53 不機嫌な黒曜石
「待ってたよ、オルドル。そして、日長椿」
むっつりした声だった。
そして完璧な発音で、僕の名前を呼んだ。
「ここでは話もできない。こっちに来い」
彼は立ち上がり、移動する。
見えない手に背中を押されるかのように、僕もついていく。
闇の先に、いくらか明るい空間がある。
その光に沿って、人物の輪郭が明らかになっていく。
若い。まだ十五や十六の少年の背中にみえる。僕と同じ年頃の……。
手にしているのは杖みたいだが、そうじゃない。
ゆるやかに湾曲していて、まっすぐな弦が張られている。弓だ。
彼は服の裾を引きずりながら歩いていく。
そして光の当たるところに出ると、くるりとこちらを振り返った。
刺すような視線を感じる。
凛とした意志の強そうな眼差し。
端正な顔立ちだが、天藍の、女のような面差しとはまた別種だ。
少し陽に焼けた肌、漆黒の瞳、髪、まるで無駄のない刃物のような迫力がある。
「私は黒曜ウヤクだ」
地響きのような歓声と、拍手が、外から聞こえた。
王姫殿下万歳、と喝采があがる。
女王国に千年の栄あれ。
「……ホンモノ……? 若すぎる」
目の前の少年が、老獪な大宰相のイメージとはどうやっても結びつかない。
『あれは不老の魔術だね。プンプンにおってる。最低でも六十年は生きているはずだよ』
それだと、目の前にいるのは十五歳の少年でも、中身はとんだ老人だ。
「信じるかどうかはお前に委ねよう。だが黒曜家が当主にして、女王と王姫殿下の名のもとに国政を預かる者は、ふたりとはいない。仮に、この国に私を騙るものがいるとしたならば、恐れるだろう」
「誰を?」
「私を」
自信に満ちた表情をみせると、背後のいすにどかりと腰をおろす。
広い空間内には、姿見とソファセット、飲み物ののったテーブル、それから何故か本棚が置かれている。背後を振り返ると、来たはずの道は、合板の衝立で塞がれていた。
「僕を待ってたって……どういうことだ? 僕は追われてる身だ」
大宰相という想像もつかないようなすごい役職の男が、何故。
こいつが何者なのかはわからないが、話をしなくちゃいけない。
青海文書が何なのか、わかるかもしれない。
単刀直入に言う、と彼は告げた。
「知っている。だが私は君の力になりたいんだ。そして君もまた私の力になってほしい……私を理解できるのは、おそらく君だけだ」
彼は、長い五指を揃えた掌を背後に向けた。
ソファを立ち、誘われるように本棚に近づいた。
棚にはぎっしりと本が並べられている。
小さいものは文庫サイズから、大判のものもある。
震える指を伸ばして、一冊とる。
予想通りだった。表紙にはイラストがあしらわれている。
これらの本は、この国の図書館にはなかったものだ。
表紙を開くと中には文字は並んでない。コマ割りがあって、キャラクターの絵がぎっしりと詰まっているはずだ。
僕は驚愕していた。
読める。
全ての文字が。
全てのかなが。
全ての漢字が、カタカナが、アルファベットが。
勢いよく背後を振り向いた。
「そうだよ、日長君。君の名前をこんなにはっきりと発音できるのは、私くらいだ」
深く、底が見えない声が響く。
表情がみえない。
そこにいるのは、姿は十五歳か十六歳の少年……でもまるでバケモノのように感じられた。
「私も君と同じ……日本人だ」
僕の手から、一冊の漫画が滑り落ち、床にぶつかって跳ねた。
~~~~~
「ただ、君とちがうのは翡翠女王国の生まれだということだ。赤んぼうの頃、母親が俺を連れて日本に渡ったらしい。そして、俺だけが女王国に連れ戻された」
それでも、心は故郷にあった。
そう言ってウヤクは過去を懐かしむような、切ない表情を浮かべる。
「こうして大宰相と呼ばれていても、まるで夢物語だ。俺の生きる場所はここではないと、今でも切実に思う」
一国の大宰相が、異世界人だった。
にわかに信じ難い話だが、語られたのは僕にも覚えのある感覚だった。
眠るたびに、朝起きたらいつものベッドにいるんじゃないか? 僕は《異世界で眠る夢》をみているだけなんじゃないか?
でも何度も裏切られた。
僕は落ち着こうとして、漫画本を拾いあげる。
中を開いてみても、魔法が解けたりはしない。
それは僕も知っている有名なコミックスだった。
「そうした異世界の品を手に入れるルートも、それなりにある。漫画の収集は私の趣味でね。貴重な情報源だ」
「市民図書館でアリスに何かしたのは、お前なのか……?」
僕はポケットから、あの《予告状》を取り出した。
「黒曜石は英語でオブシディアン。このサインは、そういうことだろ」
「そうだ」と黒曜は隠すでもなく簡単に肯定した。「あの件は、君に落ち度があった」
口調に少しだけ、不機嫌が舞い戻る。
「アリスとは友人でね。市民図書館の職を紹介したのは、ほかならない私なのだ」
だから、アリスはこんなところにいたのか。
「できれば今後二度と、彼女に青海文書を見せないでくれ。感染したらどうする」
「感染って……」
「彼女が物語上の誰かに《共感》しない、と何故言える?」
頭の中に、彼女の金色の、陽だまりみたいな笑顔が浮かぶ。
そして消えて行った。
「書を読んで青海の魔術師となれば、魔法を使うたびに《代償》を求められる。君は《肉体》、私は《視力》といったように……。無関係な彼女にその支払いをさせたくない」
「アリスがおかしな行動をとったのは……」
「私の《言霊》で、あらかじめ命令を吹き込んでおいた」
命を危険に晒す命令はできない……。
だけど、それ以外のことなら。たとえば迷惑な書物を焼き捨てさせるくらいのことはできる。そういうことだろう。大したことはできない、と聞いていたけど、それって使いようによっては死ぬほど強い能力じゃないか……?
目の前にいる男は、間違いない。大宰相、黒曜ウヤクだ。
そうだという実感がようやく湧いてきた。
何十年も前に異世界から連れてこられた少年が知略と異能によって、一国の宰相になる。ウヤクはイブキ以上に、ライトノベルの流行の主人公を地でいっている。
黒曜は手振りで、いすに座るよう、うながす。
僕は一人がけのソファに深く腰を下ろした。
外では、紅華のスピーチが始まってしまった。
不用意にここを出れば、捕まってしまう。
「どうして僕のことを知ってるんだ?」
黒曜はつまらない質問だな、と言って眉をひそめた。
「お前のことは知っているに決まってるさ。なあ、オルドル?」
ウヤクの視線は、脇に置かれた姿見にむいていた。
僕もそこを見る。
角度的に、鏡は僕の姿をうつすはずだった。
でも、そこにあったのは額から角を生やした半人半鹿のオルドルだった。
ソファに腰かけ、足を組んでいる。
こんなことは今までなかった。
まるで、オルドルがわざとそうしようとしているみたいだ。
『さあね。でも、こいつも青海文書の持ち主だ』
だとしたら何故、昨日のように警告を送らなかったんだ。
『こいつの正体はわかってるからさ……とくに、身に迫った危険のある魔術師じゃない』
黒曜は目を閉じて、うなずいた。彼にも、オルドルの姿がみえているし、言葉も聞こえているらしい。
「君がオルドルと契約を結んでいるように、私の魂も文書の
さっき、暗闇に包まれたのも、青海文書の力だと彼は言う。
「だが、この力を得たのは、ただひたすら女王国のためだ。国家の利益のため以外には、用いるつもりはない」
危険ではない、と言いながら、オルドルは気に入らないらしい。
黒曜を睨みつけている。
その表情や態度から、ふざけた道化のキャラクターはすっかり消えていた。
「知り合いなのか?」
『ちょっとフクザツだな……ボクは直接、対面したことはない。でもあいつは《オルドル》を知ってる』
微妙な物言いだった。
「そう。私と面識があるのは、青海文書の《原典》の《師なるオルドル》とその読み手だった」
黒曜ウヤクは遠い目つきをした。
杖に下がっている林檎を見た。原典は今、この手にある。
「彼は……ひと月もたずに、内臓をオルドルに食いつくされて死んでしまったがな」
自分の表情が強張るのを感じた。
オルドルはまっすぐに黒曜をみていた。
「君は不思議だ、日長君。今までのオルドルの持ち主とはちがう。本来なら、文書が《代償》を要求することに気がつかずに魔法を使い、死んでいるはずだ」
ただの偶然だ。
僕だって、知らずに魔法を使い、死にかけた。
助かったのはそこにリブラがいたからだ。そして、アイリーンが気まぐれを起こしたせいでもある。
「あなたも……文書を使うなら《代償》を払ってるのか?」
「ああ。魔法を得た代わりに、今では明るい場所では《視力》がほとんどない」
彼は笑って瞳を指した。
そういうふうには全然見えない、力強い瞳だったが。
「デナクは杖でなく《必中の弓矢》を持つ。闇の中でならどんな状況でも必ず敵を狙い打てる魔法の弓矢だ」
黒曜は携えた弓を示した。
「ゆえに闇の中でなら視力が戻るし、障害物も通過できるが……それは副次的な効果だ」
「それだけ?」
「なんだって?」
黒曜ウヤクが不機嫌の仮面を脱ぎ捨てて、問い返す。
素の表情だったと思う。
「文書の魔法は、万能ではない。ひとりの登場人物につき、与えられる魔法はほぼひとつ。そして登場人物によって異なる。君はちがうのか?」
「いや……使い方がまだ、わかってなくて……」
知らなかった。
オルドルはこれまでいくつもの魔法を使ってきた。
幻をつくりだし、金や銀の姿かたちを変えた。
水そのものを操り、形状を変えて盾がわりにしたこともある。
それとも、幻術が、オルドルの魔法のすべてなのか?
僕は姿見をみた。
でも、オルドルはこちらをちらりとも見なかった。
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