30

『まずはじめに襲われた領土から逃げてきた人々をみて、勇者はあることに気がつきました。


「逃げてきたものたちはみんな農民や工夫ばかりで、魔法使いはいない。高名な星読みの古魔導師は、弟子たちといっしょにみんなやられてしまったらしい」


 竜は魔法のにおいをかぎとっているのか、ねらいは凄腕の魔法使いばかりなのです。

 ふたりの旅路に力をかしてくれるという公爵の申し出はたいへんありがたいものでしたが、兵士が魔法使いであればまっさきに狙われてなんの役にもたたないでしょう。


 勇者は魔法の腕前はそこそこでも、剣の腕の立つ者を集めることを考えました。


 しかしここにも問題がありました。

 魔法使いは言いました。「彼らを何十人かでも雇うとして、剣や鎧をどう調達すればいいだろう」魔法使いばかりの王国に、そうした武具を鍛えられる鍛冶師は少なく、竜に立ち向かえる優れた武器となるとなおさらです。勇者は少し考えて言いました。


「それらは、オルドルの森に行き、湖から調達するのがいいだろう」


 オルドルの魔法がかけられた湖は、オルドルの力の源であり、その財産の最たるものです。

 この化け物は、食べ物でも、金銀財宝でも、望んだものはどんなものでも湖から取り出すことができるのでした。

 そう、見渡すかぎり銀で埋め尽くされた森の財宝は、すべてが湖からもたらされるのです。


「しかし、オルドルは我々王国の魔法使いたちに協力してくれるだろうか」と、魔法使いは言いました。


 勇者は続けてこう言いました。


「そのときはオルドルを殺してでも湖の秘密を奪うしかないだろう」と。』



「――げほっ、げほっ!」


 せきがやまない。

 体が熱くて喉が痛い。鼻水が出る。


 こんなときに、風邪かぜ

 しかもいきなり?


 あり得ない。


「先生、大丈夫ですか?」

「いや、アイリーンが……」

「アイリーン?」


 ただの風邪じゃないぞ。

 さっきまでは体調は普通だったのに、こんなに急速に熱が出るなんて。

 びしっ、と音を立てて、壁に亀裂きれつが入る。

 時間がない。僕は百合白さんの体をかつぎあげる。

 軽い。

 こんなんじゃ、風に吹かれて飛んでっちゃうんじゃ……というくらい軽いんだけど、熱でふらふらするので、目的のロッカーに彼女を放り込むのは並たいていのことではなかった。


「きゃっ」

「ごめん、ここに入ってて。でてきちゃダメだよ」

「先生!」


 ロッカー、といっても、据え付けの大きな戸棚のようなものだ。

 蓋を閉じたところで、壁に亀裂が入り、砕け散った。


「ふん、時間稼ぎにしちゃよくできてるじゃないか――」


 稼げてない。

 むしろ、稼いだために、なぜか風邪をひいてしまった。

 僕は、崩れた壁の近くにうずくまっていた。

 息を整え、一歩、踏み出したウファーリに飛びかかる。


「っ!」


 彼女の体が、背中から床に倒れる。

 そのすきに廊下に出た。

 待て、と後ろからきこえるが、待つものか。

 しかし、風邪はいよいよひどくなってきている。

 インフルエンザのハイライト、といった症状。

 鼻水が垂れてきて、少し走っただけで吐き気がする。

 喉、鼻からくる猛烈な風邪に悩まされながら、結局、手近な男子トイレに飛び込んだ。

 ないよりマシのしろものだが……たぶん、この校舎、誰かの邸宅を改造したものなんだと思う。内鍵があったのでかけて、モップを把手にひっかけて固定しておく。

 そしてタイルの上をはいずるように流し台へと向かった。

 汚いと思われるだろうが体力の限界だ。このままだと死ぬ。

 インフルエンザで死ぬやつは毎年恒例なんだから、別に冗談とかではない。

 意外と広いトイレだ。

 流し台にたどりつくと、蛇口をひねって水を出した。

 頭から水をかぶる。

 水の冷たさが、少しでも熱をとってくれれば……。


「ここで、死ぬのかな」とつぶやいた声は老人のように枯れていた。


 ウファーリからもたらされる死より、謎の風邪のほうが辛かった。

 風邪は自己紹介よりももっと嫌いだ。

 子供のころを思い出して、みじめな気持になるから。

 小学生の、まだ低学年だった頃……。

 僕は風邪を引くのがいやだった。

 まぶたをとじると、薄暗い部屋を思い出す。

 机、ベッド、地球儀……それから。


『どうしてこんな忙しいときに風邪なんか引くの?』


 忘れられないのは、母さんの小言。

 うちはずっと共働きで、母子家庭になってからは、僕が風邪を引くと母さんは会社を休まなければいけなかった。

 定番の愚痴をきくのがイヤで、風邪を引いた朝はずっと布団にもぐってたんだ。

 気が付かれないように。日頃、僕はクラスでもめだたない存在で、無断欠席の連絡を職場まで入れてくることはなかった。

 だから夕方までは平和だ。


 僕は布団の中で熱や咳にじっと耐えながら、一日を過ごすんだ……。


 かわいそうなツバキ、というアイリーンの声がきこえてくるような気がした。


 冗談じゃない……。


 僕はかわいそうなんかじゃない。

 いったい、どうしろっていうんだ。

 母さんも、ウファーリも、アイリーンも。


 どうしたら……どうしたら、魔法が使える? 百合白さんを守れる?

 そして……。


 そう思ったとき、背後に足音をきいた。

 扉を壊されたんだろう、そう思った。

 手が水につかっている僕の上半身に触れ、持ち上げた。

 鼻歌をうたってる。

 ウファーリじゃない。

 天藍でもない。

 手は僕の体を水から引き上げると、かわりに右手を持ち上げて水の中に入れた。

 その手がみえた。

 黒い服を着ている。よく見るとオレンジや緑といった色で複雑な紋様が染め抜かれた衣服だ。


『清き水の流れよ、万物を浄化し流転する力よ、その源にいざないたまえ。その力を知らしめたまえ、我が名オルドルのもとに下りたまえ』


 ぞくり、とする声がふってくる。

 流し台の上に鏡がとりつけられている。

 そこに、僕に覆いかぶさるようにしている少年の姿がうつし出されている。

 緑色に濡れて光る黒髪に、額には二本の、枝のように先の別れた角が生えている。

 そして、真っ赤な唇で笑ってる。

 その口からは、強い鉄錆てつさびのにおいが漂ってくる。血肉のにおいだった。

 心臓がはねる。

 叫んで、逃げ出したかったけれど、両腕は押さえつけられている。

 流水にさらされている右手がじんじんとしびれて痛い。でもそれは、ただの水ではなかった。

 なんでだろう。僕にはわかる。

 それはさっきの呪文で、水であって水ではないものになった。

 勢いを増してあふれだして流し台からこぼれ、床の上に広がっていく。


『その偉大な力でもって我に王者の冠を与えたまえ。水のめぐるところすべて、木々は我が手足、獣は我が瞳、我が耳、我が声音。しかし秘密は隠されますように。合図があれば速やかに、その銀の一片、金のひとかけらも敵の手にはわたりませんように……』


 背後で、扉が粉々に砕け散る。

 回転し飛翔する刃と共に、ウファーリが入ってきた。

 その表情には獲物を負う狩人の、獰猛な笑みが浮かんでいた。が、僕をみてその笑みは引っ込んだ。


「なんだ、それは……」


 絶句している。

 そりゃそうだろう。頭に鹿の角を生やした少年が、僕の隣にいる。

 辛うじて下半身は人間だけど。

 僕の周囲には花が咲いていた。

 銀色の花だ。薄い銀の羽を開閉させて、蝶が舞う。


「逃げろ、ウファーリ……」


 風邪がよくなったわけじゃない。ガラガラ声だ。


「逃げろ、だと……?」

「どうなるか、僕にもわからない。コイツの姿が見えるだろ!?」

「はあ? 何言ってるんだ、こいつって……?」


 ウファーリの疑問が、轟音にかき消される。

 トイレの床から生えた、大振りの銀の大木が、頑丈な壁を破壊したのだ。

 舞い上がった埃を、外界の光がキラキラと輝かせていた。


「うああっ!」


 視線を戻すと、ウファーリが血を流しながら倒れていた。

 銀色の細い枝が、彼女の白い太ももを刺し貫いていた。

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