおい、薬草のにおい。未だにこんなに地道な魔法使いの仕事をするやつがいるんだな』
硝子の面に、オルドルがうつっている。
分量通り蓋に取って一口飲み干した途端、剥がれた爪の痛みがすっと引いていった。鎮痛剤だ。
『ふんふん、腕がいい。生薬の扱いを心得ているな、ボクの次くらいには』
「登場人物のくせに」
こういう薬があれば、魔法を使うのも楽だ。
「魔法薬の作り方がわかるのなら、教えてよ」
『イイけど、無理だネ』
魔法使いの使う薬草――僕の脳内イメージでは、絵本で魔女がかき回してる大鍋の中身――は、そのあたりに生えている雑草とはちがう。それそのものが稀少だし、管理の行き届いた施設で栽培をしなければ、薬効は期待できず時間ばかりがかかる。ましてや魔法として扱うならば猶更、というのがオルドルの言い分だった。
でも鎮痛剤を大量に仕入れることは、自給自足以外の方法では難しいはずだ。先立つものはオルドルの魔法で金貨を手に入れるとしても、僕くらいの子どもが薬局でそんな真似をしたらやっぱりまずいだろう。処方箋もないのに。
魔法薬のことは置いておこう。手に入らないものは手に入らない。
もしもリブラがいてくれたら……と思わなくもないが、蛇の道は蛇、僕は蛇ではないということだ。
天藍はイブキから手が離れ、市警の追手がかからなくなったこともあり、一度、星条さんのところに戻ると言っていた。
僕も情報が無ければ、動きようがない。
アリスに文字でも習おうと思って、階下に降りると。
そこにはカウンターの内側で、鈍色の受話器を握っている赤毛の青年だ。
電話だと思う。ジブリアニメに出てくるような、壁に取り付けられているやつだ。
「……アルノルト大尉が?」
そんな声が聞こえてくる。
「落ち着いて、ああ……ああ、とにかく、すぐにそっちに向かう。そこを動かないで、いいな」
がちゃん、と通話を切る。
不意に視線がぶつかる。
「もしかして、だけど、何か困り事でも?」
「ええ、昔、世話になった上司の奥さんから連絡が。今でも、家族ぐるみで付き合いがあるので顔見知りではあるんですが、なんだかすごく取り乱しているみたいで……今から向かおうかと」
イネスの昔の上司というと……。
うそだろう、と僕は自分で自分に問いかけた。
あまりにできすぎている。
「その……これも、もしかして、だけど」
あり得ない。
僕は自分の想像を妄想だと断定する。
「その人……今日の式典に参加してなかった……?」
イネスは驚いた顔をした。
「ええ、そうですよ。よくわかりましたね」
断言する。
僕の方が数倍驚いていたと思う。
うそだろう。
これって、本当に、偶然なのかな?
何かがおかしい。
でも、何がなのかはわからない。
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