番外編 リブラとマリヤ

「死にたくない……」


 彼女は振りしぼるような声で呟いた。

 火薬のぜる音、震動、絶叫ぜっきょうが空間を震わせる。

 絶望が空気を伝わって、死臭となる。

 それらすべての吹き溜まりに彼と彼女はいた。薄暗い地下で。しかばねの並ぶ墓所で。

 憎しみと怨嗟えんさのその果てのようなところで。

 青年医師はじっと、寝台を見下ろしていた。



*****



 ベッドの上に広げたドレスは、いずれも高級品だ。

 薄紫、明るい黄色、それから抜けるような青。

 色味はどれも上品で春らしく、脱ぎ着しやすいようにゆったりとしたデザインが多い。それでいていずれも流行のデザインを外さず、贈り物をされた相手の好みも反映されているところがあの人らしい――と、マリヤは苦笑を浮かべた。


「マリヤ様、若様がたまたま時間がいたとかで、ぜひ昼食を一緒にと連絡がありました」


 メイドが言う。

 時計を見ると、あと二時間ほど余裕がある。

 赤いリボンがかけられた大きな箱が玻璃家の下屋敷に届いたのが、つい今朝方のことだ。

 たまたまなんかではない。昼食の予定はあらかじめ仕組まれていたものだろう。

 むげに断るにもしのびなく、そして、贈り物の中のどれかに着替えるのにも十分に余裕がある、そんな時間配分だった。


「まったく、リブラ様はいつも通り、そつのない殿方ですこと」


 マリヤは苦笑を浮かべる。

 年かさのメイドはそんな様子を見て微笑わらっている。


「マリヤ様は贈り物をすべて箪笥たんすのこやしにしてしまわれますから……年頃のお嬢様ですから、心配なのでしょう。実のところ、あの方はマリヤ様が遠慮なさっているとお思いなのですよ」


 確かに同い年の娘たちは華やかなドレスを身にまとい、唇にべにをさして髪を結い上げ、お気に入りの指輪やネックレスで飾りたがる。

 マリヤはそういったことにまったく興味が持てないが、そのせいで控え目でおとなしく見えるのだろう。

 それで書類の上では養父にあたる、玻璃はり・ブラン・リブラはこういった贈り物を頻繁に、それも過剰なほどに送ってくるのだった。


「どうしてかしら、何をしていても楽しいと思えないの」


 明るい色。触り心地の素晴らしくいい生地。ふわふわしたレースやリボン。

 それらに触れても、心は氷のように冷たいままだ。

 だからといって、学業が楽しいということもない。しかし勉強のようにやることがはっきりとしていれば、それに集中してほかのことを忘れられる。

 過去のことを思い出すよりも、ただ淡々と毎日をこなすほうが楽だった。

 彼女の境遇を知っているメイドは、その寂しげな姿に胸を痛めた。

 マリヤは鶴喰砦つるばみとりでで孤児となり、ビオレッタの名前を授けられて玻璃家へと引き取られた。もちろん玻璃家の当主であるリブラが養女を迎えることに、親族や家の者から不満が上がらなかったわけではない。

 だが、近頃のリブラにもどことなく暗い影がつきまとっているのは周知の事実で、マリヤの存在が救いになるならばと、誰も表立って口にしなかっただけだのことだ。


「お気持ちはわかりますわ、お嬢様。けれど、リブラ様のためと思って、そでを通してくださいませんか? どうか、一度きりでも構いませんから……」

「ええ、そうね。それがわたくしの仕事ですもの」


 利発で、自分の立場を弁えているマリヤはこばむことなく承諾する。


「気負うことはありません。私が女王国一のレディに仕上げてみせますからね」


 マリヤが薄紫のドレスを選ぶと、メイドは待ってましたとばかりに支度したくを始めた。

 彼女の鼻歌を聞きながら、いっぽう、マリヤは鏡を睨みつけていた。

 その心には、あの残酷な戦場が深い傷跡となっている。

 日常に戻り、リブラは忘れてしまったのだろうか、と一瞬だけ勘繰かんぐった。マリヤがあの砦でどんな目にったのか、そして彼が何をしたのかを……。

 二時間後、リブラを出迎えたマリヤは紫色のシフォンのドレスを身にまとい、いつもは地味な三つ編みに結っている金色の髪を結い上げて、白いほっそりとしたうなじをみせていた。

 彼女の背後で、メイドは自分の仕事ぶりに自慢げな顔をしている。

 リブラはしばらくぼうっとしていたが、やっとそれが自分の贈ったものだと気がついたようだった。


「まさか着てくれるとは思わなかったな……とても素敵だ。お姫様のようだね」


 マリヤも感情のこもらない微笑みを返す。


「ありがとう存じます。お久しぶりですわね、リブラ様」

「うん、もう少しこっちに顔をみせたいと思っているんだが、仕事が立て込んでいてね。変わりはないかな?」

「皆さまが親切にしてくださいますもの」


 答えながら、車椅子を操作しようとした手が止まる。

 屋敷の窓から差し込んだ明かりが、リブラの青白い頬を一瞬だけ照らし出したのだ。


「車いすを押してくださいます?」

「ああ、お安い御用だよ」


 リブラが背後にまわり、車椅子のハンドルに手をかける。

 マリヤは膝の上で組んだ右手を肩越しのリブラの手に重ねた。氷のような手だった。


「……疲れているときはいつもこうですわね。食事は軽いものをお召し上がりになって、お部屋で仮眠なさるとよろしいわ。それとも、このまま寝室に向かったほうがいいのかしら」

「すまない、見事な診断だね」


 リブラは申し訳ないような顔つきだ。

 彼が何に奔走ほんそうしているのか、マリヤはよく承知していた。

 彼は王姫殿下を……紅水紅華を即位させようとしている。なるべく性急に。国民に、そして女王府に、誰が次代の女王であるのかを知らしめたいのだ。

 そのための根回しに走り、合間には患者を診ている。

 マリヤには、その気持ちは痛いほどよくわかった。

 星条百合白せいじょうゆりしろのことは、よく知っている。

 周囲の者たちは皆彼女を許し、好意を抱いている。だがマリヤと同じ地獄を通り過ぎれば、彼女の優美な魅力は、すべてがまやかしだった。


「どうかご自愛くださいませ、王姫殿下おうきでんかには貴方様のお力が必要なのですから……」


 渋る若者を、何とかソファに横にならせると、マリヤはそのそばで見守る。


「落ち着かないな」

「我慢ですわ。こうしていないと、あなたは絶対に眠りませんもの」


 目を閉じた医師の目にはくまが出来ている。

 よく見れば疲労しきっているのがわかる。

 こうしていると、医聖とかいう立派で仰々ぎょうぎょうしい呼び名は、彼には相応しくない通り名のように思えた。眠っているのは、ただの、ありふれた、心優しい若者だった。

 大人の男性というよりはどこかしら子供のような顔つきをしている。

 マリヤは思わず彼の頬に手を伸ばし、触れていた。

 母親が我が子にそうするように、優しい手つきだった。

 下半身が自由にならない彼女にとって、それは抱擁ほうようでもあった。

 心だけの領域で、マリヤは彼を抱いていた。


「私のことは気になさらないで……高価な贈り物なんて、望んでなどいません」


 そんなことに気を配るくらいなら体調に気をつけるべきだ、と彼女は思った。


「昔……」


 目を閉じたまま、彼はそう言った。

 眠っていたとばかり思っていたマリヤは、驚いて手をひっこめようとする。

 リブラの掌がそれを止める。五年前、見るも無残な大火傷を負い、何度も手術を繰り返して取り戻した掌を、そっと握りしめる。


「紅華がうちに来たばかりの頃、私の両親も、彼女にたくさんのドレスを贈っていた。寂しい思いをさせたくなくて。あまりにもたくさん買い込むものだから、彼女に怒られてしゅんとしていたのを覚えているよ」

「……」

「私は彼らを愛していた。でも救えなかった……」


 青い瞳から、一筋涙がこぼれる。

 彼の両親のことを、マリヤは家人や本人からそれとなく聞いていた。

 二人は仲睦なかむつまじい夫婦で、亡くなったときも二人一緒だった。

 毒を飲み、眠るように亡くなった。

 一番に遺体を見つけたのが、一人息子である彼だったことが、一連の出来事の最大の悲劇だろう。

 そのことを予測してか、救命措置はいらないと遺書が置かれていたそうだ。

 他人事ながらなんてむごいことをと、それを聞いたときは流石にこたえた。

 女王国で一番とたたえられる腕を持つ医師に、治療してくれるなとは。


 どれだけ救いたかっただろう。

 どれだけ悔しい思いをしただろう。

 行くあてのないやるせない思いを抱え、涙を流したんだろう……マリヤは想像せずにはいられない。


「君が望むのなら、何でもあげたいんだ。足のことも、今すぐに歩けるようにしてやりたい」

「良いのです。このあしは……医師になるまで、抱えて行きたいのです」

「うん、そうだったね。身勝手を許してくれ。私はきっと、君に許されたいんだ」


 そう言って、苦しそうに顔をゆがめる。

 マリヤはリブラの手を握り返した。

 この人は、いまだに過去に捕らわれている……そのことに、やっと気がついた。

 この人は忘れていたわけではなかった。

 誰よりも悔いていたんだと。

 医師としてしてはならない領域に手を出した自分を。

 やがて、規則正しい呼吸が聞こえてきた。


「助けてくれて……ありがとう」


 そう告げながら、マリヤは絶望した。

 許したい、とマリヤは感じていた。

 両親を失い、救うべきたくさんの人を真実の意味では救えなかったこの打ちひしがれた若者を許してやりたい。


 この感情な何なのかはわからない。


 だが、そう思えば思うほど、泥沼にはまっていく暗い感情がマリヤを忘れられない過去へといざなうのだった。



*****



「死にたくない……」


 彼女は振り絞るような声で言った。

 火薬の爆ぜる音、震動、絶叫が空間を震わせる。

 絶望が空気を伝わって、死臭となる。

 それらすべての吹き溜まりに彼と彼女はいた。薄暗い地下で。屍の並ぶ墓所で。

 憎しみと怨嗟のその果てのようなところで。

 青年医師はじっと、寝台を見下ろしていた。

 次の瞬間、せきを切ったかのように、青年の両の瞳から涙が溢れはじめた。


「ありがとう、ありがとう……! 生きたいと言ってくれて」


 彼は力なく寝台に横たわる少女の足にすがり、体を丸め、子供のように泣きじゃくりはじめた。


「ずっとその言葉が聞きたかった! 私はこんなことをするために医術を学んできたわけじゃない……! 救うためだ! 救うためだったんだ!」


 涙は次々に溢れて止まらない。

 この砦に満ちた悲しみが、全て彼の涙に転じたようだった。


(なんて心の弱い人……)


 しかし少女の心には侮蔑ぶべつがあった。

 彼には別の選択肢があった。

 魔術師ではなく、医師としての責務を全うし、砦と共に滅びるという選択肢が。

 でも選ばなかった。彼は選ばなかったのだ。


「君を救いたい。君の名前は?」


 彼女は躊躇ためらい、少しだけ、隣の寝台に眠っていた少女のことを思った。

 既にむくろとなって久しい、同い年の少女。

 思えば色々なことを話したものだ。互いの家族のこと、これまでのこと。


「わたしは……マリヤよ」


 彼は、この瞬間、マリヤとなった少女にひれ伏し続けた。

 許しを乞うように……祈るように。


 その祈りはいつまでも終わることはなかった。

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