5
「そうでしたか……妹が、そんな暴力的な手段を使ってあなたを……」
僕が翡翠女王国に来た理由を話すと、百合白姫は伏し目がちに呟いた。
ただし、僕がこの世界の住人でないことは黙っていた。異世界とか、日本とか……それがどれくらい常識的なことなのかがわからなかった。
紅華やリブラは当然のようにふるまっていたけれど、ただでさえ微かな信頼を失うのは怖すぎる。
そんな心中を知ってか知らずか彼女は僕の手を取ると、両の掌でそっと包みこんだ。
「かわいそうに……。女王国に来たばかりで、まだ戸惑っておられますでしょうに」
「や、だめですって!」
「いえ、せめてこうさせてください。妹は、目的のためには手段を選ばない性格なのです。私もそのことを憂慮しているのですが……何もできずに、ごめんなさい」
彼女の手は柔らかくて、驚くほど滑らかだった。
男のザラザラした手とは、細胞膜から違うのかもしれない。
何より、そうしてじっとしていると、あたたかい。
人って、暖かいんだな……。
そういえば、最後に人の温かさを感じたのはいつだっただろう。
最初に感じた胸の高まりは、しだいに穏やかになっていった。
そして、僕はあることに気がついた。
「あの、ほんとうにもう大丈夫です」
「どうか遠慮なさらず」
ちがうんだ。
少し離れたところからこちらを監視している天藍とかいう騎士の目が、徐々に穏やかでなくなってきていた。
腕組みをしている手が、腰のものへと伸びかかっている。
しかし、姫君の好意を無下にするわけにもいかない。
あと十センチ、五センチ、三……。
すごい、寿命が視覚化されて、センチ単位で縮まっている……。
「そう、ええと、つまりですね」
窮地に立たされた僕は反対の手で目元を覆ってみせた。
「そう優しくされると、泣いてしまいそうで……女性の前で涙を流すのは、さすがにプライドが傷つきます」
「まあ……! それは配慮が足りませんでしたね、申し訳ありません」
二、イチ……。
彼女の手が離れていった。
それと同時に、天藍の手も止まった。
「チッ」とはっきりわかるように舌打ちしてくる。
こいつ……本当に殺すつもりだったな。
「それにしても、困りました。できればあなたをこのまま逃がして差し上げたいのですが……」
百合白はちらりと天藍のほうを見る。
騎士は百合白からは見えない角度で、思いっきり嫌そうな顔をした。
「不可能でしょう。後宮の出入り口は親衛隊が既に押さえている。前庭から海市に出る道も同じこと。あの方が憲兵への連絡を怠るとは到底思えません。それに、それだけの時間を待ちに使うかどうかも怪しいものです」
「そうですか……では、いったん、昼食会の会場にもどるしかありませんね」
「えっ!」
必死で逃げてきたのに。
「あなたには理不尽に思えるでしょうが……紅華は王姫。実質、翡翠女王そのものであり、この国の主なのです。対して王位継承権を持たない私はこの翡翠宮ではなんの権限も持ち合わせておりません」
「王位継承権を持たない……?」
彼女が紅華の姉なら……確かに見た目は真逆に違っているし、どういう血の繋がりなのかはわからないが、無いというのはおかしくないだろうか。
「貴様には関係のない話だ」
短気すぎる騎士が釘をさしてくる。
「でも、逃げたことをとがめられないよう、言い訳を考えることくらいならできます。今は戻って、もう一度タイミングをうかがうほうがいいかもしれません」
「それか、お前が紅華の言う通りその魔法を習得するしかない」
天藍は今にもこちらを鼻で笑いそうな口調だ。
しかも顔はまるで彫刻のような美しさなので腹立ち二倍だ。
「もし普通の魔法だったのなら、少しはお手伝いができるかと思いますが……悩んでいる時間もあまりなさそうです」
彼女の瞳が、僕の胸を見つめる。
僕もそこを見つめる。
「あ……」
ちょうど左胸の真上あたり。
上着の色が変色していた。
上着を脱ぐと、白いシャツに赤いものが見えた。
さらにその下。胸に天秤のマークが浮かびあがり、血が滲み出ていた。
「リブラだな。魔法で傷をゆっくり戻している。嫌味なやつだ……。手術のときに、何か呪具のようなものを埋め込んだんだろう」
そういえば、傷口に深く触れられた記憶がある。
「《医聖》がわざわざ患者の肌に触れるなんて、聞いたこともない」
戻らなければ、このまま外に出さずに殺す。そういう警告だった。
戻るしかない。
今戻れば、星条百合白の援護もある。
ひどいことにはならないかもしれない……。
視線を上げると、柔らかな桃色の瞳が、優しく笑みの形をつくった。
~~~~
広い庭園に面した日当たりのよい建物に、みるからに金持ちそうな人物らが集まっている。
パーティなんて出たことがないからよくわからないが、食事の準備ができるまでここで用意された飲み物や軽食を楽しんだり、庭に出て雑談をして時間を潰すようだ。
楽団までそろっていて、いかにも上流階級の集まりといった感じがする。
百合白に連れられて会場に入ると、使用人らしき人物が鐘を鳴らして来訪を知らせた。
彼女が足を進めると、さっと波を引くように誰もが頭をたれて道を開ける。
軽く声をかける者もいた。
百合白は穏やかに微笑んでうなずいてみせる。
そのうしろを、騎士が続く。
優しく美しい姫君と、美貌の騎士。
まるで一服の絵画だ。
リブラは僕を見つけると、青ざめた表情を浮かべた。
先に百合白が声をかけた。
「お久しぶりです、リブラ。あなたのご活躍は常々耳にしております」
「もったいないお言葉でございます、殿下」
「先ほど、日長先生とお会いしました。ご気分が優れない様子でしたので、私の控室にお連れしました。念のため、診て頂けないかしら」
「仰せのままに……」
リブラは取り乱したのが嘘のように恭しく一礼を送る。
「では、日長先生。またお話してくださいましね」
百合白と天藍は、そのまま、会場の奥に去っていく。
彼女たちが花で飾られた専用の席に着くと、再び音楽がはじまった。
「日長君……逃げ出したことは、まあいい。しかしよりにもよって、あの方に……あれが誰だか知っているのか?」
ひどく狼狽した声だった。
「紅華のお姉さんと、おつきの騎士ってやつだろ」
「殿下と呼べ。それに、それだけではありません。天藍は竜鱗騎士……つまり、竜鱗魔術の使い手で、しかも竜鱗騎士団の団長なのです。彼らに何も話してないでしょうね」
竜鱗騎士団……よくわからないが、強いってことだろうか。
「なぜ答えないといけないんだ?」
「きみはこの国のことを何ひとつ知らないから、そんなことが言えるんですよ」
言葉の続きは、先ほどより一際大きな鐘の音にかき消された。
はらり、と花の花弁が頭上に舞い落ちる。
客たちが再び、深く礼をする。
男たちは深く頭を垂れ、女たちは腰を低くして膝を折り、敬意を表す。
座ったばかりの百合白も立ち上がり、その場にかしずいた。
入って来たのは真紅のドレスの少女だ。
短い黒髪に薔薇をかたどった髪飾りをつけ、手にはとじた扇。
静かに、ドレスの裾を引きながら歩いてくる。
彼女の靴が花びらを踏むと、薔薇の香りが強く感じられた。
だけど、僕は気づいた。
匂いや演出で隠されているけれど、百合白が入ってきたときとは、雰囲気がちがう。
何か、もっと、トゲトゲした……。
「恥知らずめが」
そんな言葉が、僕の耳に飛び込む。
誰かを確認しようとしたが、わからない。
もしかしたら、聞き間違いかもしれない……。
そう思ってリブラをみると、彼はかしずいたまま、拳を強く握りしめていた。
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