54 二人の異世界人

 《青海文書せいかいもんじょ》は新しい魔法だ。そう黒曜は言った。


「その力も存在そのものも、今までの女王国の《魔術》の体系には存在していない。天律でもなく、竜鱗魔術でもない第三の魔法だ。しかもこの魔法は単純に禁止することのできない厄介なモノだ」


 青海文書は、書物の形をとっている。

 そしてその使い手は、魔術に素養があろうとなかろうと、構わない。

 ただ記された文字が読めて、登場人物に《共感》する心さえあれば、だれでも魔法を手にすることができる。

 仮に書物を全て焼き払っても、物語の形式をとっている以上、口頭こうとうの語り……都市伝説や噂話、伝承という形で残り、途絶とだえはしない。

 それが物語の力であり、魔法を禁じている女王国にあってはならないモノだ。


「文書そのものは少なく見積もって国内に三百冊程度あると思っていい。回収に回ってはいるが、現状、使い手がどれくらいいるのか、各登場人物の魔法がどんな種類のものなのか……わからないことが多すぎる。しかし方針は必要だ」


 すなわち、と。黒曜は続ける。

 彼はソファから身を乗り出して、こちらを見上げるように視線を投げた。

 力強い視線。ほんとうに、見えていないのだろうか。


「この魔法を排除するか、それとも共存の道を選ぶのかということだ。単刀直入に言う。この国の未来のひとつを決めないか? 私と、キミと。二人の異邦人いほうじんで」


 この国の未来を決める。

 途方もない言葉だったが、黒曜にとってはそうではないらしかった。

 彼は新しいゲームを与えられた子供のように無邪気な表情だった。


「これは重要な選択だ。すでに、翡翠女王国内部で《青海文書》に端を発する事件が散発している」

「もしかすると海府議会議員が殺されたっていう、あの事件のこと?」


 彼は頷いた。


「君も気がついていたようだな」


 正しくは、気がついたのはオルドルだ。

 竜鱗によって心臓が貫かれ、海府議会議員が死に、リブラが犠牲になり、スラムの路地でも三人死んだ。僕も被害者だ。

 知っているだけでも、それだけの被害が出ている。

 もし青海文書がかかわっているのなら、黒曜には見逃せない事件のはずだ。


「でも、どうして僕なの?」

「ひとつには、私が把握している文書の使い手が少ないことに起因する。そして残念ながら私の《デナク》では、青海文書を排除することも、制御することも不可能だ。だが《オルドル》なら可能かもしれない」


 オルドルは短く『さあね』と答えた。なんだか、怒っているような声音だ。


「ほかの理由は?」

「私と君が、お互いの秘密を共有できるからだ。共に仕事をするなら、信頼関係は大事だ」


 それは、僕が異世界の出身で、黒曜ウヤクもそうだということを知っている、ということだろうか。お互いの秘密を知っていることが、どう信頼関係に繋がるのかは、今一つわからない。

 わからない、と思ったのを、黒曜は瞬時に察知したようだ。


「君には、ほしいものがあるはずだ」


 彼はうっすらと笑みを浮かべていた。


「たとえば、イブキの指名手配の取り下げ、市警への根回し、そして青海文書の情報、言葉を理解すること、ウファーリの退学処分の取り消し……。君はそれらを得るために、王姫殿下に接触しようとしていた。違うかな?」


 僕はごくり、とのどをならした。これがクイズなら、満点で正解だ。

 全て見透かされている。


「どうしてそのことを……」

「何、調べればすぐにわかる。翡翠宮にも、市警にも、学院にも、私の手の者がいる。そしてほかならない私自身が青海文書の使い手であり、君よりもずっと文書に精通している。だから、私は君の求めるものを全て与えられる」


 提示された条件は、すごく魅力的だった。


 ウファーリの退学が決まったとき……。


 僕は彼女を救う手立てがひとつだけあると、そう考えた。

 その手段は、紅華だ。

 僕には五十人の人間の意見をかえることはできない。

 でも、彼女なら。

 即位していないだけで、ほとんど女王とかわりない権力をもつ王姫殿下なら、手立てがあるはずだと考えたのだ。

 もちろん、大宰相として国の中枢にいるこの男にも、可能だ。

 これは、オルドルに『魔法の使い方を知りたくないか』と言われたときと、似ている。

 魅力的なえさをたらして、獲物がかかるのを待っているのだと、本能で感じた。


「青海文書を滅ぼすも、生かすも、その方針は君の自由意志に任せよう。私は君の決定にしたがい、必要とあらば資金も、権力も、何もかもを提供する」

「これは、取引なんだな」

「そうだ。私もこの国で生きて行くのに必死だ。信頼のおける仲間は、ひとりでも多くほしい」

「貴方は帰ろうとは思わないんですか」


 黒曜は少しだけ、返事をするのを躊躇ちゅうちょした。

 そして出てきた答えは、ひどく空しいものだった。


「帰って……どうする? 私はもう、故郷をこの目で見ることもできない。友人も、母親も、死んでいるだろう」


 こちらに来て、あまりにも長い時間が経ってしまったのだろう。

 その口調は湿っぽいものではなく、ひどく乾いていた。

 故郷を懐かしむ心はあっても、そこは彼にとっては過去にすぎない。

 その感覚がわかる気がして、背筋にヒヤリとした感触を覚えた。


「だったら、もっと早くに……」

「そうできない事情があった。君は、帰りたいかね」


 僕は答えに詰まった。

 今は、まだ。帰るという選択肢はない。

 でも……。


「忠告しておこう、日長君。ウファーリやイブキ、そして天藍アオイ。もし帰りたいと思うなら、関わりすぎないことだ。戻れなくなる」


 青海文書と同じだ、と黒曜は言った。

 誰も、選択の前には戻ることができない……。

 この国に深くかかわれば関わるほど、知れば知るほど、知らなかった頃には戻れない。


「なに、返事は今すぐでなくてもかまわない。たとえ、君が元の世界に戻ることを望んだとしても、私は君の味方だ。それだけは覚えていてほしい」

「僕には……自分に貴方が望むようなことができるとは思えないけど……」


 僕の言葉の最後は、外から聞こえてきた拍手にかき消えた。

 僕は魔法使いでも、宰相でもない。

 魔法はろくに使えないことにかわりはないし、頭が切れるってタイプでもない。

 再び、彼が口を開こうとしたとき――長い会話は、衣擦きぬずれの音、そしてペタペタという、素足の足音で閉じられた。


「時間切れだ、黒曜ウヤク」


 聞き覚えのある少女の声がした。

 部屋を囲んでいた天幕の一部が引き上げられ、そこから緋色の瞳をした女の子が現れた。

 紅華……。

 彼女は喪を示す黒地のドレスをまとい、胸に赤いリボンをつけていた。

 そして、赤い靴を片手に提げている。

 ヒールが高すぎて、走れなかったんだろう。

 素足が、ほこりで汚れていた。


「まったく、油断も隙もない……どいつもこいつも」


 黒曜は無言でソファから立ち上がり、片膝を地面につけて深くこうべを垂れた。

 

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