57 邂逅
「お父さん」
小さな男の子が、父親を求めて手を伸ばす。
式典が終わり、会場は、その場を去る人々や留まって談笑する人々で混雑していた。
大人たちに巻き込まれないよう、父親は子どもを抱き上げる。
「式典のあいだ、静かにできてえらかったな」
「うん!」
不意に、己の手に刻まれた深い
だが……。
彼自身にとっては、苦い後悔の証でもあった。
息子を抱くと、家族の元に戻れた喜びを感じる。
この平和を守ったのは自分であるという自負もある。
だが、あまりにも失ったものが大きすぎたのだ。
今でも五年前のあの惨状を思い出すだに、疑問は尽きない。
なぜ、竜鱗騎士団は彼の地を訪れなかったのか、なぜ、あのような苦しみを人々に
疑惑だらけの
その声を耳にするたび、彼は心に深くかかった
それでも軍に残ったのは、死んでいった部下や、負傷し退役した仲間たちのことがしがらみになっているからだろう。
「お父さん、あそこ……」
「ん、何だい?」
男の子はもどかしげに、身をよじった。
父親が何気なく息子を下ろす。
すると、父親の手を振り切って駆けて行ってしまった。現役の軍人でも、子供の気まぐれで突発的な行動について行くのは困難だった。
「あ、こら。戻りなさい」
慌てて追いかける。
すると、人混みの向こうに、いすに座った少女がいるのが見えた。
純粋な金色の髪を三つ編みに
その制服を見て、男はぎくりとした。
魔法学院の制服だった。
よく見ると、少女が腰かけているのはいすではなかった。車椅子だ。
その傍らに白いレースのハンカチが落ちていて、息子が
「はい、どうぞ、お姉さん」
「どうもありがとうございます」
少女は丁寧なしぐさで男の子の手を取って、お礼を言う。
「このとおり両足が言うことをきかないものですから、ぼうやが親切にしてくれて、とても助かりましたわ」
少女は申し訳なさそうに、父親を見上げて言った。
「いえいえ、とんでもない。女性を助けるのは紳士の義務ですから」
むしろ、困っている人を見過ごさない息子に育ってくれたことが誇らしく、久しぶりに胸の奥がじわりと暖かい気持ちで満たされた。
誇りとは、そんなささやかなものでいい。
英雄などという大層なものでなくとも。
複雑な気持ちで、父親は息子の頭を撫でる。
子供は嬉しそうに、顔をクシャクシャにして笑った。
気を取り直してあたりを見回すが、少女の連れらしい人物はいない。
「良ければ車椅子を押させてくださいませんか。こう人が多くては、いくら慣れているといっても動きにくいでしょう」
「まあ……実は、どうやって大通りまで出ようかと
ガラス玉のような瞳に、疑問符が宿っている。
少女とはいえ年頃の娘だ。不審がらせてしまっただろうか。
「いえ……その……やましいことはありませんが、昔、戦地にいたときに……」
男はおずおずと話し始める。
「あなたとよく似た方を助けたことがあるのです。そう、確か……足を怪我していて」
語るにつれて、記憶が確かになっていく。
遠い、雄黄市の記憶だ。あのとき、負傷者は無数に連なっていて、ひとりひとりを記憶しているわけではない。でもあの娘は別だ。
彼女は犠牲者の中でも若く、ひどい火傷を負い、魔法学院の制服を着ていた。
「そうでしたの。でも、遠慮いたしますわ。人を待たなければいけませんから」
断られて、男はほっとしていた。
何故なのかはわからない。
「よければ、お名前を聞かせてくれませんか」
少女に
あの娘の名を聞いただろうか。
それとも、きっと死ぬだろうと思って、聞かなかっただろうか。
そんなはずはない。彼は名前を聞いたのだ。自分にもまだ顔も見ていない幼子がいて、他人事とは思えなかった。
「たしか……そう。サマリ、と」
少女はにこりとして、
「貴方のお名前を聞いたつもりだったのですが」
男は戸惑った。そうだ。そのほうがしっくりとくる流れだった。
なのに、何故、過去のあの少女の名前を答えてしまったのか。
「これは失礼。アルノルトと申します」
「私はマリヤ。こうして出会ったのも何かの縁なのでしょう。今日は、サマリさんと、貴方のために祈りを捧げることにします」
マリヤは小さく頭を下げた。
その姿がまるで過去の亡霊のように思え、アルノルトは息子の手を引いて、足早に会場を出たのだった。
「ほんとうに残念ですわ、アルノルト大尉。幸せになって、幸福感に浸って、地獄の苦しみもすべて過去のものになって、何も覚えていなければ、よかったのに。でもできなかったのよね? 私も、あなたも」
去って行く二人を遠目に見つめながら、マリヤは呟いた。
*
黒曜と紅華のいる天幕から離れても、イヤな気分は
迷路の行き止まりに頭から突っ込んだ気分だ。
僕の持つ《
オルドルも自分のことを《日本産》だとかなんとか呼んでいた。
二つの世界に同じ物語があることも相当疑問だが、翡翠女王国にも《青海文書》は存在するのに、どうして僕が買ったあの本を奪おうとしたのだろう。
もしかしたら、だけど……あの本は元々『青空の国の物語』だったのかもしれない。
それが何かの拍子で、つまり《天恵》という形で女王国にもたらされ、原典とされている《青海文書》はただの写しなのかもしれない。
もちろん、逆の可能性もある。
向こうのモノが不意にこちらに来ることがあるなら、その反対だって起きるだろうっていう素人考えだけど。人を殺してでも奪おうとするくらいだ。
何かしら違いがあるのだとしか思えないけれど……。
それに、疑問はまだまだ残ってる。
図書館の地下に異世界に通じる《門》は存在してない。
リブラと紅華は、僕をあそこで見つけたというけれど、いったいどうして図書館の地下にいたのか。瀕死の状態で歩いて行ける気がしないし、犯人が連れてきたというのも考えにくい。地下にあった《青海文書》は無事で、僕の手の中にあるからだ。
そのあたり、オルドルに聞けたら楽なんだけど……。
黒曜のところから出ても、オルドルはすっかりなりを潜めたままだった。
気配も感じない。
こちらから文書に話しかけても、無視。
あれだけ、こちらの意志には関係なくしゃべったりしていたヤツがだんまりとは、気持ちが悪い。
とにかく、天藍との待ち合わせ場所に急いで行ったほうがいいだろう。
「……ん?」
耳元で、きい、と音がする。
式典会場のほうから、車椅子の少女がやってくるのが見えた。
金色の髪を三つ編みにして、清楚でおしとやかな感じだ。
「ごきげんよう、マスターヒナガ」
よく見ると、彼女は魔法学院の制服を着ていた。
学生なら、僕の名前を知っていてもおかしくない。
でも、僕は彼女を知らない。
挨拶のときには、見なかったはずだ。車椅子はそれなりに目立つはずだけど。
すれ違い、彼女は天幕のほうに消えて行く。
膝の上に……小さな白いバトンを載せている。長さはボールペンくらい。
半透明で、光沢がある。持ち手の先端、両側に、十字の飾りがついている。
それが妙に気になった。
あれは彼女の《杖》だろうか。
見つめていると、胸が妙にざわつくのを感じた。
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