作為の介在 4



 リシュウには宿が一軒しかない。


 旅人など滅多に訪れない農業が主体の村。その宿、緑樹亭りょくじゅていは普段、村民を相手に小さな食堂を営んでいた。

 日が暮れると、仕事終わりに酒を飲みに集まってくる村民で食堂は満席になる。だが、事件が発覚してからは、ひとりふたりがまばらにやってくる程度。しかも食事が済むと皆そうそうに帰っていく。


 そのような状況からか、サユが緑樹亭に着いたときには店仕舞いしたあとだった。

 戸締まりまで済んでいたため、迷いながら扉を叩く。ほどなく建物の奥から人の気配が近づいてくる。それからすぐに、目の高さにある覗き窓が開かれたのだが。サユは思わず、一歩身を退きそうになる。

 横長の開口部越しに見えたのは眼光鋭い双眸だった。


「誰だ」


 野太い声が警戒も顕わに訊いてくる。

 魄魔がうろついている状況なので、慎重になるのも理解できるし、不躾とも思わないが。


「こちらで宿を借りることになっている、使族聖家の者だけれど」


 若干、気圧されながらサユが告げると、扉はすんなり引き開けられた。サユの容姿を確かめるためか燭台が翳され、蝋燭の明かりがぼんやりと薄闇を払う。

 出てきたのは恰幅のいい年配の男で、出入口を塞ぐように立っていた。しかも無言で、サユを見据えたまま動こうともしない。


 まだ警戒されているのだろうか。とサユは身構える。

 けれど、緊迫した空気を一瞬で断ち切る者がいた。


「あんた、いつまでも突っ立ってちゃ邪魔だろ。客が逃げちまうよ。それとも客じゃないのかい?」


 男を捲し立てて押し退け、サユを出迎えてくれたのは男と同年くらいの女だった。

 サユと顔を合わせたあと、女は横目に男を見ていた。


「あんた、いい歳して見惚れてたね」

「い……いやっ、俺はそのっ……。あまりにもお若いから驚いていただけだ!」

「図星だろ。しかもなんて失礼なことを口走ってるんだい」

「や……だから、そういうつもりじゃ……」


 恵まれた体格のわりに、一転しておろおろと縮こまる男を、サユが気の毒に感じ始めたころ。サユの視線に気づいた女が小声で男をたしなめた。


「あんた、いいかげんにしないと」

「それはお前——っ!」


 瞬間、ぐはっと呻いて苦痛に顔を歪ませた男は脇腹を押さえていた。反論を試みたばかりに女から肘鉄を食らったらしい。

 対する女はなにごともなく振る舞い、笑みを浮かべる。


「お見苦しいところをお見せしました。聖家のサユさまですね。お話は承っております。狭い宿ですが、まずはなかへ」


 まごつく男を奥へ押しやるのと同時に、女はサユを招き入れた。

 男の態度から追い返されるのではないかと思ったが。宿の手配までが聖家の仕事だったので、宿泊する話は手違いなく通っていたようだ。


「サユさま。夕食はお済みですか?」


 女から問われ、サユは至天の言葉を思い出していた。気は進まなかったが、食べる努力だけはしようと考え直す。そうしておけば、あとで至天から訊かれても言訳が立つ。


「頼んでもいいかしら」


 サユの打算的な考えを知らない女は快く応じてくれる。


 勧められた席に着くとそう待たずに、食事が運ばれてきた。表面をぱりっと香ばしく焼き上げたパン、それから牛肉の煮込み料理ビーフシチューがサユのまえに並んだ。

 このあたりでは一般的な家庭料理のひとつで、すべての具材がひと口では呑み込めないほど大きい。たっぷりの根菜と一緒に柔らかく煮込まれた肉は、見るからに食べ応えがありそうだった。


 どうやら腕を振るったのはさきほどの強面の男で、この宿は彼ら夫婦で切り盛りしているらしい。


「このようなものしかご用意できなくて。お口に合えばよいのですが」

「充分だわ。それに、とても美味しそう」


 笑みを零して女に伝えた言葉はサユの正直な感想だった。

 気が置けない夫婦の対応に緊張が緩和されてしまったのか。お腹は単純なもので、暖かくいい匂いのする食事をまえにした途端、即座に空腹を訴え始めた。


 もともと使精たち、とくに至天が口喧しいせいもあるが、サユは仕事中もきっちり食事をとるよう心がけていた。

 肝心なときに空腹で動けないのは情けない。万全の体調でいるよう努める。それがいま、サユのやるべき仕事だった。







 食事を残さず食べ終えたサユは、二階にある客室へと案内してもらった。

 ひとり用の寝台と、抽斗ひきだしのついた小さな収納箱しかない質素な部屋だったが、掃除は行き届いていて居心地は悪くなさそうだった。


 寝台に腰を下ろしたサユは、床に足を投げ出したまま仰向けに横になった。収納箱の上に置かれた燭台に灯る明かりがかすかに揺れる。おのずと目に映ったのは、梁が剥き出しの屋根裏だった。仄かに照らし出された屋根裏を眺めていると心淋うらさびしく感じ、サユは静かに瞼を閉じた。


 だが、胸の騒めきは簡単に消えない。いつもと同じ心積もりで仕事に当たろうと決めていたのに。胸中に燻り続けていた感情はそれを許してくれないようだ。その感情を糧に魄魔と戦い続けてきたサユには始めから無理だったのかもしれない。


 八年前。サユはあの夜が訪れるまで、いずれ自分も父のような精霊使になるのだと、ただ純粋に憧れだけで目標としていた。そこに精霊使として戦う現実を容赦なく教えてくれたのが、この村で起きた事件だった。


 サユはあの夜をいまでも鮮明に思い出す。

 いっこうに薄れず在り続ける、憎しみの感情とともに。







「サユ、行けますか?」


 眠れず、ただ目を閉じていただけだったサユは呼びかけにもすぐに反応する。上体を起こすと、室内に音なく降り立つ枝切の姿があった。


「動きがあったの?」

「はい、相手はふたり。いまは北の森に」


 ふと、枝切とは別の風精の気配を感じ、サユはなにもない空間を見上げる。そのさきから女の声が落ちてくる。


「失礼いたします」


 断りを入れ枝切の横に姿を現したのは、サハヤの使精、吹麗だった。


「スイ、確かめてきてくれたのね」


 声を硬くしたサユに吹麗が頷く。


「本件は、八年前と同じ魄魔の手によるものです」

「間違いないのね」

「はい。心してかかられますように」

「了解したわ。報せてくれてありがとう」


 サユが礼を口にすると、吹麗は頷くように頭を下げた。かと思えば、そのままの姿勢でふわりと空に溶け、呆気なく消えてしまった。


 サユの胸に不安がよぎる。


 八年前に魄魔と対峙した者のひとり、母には精霊使としての資質はなく、戦いにおいても無力に等しかった。だが、父は人間の世でも名の知れた名実相伴う実力の持ち主だった。叔母や叔父、それに兄も、けして弱かったわけではない。むしろ指折りの実力者たちだった。


 なのに、生き残ったのは兄のサハヤだけ。


 不意を衝かれたとは聞いている。叔母と叔父は待ち伏せに遭い致命傷を負ったのだと。兄もそのときに左足を失った。そこに駆けつけた父と母は、動けずにいた兄を庇い命を落とした。

 兄が命まで失わずに済んだのは、父の報いた一矢が退散を選択させるほどの傷を魄魔に負わせてくれたおかげだというが——。


 父たちが敵わなかった相手だというのに、自分ひとりで対処できるのか。

 腰に佩いたままだった短剣の柄に、その有無を確認するよう手で触れる。そのときにはすでに、まえだけを見据える緑の双眸からは迷いの色が消え失せていた。


 聖家当主がひとりで大丈夫だと判断したのだ。いままでその判断に誤りがあったことはない。なのに魄魔と対峙するまえから身を竦ませていたのでは仕事にならないではないか。サユはそう考えたのだ。


 それに、ここにはいま、自分しかいないのだから。


「行こう、枝切」


 夜空には端が少し欠けた月が昇り、鈍い光を地上に落としていた。

 もうすぐ、月が満ちる。





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