番外編 アリスと少年

 ニャコ族は、魔法生物だ。

 といっても人族が好き勝手に作り出した無謀で野蛮な生命体とは違い、竜族とおなじ自然の魔力が溜まる場所で生まれた太古の生命体だった。

 そして翡翠女王国では、長い間、ニャコ族は知的な活動ができないという偏見があった。

 たしかに、放浪ニャコ族は各国を気ままに放浪し、わずかな定住ニャコ族も簡単な漁をするだけで、およそ文明とは縁のない生活をしていた。この一族が変わり始めたのは、奇しくも女王国が《魔法》を捨てる決断を下したことによる。

 女王国は、現在は限定的に魔法を行使することを許可している。

 だが一時は魔法による災厄を恐れるあまり、魔法使いや魔女、魔法にまつわる一切を完全に排除しようとしていたのだ。


 とりわけ厳しく弾圧されたのが《書物》だ。


 女王国は魔法の書と思しきものを片端からかき集め、廃棄し、燃やし尽くし、それを隠し持つ者を殺していった。そして悲劇の魔法使いたちもまた、己の魔法を本に書き記すことをやめなかった。巧みに暗号を使い、あるいはとても本には見えない形にして、なんとか焼き捨てられるのを避けようとしたのだ。

 これらの書物を密かに集め、守っていた存在がある。

 それが、ニャコ族だ。

 もともと人社会と共通の貨幣を持たない彼らにとって、書物は高価過ぎるものだった。それが一斉に捨てられはじめたため、放浪ニャコ族がこっそりと持ち出し、定住地に運んでは、定住ニャコ族がその内容を読み解くことを始めた。

 もちろん異端審問官に見つかると弾圧の対象になるため、コレクションは集落の地下書庫に隠されているのが常だった。

 彼らの好奇心は、翡翠女王国が《魔術》という形で魔法の存在を許しても、おさまることはなかった。

 そして、その裏には無数の犠牲もあったのだった。

「アリス……お父さんのことは残念だった」

 定住ニャコ族の小さな愛らしい家で、彼女は差し出された本を見て、そのガラス玉のような瞳を見開いた。

 深緑色のベルベットの表紙は、ぐっしょりと血で濡れていた。

 血はすでに乾いており、黒くなっている。

 表紙には金色の錠が新たに取り付けられ、決して開かないように封じられていた。

「お父さんはこの本が《善なるもの》と信じていた。だが実際は、恐ろしい使い魔を封じた危険な魔法書だったのだ」

「そ……んにゃ…………」

 アリス・アネモニは本を受け取り、その場に崩れ落ちた。

 アリスの父親は村の書庫を管理する《司書》であり、魔法研究者として人族にまで知られた才気あふれるニャコ族であった。

 彼が最後に読んだ本は、外部の人間が村に持ち込んできたものだ。

 木箱に入れられ、変わった形の水晶とともに納められていた。水晶は六角錘を底面で張り付け合わせたような形で、頂点から光に透かすと六芒星のカタチが見えた。

 書の来歴の多くは不明だったものの、水晶が添えられていたことから魔法による《癒し》を司る玻璃家の持ち物であった可能性があった。

 もちろん、それは全てまやかしだったのだが……。

 禁魔法時代につくられた魔法書のなかには、追ってくる異端審問官を殺害するためだけにつくられた危険な罠も含まれていた。

 アリスは、この本を開くために出かけた父親の顔を思い出した。

 玄関のまえに植えたアカシアの、木漏れ日の下で安心させるように微笑んでいた。

「アリス……彼を止められなかったこと、許しておくれ」

 長老の瞳は涙に潤んでいた。

 父の死を悲しんでいるのは、アリスだけではなかった。

「お……お父さんは……きっと、本望だったと思いますにゃ……」

 彼女は涙をぐっとこらえ、父親と同じように微笑んだ。


      *****


 彼女は本を抱いたまま、気がついたら、村のはずれにある崖から海を眺めていた。

 父親の死体は無惨なものだったらしく、家族の誰も目にしないまま焼かれてしまった。

 それは十歳の少女には辛すぎる出来事だった。

 悲しみに背を押され、彼女は崖の向こうに本を差し出した。

 ここから投げ捨ててしまえば、封じ込められた悪魔もろとも、書物は藻屑となるだろう。

 あと少しで指からそれが離れる――。

 そのとき、彼女の耳に声が届いた。


「その本、捨てるの?」


 顔を上げると、崖のそばに少年が立っている。

 女王国では珍しい純粋な黒髪に、同じく黒々とした瞳をしていた。

 顔立ちは精悍で、少し陽に焼けている。年は十五歳くらいだろうか。ピンとしたシャツと、ズボンを履いて、どちらも色は黒。

 彼はニャコ族ではない。放浪ニャコ族でもない。

 身長がアリスの倍くらいはあるし、三角耳もついていない。

 アリスはびっくりして、少し距離をとった。

 昔のこととはいえ、人族とニャコ族の間にはわだかまりがある。

 アリスも人族から心無い言葉をいわれたり、石を投げられたことだってある。

「ニャコ族は本が好きなんだろ」

「そ、そうにゃけど……」

 不意に、父親の笑顔が脳裏にひらめく。

 幼いアリスが危険だから何度もやめてほしいと訴えたのに、父親は司書の仕事をやめなかった。

「か、関係ないにゃ!」と、アリスは答えた。

 自分でも何故かわからないが、胸が苦しかった。

 苦し紛れに大きく振りかぶり目を閉じたまま、本を投げ捨てた。

 数秒後、水飛沫が上がる音がきこえた。

 スッキリするかと思えば、違う。全く反対だった。

 捨ててしまったことで、かえって苦しくて堪らない。

「あ、そうだ。よかったら、これ、あげるよ」

 少年は肩から下げていた鞄を地面に下ろした。

「にゃ、にゃんで?」

「だってここから落ちたんじゃ、無事ですむかわからないし」

「落ちる……?」

 言っていることの意味がわからなくて、アリスは首をかしげる。

 少年は両手をポケットに突っ込んだまま、一歩を踏み出した。

 アリスは咄嗟に飛び出したが、その手の数センチ先を、少年の体はすり抜けて落下していく。

「にゃっ…………!」

 放心状態のアリスを崖の上に放置したまま、少年は海に飛び込んで行った。

「にゃんですとおおおーーーーー!!」

 悲鳴が、響き渡った。


       ~~~~~


 ニャコ族の漁船が集まり、海に飛び込んだ少年を引き上げた。

 ひとまずアリスの家に運びこんだ少年の体は冷たく、生気が無かった。

 崖の高さは相当なものだし、沈んでしばらくたっていたので当然、もう死んでいるものと誰もが思っていたが……。

「へっくし!」

 手当てをうけた少年は小さなくしゃみをして、息を吹き返した。

「よく生きてたにゃ……感心するにゃ」

 毛布に埋もれ、はちみつ入りの紅茶を啜っている少年は、先ほど崖を何十メートルも落下して、海面に叩きつけられたばかりとはとても思えなかった。

「はい、これ」

 少年は暖炉の火にあたりながら、緑の本を見せた。

 それは、アリスの父親を殺した本だった。

「まさか……これを取りに行ったのにゃ…‥‥?」

「まあ……そういうことになるな」

 ずず、と鼻水を啜っている。

 アリスは呆然として少年を見上げた。

 少年はじろり、とした目つきでアリスを見返した。

 歳には不相応な、鋭すぎる、切れ長の瞳だった。

 少年は人族だが、人族にしても雰囲気が違ってる。

 まるで。

 まるで……この少年だけ《この世界のものじゃない》ような。

 彼の周囲だけ、見えない線で切り取られていて、どこか別のところにいるかのような。

「だって、大切な本なんだろう?」

 少年は視線を本に戻して、それをじっと見つめていた。

「なあ、この本……」

「え?」

「表紙の模様が消えかけてるぞ」

 少年は本をさしだした。

 黒く濡れた表紙に、銀色の天秤が半分だけ、浮かんでいる。

「これは!」

 アリスは驚きで目を見開いた。

 表紙が消えているのではない。

 海水に濡れたことで、表紙にさっきまでは無かった模様が《浮かびあがって》いるのだ。


     ~~~~~


 二階の書斎に、アリスは水を張ったたらいを用意した。

 そこに、本と一緒にみつかった水晶を浸けると、結晶に空いた微細な穴から水が入り込み、銀色の魔力をはなつ《天秤》が浮かび上がった。

「やっぱり……お父さんの考えは間違いじゃなかったにゃ!」

 次に思い切って、本そのものを沈める。

 表紙には、上下逆さまの天秤が浮かびあがった。

「しかし、玻璃家は医術の要だ禁魔法時代でも女王家から手厚く扱われていた家系だ。魔法書を隠す必要はなさそうだが……」

「それでもいくつかの伝承魔法が《禁術》とされてるにゃ。弟子筋の誰かが術を隠して保管していたとしてもおかしくはないにゃ!」

 少年は目を眇め、うなずいた。崖からなんの躊躇もなく飛び降りる割に、案外と思慮深いところがあるらしい。

「ふむ……可能性はなくもないな」

 アリスは本をたらいから出し、明かりを近づけて表紙を開いた。

 元のインクとは別に、銀色の筆跡が行間に浮かんでいる。

 そこには癒しの術についての記述がいくつか、そしてそれに利用できる魔力の源についての記述が続いている。

「古い研究書みたいだにゃ……人族の体内に蓄積される魔力量はわずか。それを自然物から補う手法について……《蛟の書》があれば、だれもが水の力を利用できる……?」

 アリスは書の内容について読み込んでいて、時間の経過にも気がついていないようだった。

 そんな少女をみて、少年は意地悪そうにニヤっと笑う。

「ずいぶん楽しそうだな。さっきまでこの世の終わりみたいな顔をしてたのに」

 アリスは、自分でも自分のことが信じられなかった。

 この本は父親を殺した魔法書なのに……。

 今では、父親の考えが的外れではなかったこと、その死が意味のないことではなかったという事実がうれしい。

「……お父さんが言っていたにゃ」

 一度だけ、アリスはどうしてそんな危険な仕事を続けるのか、と聞いたことがある。

 お金をかせぐだけなら、ほかにもっと楽で、安全な仕事があるじゃないか、と。

 父親はアリスの髪を撫で、抱き寄せて、そしてまだ世界の広さをしらない娘に優しく語りかけた。本当に善い人というのは、他の人のために自分を投げ打つことのできる人のことだよ、アリス――――と。

「自分を犠牲にしてでも、他人のために尽くすことが本当に尊い仕事だにゃ……」

 そんな父だったからこそ、この本に賭けたのだ。

 天窓を見上げるアリスの瞳には、大粒の涙が浮かんでいた。

 そのとき突然、少年が叫んだ。

「下がれ!」

「にゃにゃっ!?」

 アリスは乱暴に机から遠ざけられ、やっと異常に気がつく。

 本を置いたテーブルから、煙が上がっていた。

 ランプに照らされた水晶が乾き、天秤のマークが消えかけていた。

 その周囲に、魔法陣が広がって行く。

 そしてその魔法陣の中央から緑色の炎が噴き、緑色のぬらぬらした鱗に覆われた大蛇が飛び出した。月あかりに照らされ、銀色に輝く牙の間から、ドロドロした緑色の毒液が滴り落ちる。

 ぬらりぬらりと机の上を這い、存外に素早い動きで本棚の裏側に飛び込んだ。

 しゅーっ、という蛇の吐息と気配がするが、どこから襲ってくるのかはわからない。

 アリスは恐ろしさに身を竦ませ、少年の体にしがみついた。

「あれが……お父さんを殺した使い魔だにゃ……! 逃げるにゃ!」

「大丈夫だ」

 少年は左手を広げる。

「他者に尽くし、私心を捨てるのが善ならば……では俺は、アリス、君に報いよう」

 そこに、三日月の模様が浮かんでいるのを、アリスは目にした。

 蛇が這う音が近づいてくる。

 不意に、本棚の上にぬらりと黒い影が姿を現す。

「《昔々、ここは偉大な魔法の国》」

 蛇が踊りかかってくるのと、少年が確かにそう呟くのと、それは同時だった。

 月の刻印が水面のように波打ち、真っ黒な球が浮かび上がる。それは一瞬で大きくなり、部屋を飲み込んだ。

 何も見えない暗闇の中、一瞬だけ、閃光が走るのを見た気がする。

 再び、部屋を包んでいた闇が引いていく。

 少年の手に漆黒の弓が握られていた。矢は既に右手を離れた格好だ。

 大蛇は床に落ち、周囲に毒をまき散らしながら、死んでいる。

 口内から、尾のほうに抜ける矢傷があった。

「あなた、異端審問官にゃの?」

 それは禁じられているはずのものだ。

 しかも、他者を《攻撃するための》魔法なんて、異端審問官でなければ許されるはずもない。

「いや。審問官ではない」

 少年は溜息を吐いた。


        ~~~~~


 緑の本は、アリスの認めた注意書きを添えて、書庫にしまわれることになった。


 この本を開くもの、水を用意し、その中に本を浸してページを開くこと。

 ページが乾かないように注意せよ。


 村長は、アリスの発見に驚き、そして喜んだ。その探求心に父親の面影を重ねていたのだろう。

 少年は二、三日、村にとどまった。少年は村をフラフラ散歩したり、近所のおばさんと話したり、書庫に出入りしたり……と、自由気ままな猫みたいに過ごしていた。

 そのあと、彼を迎えに来たという、召使の男たちが現れた。

 同じ黒い服を着た、不気味な影みたいな連中で、アリスは好きになれなかったし、少年もうっとうしく思っているみたいだった。

 アリスは少年に、彼が何者で、どこからきて、どうして魔法が使えるのか……一切たずねなかった。

 帰る前の晩に一度だけ、彼はどうしてあの崖に立っていたのか、話してくれた。

「死のうと思ってたんだ」

 アリスはびっくりして、二の句が次げないでいた。

 どうして。

「自分がここにいる意味がわからなかった……今でも、わからない。俺がここにいて、やろうとしていることが、本当は誰かを傷つけるだけの、むなしいことなんじゃないかと思えてならないんだ」

 そんなことないにゃ、とアリスは口走っていた。

「誰かが、誰かのためにって考えることは、素敵だにゃ……。少なくとも、アリスは、お父さんからそう教えてもらったにゃ」

 必死に訴えると、少年は微笑んでいるようにみえた。

 彼が抱えてるものが何なのか、アリスは、このときはまだしらなかった。

「突然家を出られて、皆が心配しております。参りましょう」

「ただの散歩だ、気にするな」

「そういうわけにはまいりません」

 召使が、少年を連れていく。

 少年はふと、何かに気づいたように、足をとめて振り返った。

 アリスは手を振った。

 また会おう、の意味だ。

 死を願った少年に、明日があることを祈って……。



      ~~~~~



 帰路につきながら、彼は振り返った。

 小さなニャコ族の少女は、必死にこっちを見つめている。

 その小さなふわふわした手は、何かを掴むみたいに、ゆるく握られている。

 きっといいものに違いない。

 夢や希望、そして祈り。

 この国にも、無数の人の思いと、願いが満ちている。

 ウヤク様、と使用人の男が、暗い口調で呼ぶ。


「今後、このようなことの無いよう、お役目に務めて下さいませ。でなければ……」

「黙れ」


 少年は男を睨みつける。

 男は黙らなかった。

 ひどく残忍な目つきでウヤクを見ている。

 とうてい、人間を見る目つきではない。

 道端のごみくずか、畜生を見る目だ。


「貴方に自由などないものとお考えくださいませ」

 

 それでも。

 彼は思った。


 少なくともあの小さな女の子のために、自分は全力を尽くそう。

 翡翠女王国のために。

 ただ、ひたすら他者のために。


 二人の祈りが、どこに届いて、何を引き起こすのか、まだこのときは誰も知らなかった。


 アリスが少年と再会するのは、彼女が都会にでて、司書の就職口を探しはじめる十年後のことになる。

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