98

 冷たい石畳の路地が見えていた。


 幻ではない。勘違いでもない。


 しんしんと降り積もる雪の冷たさが、靴の裏からい登って来るのを感じた。

 それくらい正確に、過去のことが思い出される。

 天藍アオイは一軒の家の前に立っていた。なんでもない、どこにでもあるような、風景に埋没まいぼつしてしまいそうな、ただの家だ。

 そこでは彼は騎士ではなかった。

 両手も両足も小さく、頼りない、ただの少年。ただの子供だった。

 彼は小さな手を、そっと窓の光に手を伸ばした。

 その向こうには穏やかな団らんがあった。

 ひとつの家族と、ひとつの食卓だ。


 薄い硝子がらす一枚を隔てたその向こうに、自分には無かったものがすべてそろっている。


 次の瞬間、伸ばしたてのひらが紅い血で染まった。

 彼は自分の体内から熱く噴きこぼれたそれが何であるかわからず、しばし呆然ぼうぜんとしていた。

 足元には流れる鉄の大河と大穴があり、指先はその下へと落ちていく灼熱しゃくねつの滝へと伸ばされていた。


「どうなさったの? ……あなたらしくもないですわね。竜鱗学科の天藍アオイといえば、非情で孤高の一匹狼という評判でしたのに」


 マリヤが演技ではなく、心の底から驚いたように呟き、天藍の体に深く刺さった剣を回して引き抜いた。幸運の一撃を致命の一撃とするためだ。

 もしも天藍が、落下する日長椿を助けようとしなければ、一撃だった。

 そう……。

 彼は助けようとしたのだ。

 蛇口をひねった水道のように、口元から鮮血があふれる。

 マリヤの突き出した剣は、装甲の隙間から……背中から腹までを一気に貫いていた。

 さきほど頭に過った光景は走馬灯のようなものと知り、口の端から血を吐きながら、天藍アオイは皮肉げに顔をゆがめた。

 孤児として生まれ、頼る友もなく、ずっと、死に際して思い出すべき記憶は存在しないと思っていた。

 親の顔も見たことが無い。友人も仲間もいないのだから。

 それなのに、見た。

 あの寂寥せきりょうとした風景をだ。


「ぜひ、聞かせてほしいわ。私には不運を恨めと言い、彼には手を伸ばそうとした……そこにはどんな違いがあるのか……あの、どうみても温室育ちの生ぬるさ。貴方にとっては唾棄だきすべき弱さではないの?」

「そのとおりだ」

「ではなぜ? あなたも、仲間や友情といったものに心を預けることがあるとでもいうの?」

「知らないものに、何かを預けるなどできるものか……」


 何故、新人でもしないような間違いを犯したのか、自分でもわからない。

 気を抜いていい戦いではなかった。

 どんな一瞬にも駆け引きがあり、《死線》があった。

 マリヤには剣の技はない。だがその内側には竜がんでいる。

 それでも天藍はマリヤから気を逸らしてしまった。

 あれだけ熱望していた闘争がそこにあったのに、それは指先をすり抜けて行った。



《僕には君の魔術が……強さが必要だ、アオイ》



 ふるえる声を覚えている。

 勇気があるのか無謀なだけか、その両方か……おそらくそのどちらでもあるのだろう。ときに恐るべき度胸で魔法の技を披露したかと思えば、すぐに足手まといになる。それでもここに連れてきたのは……ばかばかしいことに、その可能性を信じたいと思ったのは……何故なのか。

 天藍は痛みに負けて苦鳴くめいを漏らそうとする唇を固く結び直した。

 悲鳴を上げても、死の運命は変えられない。

 マリヤの質問には答えないまま、振り返り様に剣を振り下ろす。

 その刃は、マリヤの素のままの掌に止められた。

 フラガラッハは白銀の力を失い、黄金の木偶でぐへと戻っていた。

 魔剣のあるじたる日長椿との繋がりが一時的に切れたからだ。

 魔力を供給されない魔剣は、敵を断つことはない。

 天藍はがっちりと掴まれた剣から手を離し、手刀を繰り出す。

 マリヤは首を傾け、軽くかわす。

 傷のせいで、正確さを失っている……が、その頬が薄く切れて、血を流す。

 マリヤは瞬間、怒りに燃えた表情で、騎士の頭部をおおう仮面を掴んだ。

 騎士の背中に銀鱗が殺到し、針ねずみにする。

 仮面の下には苦悶くもんの表情があるだろう。それを見届けて、やっと、マリヤは果ての無い憎悪や怒りが慰められる気配を覚えた。


「このに及んで答えるつもりはないと……? まあいいわ。気にくわない存在ですものね、あなたも、彼も。それに、やっとこうしてあなたに触れることができましたわ」


 彼女はそれまでの力強さをなくした頭部を片手で空中に吊り下げたまま、その心臓の上に手を重ねた。


「わかるでしょ? これがサナーリアの魔法の、最初の発動条件です」


 相手に直接触れること。

 あとは、その力で殺した死体が魔法を際限なく広げて行く。

 マリヤは銀鱗を取り出した。


「《昔々、ここは偉大な魔法の国》……」


 呪文を唱えると同時に手にした銀鱗が消え、天藍の心臓には鋭すぎる痛みが走る。

 物の移動に特化した魔法。ただそれだけならただ単純で弱いだけの魔法を、彼女は憎しみのためだけに、必殺の、人殺しの魔術へと昇華させたのだ。

 苦悶に身悶みもだえる体を、少女は愛し気に抱きしめた。


「ありがとう。あなた自身にはなんの恨みもありませんけれど、それでも、竜鱗騎士団のひとりであることには変わりありませんもの。貴方の呼吸がこの腕の中でえたなら……少しは安らかな気持ちになれるでしょう……」


 痙攣けいれんが止まる。まとっていた竜騎装が砕け、その下の素顔があらわになる。

 胸からは銀の鱗が突き出した……純白の騎士は、そこにはいなかった。

 髪の色は、黒。

 生命活動が止まり、竜鱗の力を失った騎士の素の色だ。

 どこまでも戦いを求める獰猛どうもうな魂は、消えていた。

 彼女の腕に抱かれているのは、傷つきはて、命まで失ったただの若者だ。


 マリヤはそっと両手を離す。


 孤独な騎士の体は燃え上がる銀華竜の息吹の溶鉱炉へと飲み込まれていった。

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