115 告白

 階段状に三席ずつ、三段三列に行儀よく並んだ机。

 飴色あめいろみがかれた木の床。黒板の隣には小さな扉。

 僕にあてがわれた教室はウファーリの土下座の印象だけが強くて、学院の他の場所と同じく、よそよそしい景色だった。

 僕は教卓に水筒を置いた。

 古いタイプの水筒で、金属製のボディに冷たい水をたっぷりと詰めたそれに語りかけた。


「いじけるなよ、オルドル」


 ふん、と鼻をならす音が聞こえてきそうだ。

 あの日から、オルドルが話しかけてくることはなかった。でも、いなくなったのとは違う。

 杖のそばで妙なふてくされた息遣いを感じるし、魔法を使うこともできる。

 僕は目を閉じて、周囲を注意深く探る。

 オルドルに頼らずとも、隣の教室で授業が行われているのが聞き取れる。

 それが、この場所の平穏で、日常なんだろう。


「本当にやるんだな……?」


 これは自分が自分に訊ねる質問だった。

 僕がマスター・カガチに渡したメモは、おそらくすぐにノーマン副団長の手に渡ったはずだ。


 彼女にあのメモを渡せば、きっと……。


 十中八九間違いなく、僕が望むことが起きる。

 だが、今なら何も聞かなかったことにもできる。


 都合よく冗談だよと笑って言って。


 あのメモで呼び出した目的の人物があとたったの五歩で、扉の前に立つというのに、そんなことを考えてしまう。


 バカだな。

 僕はバカだ。

 僕ほどバカな男は、この地上にはいないだろうな。


 笑いながら、音に耳をます。


 いち、に、さん……。


 なんて軽い足音だろう。

 靴底を小気味こきみよく鳴らし、細い腕が扉を叩く。


「鍵はかかってないよ。どうぞ」


 そして――、教室に姿を現す。

 短いスカートのすそひるがえり、陶器のような肌をさらす。

 歩みは軽く、小鹿のよう。

 ふっくらとした唇はなんともいえない笑みをたたえ――誰もを魅惑みわくして離さない。

 花のような、砂糖のような、甘い香りがここまでただよってきそうだ。

 白金色プラチナの髪がさらりと流れ、可憐かれんな桃色の瞳が、僕をうつす。

 それだけで胸が熱くなる。鼓動が狂う。


「お招きにあずかり光栄ですわ、マスター・ヒナガ」

「そうかな……」

「いまや、あなたは女王国の救世主ですもの。それに、私の命も救ってくださいましたね……。無事だと聞いてからずっと、お会いしたかったのです」

「あなたが無事でよかった。不躾ぶしつけに呼び出したりして、ごめんなさい」


 美しく、可憐な乙女がきらめく微笑を見せる。

 翡翠女王国に咲き誇る姫君にして、天藍アオイが血みどろの忠誠を捧げるその人。


 星条百合白せいじょうゆりしろ


 会いたかったと言ってもらえて、正直なところ、みっともなく胸が高鳴って彼女が語りかける言葉のすべて宝石の粒のように輝いて感じられた。


「お話があるとうかがいました」


「愛の告白です」と僕は夢見心地で返した。


 彼女はくすりと無邪気に笑う。


「冗談ですね?」

「いいえ。百合白さん、あなたは……ずっと僕のことを守ってくれましたね」


 星条百合白は、この世界で僕の境遇きょうぐうに胸を痛めてくれた、その最初で唯一の人だった。


「出会ったときのことを、つい今しがたのことのように思い出せます。僕は、はじめて優しさの意味を学びました。だからお返しに守ってあげたくて……まあ、その結果は悲惨ひさんだったけど」


 彼女を守れなかったばかりか、魔法の力を暴走させてさらなる窮地きゅうちを呼び寄せてしまったことを、忘れられるわけがない。

 ウファーリのことも傷つけた。

 僕は他人の心を思いやることができない冷たい人間で、今でもそうだ。

 つぐなう方法が見つからずに足掻あがいているんだ。

 それはこの先もずっと続くんだろう。


「それでも百合白さんが一緒に戦うと言ってくれたから、その言葉だけで理不尽りふじんなことにも耐えられた。これを……」


 教卓から降りて、ポケットから白いハンカチを取り出した。

 天藍に軽く切られたとき、傷口をくために貸してくれたレースのハンカチだ。

 彼女は歩み寄り差し出したハンカチを受け取ろうとして、躊躇ためらいがちに手を伸ばす。

 僕は彼女の手に触れた。


 僕のお姫様。

 僕が僕の意志で触れたいと願う、ただひとりの女性が彼女だ。

 

 無礼だとわかっていて、その資格がないと知っていながら、僕はハンカチを受け取った左手の甲に触れ、両手で包み込む。

 もう二度と間近にすることはないんだと覚悟していた桃色の瞳が、不思議そうにこちらを見つめる。そのまなざしを向けられていることにさえ、胸ににじむような幸福を感じる。


「あなたの苦しみを知っています。……知ってる、というのと理解してるのとだと雲泥うんでいの差だけど……だけど」


 彼女は僕の光だ。希望だった。

 取り返しのつかない罪をおかしても、苦難が立ちふさがっても、やがて誰かの光になれる。

 彼女はそんな人だ。


「百合白さんは僕よりずっと強いのに……その苦しみを取り除いてあげたいって本気で考えていたんです。あなたが好きだ」


 口に出すと、恥ずかしい。

 僕は彼女の手を離さず、杖を抜いた。


「《昔々、ここは偉大な魔法の国》」


 その途端とたん、幻が教室を包み、学院の他の場所から、世界のありとあらゆる場所から隔離かくりしていく。

 隣の授業の声は、まったく聞こえない。

 かわりに銀の鳥がさえずり、動物たちがはね回る音だけがする。

 室内に木々が生い茂り、伸びたつるが彼女の両足を絡め取る。


「ただの愛の告白……というわけではなさそうですね」


 彼女はまったく動揺すらしない。

 ある意味、黒曜ウヤクと同じ、鋼の精神だ。


「いいえ、あなたのことが好きだ。でも、だからこそ僕は聞かなくちゃいけない。……五年前、?」


 これは、僕の口と声を借りて投げかけられたマリヤの問いだ。

 血を吐くような質問。

 最期さいごの一瞬でマリヤから僕に託された復讐の炎、その熱のかけら。


「そして……何故、彼女を……玻璃はり・ビオレッタ・マリヤを……?」


 百合白さんはしばらくの間、黙って僕を見つめ返していた。

 掌から伝わる熱を、もう二度と離したくないと感じる。

 彼女がそばにいるだけで、ほんの一瞬が永遠に思える。

 永遠だ。

 一秒が無限に続く。

 不可能は何もない。

 彼女がいてくれれば、僕は何だってできるだろう。

 文字通り、なんだって。


 だから僕は彼女を弾劾だんがいする。


 徹底的に。

 完膚なきまでに。


 告白と宣戦布告が甘く絡みあう。

 百合白さんはその可憐な瞳を細めて、蕩けるような微笑を浮かべたままだ。


「ふふっ」と小さく声を立てた。


 オルドルが僕の爪をい、血の雫が床に散ったのが見えた。


 

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