99

 じっと息を殺して、時間が飛び去るのを待つ。


 僕はここにはいない。

 少なくともこの次元にはいない。

 誰も僕の存在を感じ取ることはできない。


 そう心の中でとなえながら。


 僕は空気だから、誰にも見えない。

 心臓が止まっているから、何も感じない。


 扉の向こうで誰が怒り、誰が涙して、誰が苦痛の海の中でのたうち回っていても、関係無い……。


 昔、そんな言葉をよく唱えていた。

 両親が喧嘩してる間じゅう、ずっとだ。


 家族を愛してるなんて、嘘だったのね。嘘つき。

 また逃げるつもりなのね。

 また……。


 嫌な記憶を思い出しながら、記憶が三巡くらいしたところで、やっと銀華竜ぎんかりゅうの魔力が上空を離れていった。


「先生、大丈夫ですか!?」

でだこになるところだったけど……それより、こっち」


 ウファーリに貰った薬がきいて、痛みが無くなり、快適だ。瀕死であることは間違いないし、左手が修復不可能なくらい痛めつけられているけれど、どれも些細ささいなことだと思えるほどだ。

 僕は意識を失った天藍を床に寝かせて、息が苦しくなるほど暑いのに熱のない頬を叩いた。


「天藍! おい!」


 腹部にひどい傷。全身に火傷。

 その姿は今までの天藍とは全然違ってた。

 真っ白だった髪が滑らかな黒に染まってる……。

 よく整った顔であることは間違いないけれど、あの現実感のない輝きは消えていた。

 たぶん、これが《天藍アオイ》の本当の姿なんだろう。


 ほんとはこんな顔してたんだな、と思うと苦いものを感じた。


 僕はどこかで、こいつとは一線を引いてた。

 別の世界の人間だって。僕とはちがう。生い立ちも、強さも。

 でもそうじゃなかった。

 天藍アオイも普通の人間で、傷を負いもすれば、痛みもあり、死ぬ。

 痛みを感じ、絶望もするのだ。


「先生……残念ですが、彼はもう……心臓が止まっています」


 イブキが辛そうな顔で目を背ける。


「いや、脈はある」


 天藍の頭を固定し、右手を首筋に当てながら、僕は言う。

 顔に覆いかぶさるように、頬を近づける。

 本当に微妙だが、呼吸もある。


「えっ! でも、しませんよ、音!」

「鱗を抜いてみて」

「なんでそんなに冷静なんですか……!?」


 イブキは小声で叫んだ。泣きそうな表情だ。

 こっちは疲れすぎて余裕が無いだけだ。死の恐怖も三巡目くらいだ。

 脅えるのも、叫ぶのも、体力が必要なんだ。そのための力はもう残ってない。

 イブキは不気味そうに鱗を掴み、筋肉や他の血管を傷つけないよう少しずつ引き抜いていく。


「……抜けました」

「ありがとう」


 イブキは黙って傷口を押さえシャツやハンカチを切り裂いて止血する。

 とりあえず気道だけは確保しとく。


「先生、これを……」


 イブキが、紙に包まれた細長いものを取り出す。

 切り取り線にしたがってがすと、護符タリスマンが出て来た。

 リブラが僕に持たせてくれたものと似てる。


「市販のものですが、無いよりマシです。起動をお願いします」

「一応聞くけど、イブキじゃだめなの?」

「自分たち竜鱗騎士は一般人への治療行為は原則厳禁です。竜の魔力が……」


 人体に悪影響を及ぼす可能性がある。

 竜鱗騎士は竜鱗によって常に身体をむしばまれているようなものだ。

 圧倒的に《癒し》には向かない。


「わかった。――《解放リベラシオン》!」


 呪文と、わずかな僕の魔力を起点に《治療クラル》が発動する。

 治癒の光が傷をわずかでもいやすことを願い、三本目を開けたところで、天藍が薄く目を開き、口の中の血を吐き出した。


「天藍! よく生きてたな……」

「魔術でとっさに心臓の位置を動かした……」


 僕はまじまじとイブキを見つめた。


「……できるの?」

「理論的には……」とイブキが顔を引きつらせる。


 竜鱗魔術の真骨頂は、人体への魔術的な干渉にある。柔らかく、もろく、急所が多すぎる人間の体を、竜と戦闘可能なように強化するのが本来の目的なのだ。

 でも……正直に言って、気持ち悪いな。生理的な不快感がある。


「サナ、リアの魔法は……触れた、空間に、作用する……」


 天藍はそれだけ言うと、また目を閉じる。

 触れた空間に作用する……。


『発動の条件かナ?』


 オルドルの発言に、僕は無意識のうちにうなずいた。

 これでサナーリアの能力がわかった。

 彼女は、直接触れることで対象に魔術をかける。触れる……ある意味では困難で、ある意味ではこれ以上、手軽なものはない手段だ。

 しかも、たぶん……僕もこの術中にある。

 ここまで僕が生かされていたのは天藍を確実に排除するためだ。

 マリヤにとっては、僕よりも天藍アオイのほうが脅威だった。だから条件を悟らせないために、わざと僕のほうは泳がせておいたんだと考えるほうが妥当だ。

 天藍は死んだように目を閉じたままだった。


「今度こそ死んだ?」

「いえ……回復してるだけだと思います。でも負傷が激しいので、治癒が間に合わなければ死にます。こんなの、即死しなかったのが奇跡ですよ……」


 イブキの説明は、端的で残酷だった。


「逃げましょう、マスター・ヒナガ。貴方たちではかなわない。騎士団に任せるべきです」

「といっても……彼が騎士団長なんだけど……」

「いいえ、ただのバカです。先生も思い知ったでしょう。こいつは、どこまでも一人で突っ込んで、最終的には自爆するしか能のないアホです」


 アホは余計だが、イブキの言うことは正論だ。


「う~ん……。イブキ、危険なのに来てくれてありがとう」


 とりあえず、お礼を言っておいた。

 次にいつ言えるかなんて、わからないから。

 イブキは真顔に戻り、顔をくしゃっと歪めた。


「……自分は……その、ごめんなさい」


 そう呟くように言ってうつむく。


「戦えなくて……ごめんなさい。自分が戦わなかったから……こんなことに……先生や、班長がひどいケガをしてしまって……」


 その瞳から、涙がこぼれて、こぼれて、止まらない。

 僕は彼女の涙をぬぐおうとして残った右手を伸ばす。すると、彼女が膝立ちになり、勝手に胸に飛び込んできた。

 鎮痛剤が効いてなかったら、凄く痛かっただろう。


「先生、ごめんなさい! 狸寝入りしてごめんなさい!」

「狸寝入り? ……ああ、もしかして」


 いくらリブラの作った魔法薬とはいえ、道端に落ちてる菓子を食べても腹を壊さないような子だ。わざと聞こえないフリをしていたんだろう。

 でも、それを責めるつもりは、僕にはない。

 むしろ、ずっと自分を責めてたのだとわかって、おかしいくらいだ。


「……バカだな。僕も、天藍も、敵わなかったんだよ。君が無事でよかったよ」


 僕は彼女を抱きしめる。

 本当によかった。

 彼女が生きていて。かなり疑いはしたけれど、彼女を守り続けてよかった。

 銀麗竜ぎんれいりゅうの適合者である彼女が、生きていてくれて。


「ねえ、イブキ……だから、さ。銀華竜のこと、教えてくれる?」


 びくり、と少女の体が反応し、強張こわばる。


「先生……?」


 彼女が、ゆっくりと体を離す。

 最初は、不思議そうな顔。

 やがて、怪訝けげんそうな表情を浮かべる。


「まだ、諦めてないと……?」


 僕を見上げるイブキの表情に、脅えが混じる。

 何故だろう。

 何かおかしなことを言っただろうか。


「先生……どうして、笑ってるんですか……?」


 笑ってる?


 自分ではよくわからない。

 どこともしれない倉庫の中で、僕は窓ガラスにうつった自分の顔を確認する。

 確かに、唇は半月型の笑みの形で固定されていた。

 オルドルと似ている。


 確かに、この場面にはそぐわないかもな、と頭の片隅で、そんなことを考えた。

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