過去の記憶 3



「なにかの間違いだわ。皆、勘違いしているのよ。コウキだってきっとそう。トウゴ叔父さまなど、もう新しい依頼の話までなさっていたじゃない」


 いまにも現実に押し潰されそうな自分を励ますため、サユは力強く言葉を重ねていた。


 カロに連れられ自邸に帰っていくコウキを見送ったその直後。サユは部屋には戻らず、邸の裏手から続く森に足を踏み入れた。

 まだ魄魔がいるかもしれない、兄の派遣先へと行くために。

 だが、コウキの手が離れてから、喪失に対する不安は増すばかりだった。それでもサユは歩みを止めない。木々の隙間から差す月明かりに助けられ、道らしいみちのない森のなかを迷いなく進んでいく。


 すると前方から、地に落ちた葉をかさりと踏む音がする。ついで声が届く。


「足許も見ないと、転んでしまうよ」


 聞き心地のよい柔らかな声の主を、サユは木立の合間に確認する。

 立っていたのは二、三歳は年上に見える、華奢な体つきの少年だった。左腕には布で巻かれた縦長の荷。荷の丈は少年のかかとから肩口までと同程度はあるだろうか。その上部を肩に預けるように抱えていた。

 見た目の年齢以上に落ち着いた空気を纏う少年からは、風に属する力が感じ取れた。


「あなた……風精なの? わたしが怖くはないの?」


 訝しく問うたサユへと少年が歩み寄る。

 手の届く距離まで近づき立ち止まった少年は、サユの瞳を覗き込み、優しく微笑んだ。


「こんなに可愛いのに? 怖いだなんてどうして思えるの」


 少年の言動にサユは戸惑う。


「どうしてって——。わたしの力は強すぎるのでしょう? それなのに制御が上手くできなくて……。だから精霊は皆、わたしに近づくのを怖がるのに……」


 サユは後退り、少年から距離を置こうとした。しかしそれよりもさきに伸ばされた少年の右手が、サユの頬に軽く触れる。


「僕はそこらにいる精霊みたいに、君に力を奪われたくらいで消えたりしないよ。ほら、平気だろう?」


 頬に触れた手は温かく、同時に、少年の身内に秘められた力の強大さを肌で感じる。

 そもそも等身大の人の姿を取ることが可能な精霊は、それだけで力があると判断できるのだが。少年にはひとつ不可解な点があった。


「……真名まなが見えない。こんなことは初めてだわ」


 自分には見えるはずなのに。精霊の本質を表す真名が見えず、サユは首を傾げる。

 真名は、精霊と契約しその力を行使するうえでは必要不可欠なもの。それが見えないのは、自分には扱いきれないほどの力を少年が有しているということなのだろうか。

 初めて出会った希有な存在に戸惑っていると、少年が口を開いた。


「君、サユだよね? イスズとセンリの娘の」


 予期せぬ問いに、サユは目をみはる。


「知っているの? 父さまと母さまのこと。ねぇ教えて! ふたりとも本当は無事なのでしょう? だって父さまは使族でも並びなき精霊の使い手なのよ。魄魔になど負けるはずがないわ!」


 切なる訴えに、少年は考え込むように沈黙するも、やがておもむろに話し始めた。


「イスズとセンリには、もう会えないよ」

「嘘つき!」


 サユは即座に少年を否定し、ふたたび目的の場所に向かって歩き出した。

 間を置かず少年も一歩を踏み出す。


「どこへ行く気だい?」

涙花るいかの泉よ。自分の目で真実を確かめるの」

「言っただろう、会えないって。ふたりはもうどこにもいない。事実だよ、僕の目のまえで命を絶たれたんだから」


 サユは立ち止まり、少年を振り返っていた。


「見て……いたの?」


 サユの視線を受け止め、少年が頷く。冷静で、悼む様子を微塵も感じさせない少年の反応に、サユの心は暗く沈んでいく。

 精霊は使族の助けとなるために存在するのではなかったのか——。それなのにどうして。


「どうして、そばにいながら助けてくれなかったのっ!?」


 怒りをぶつけるべき相手ではないと判っていても、サユは叫ばずにいられなかった。

 それでもなお、少年は静かに応える。


「手出しを許されなかったからだよ。センリが僕に頼んだのは、君に伝言を届ける役目だけ。それが唯一、センリが願ったことだった」


 淡々と語られる言葉はどうしても信用に足るとは思えず、そこに嘘がないか見逃さぬよう、サユは少年を見据える。だが、疑いの眼差しから目を逸らすような真似を少年がすることはなかった。


「いまから伝えるから、よく聞いて」


 諭すような少年の口調に、サユは固唾を呑んで黙り込む。


「センリはこう言っていたよ。君が精霊使せいれいしの道を選ぶのならば、イスズの教えを心に留め置き、指針とするようにと。それがセンリの遺した君への言葉だよ」

「……たった、それだけ?」

「それだけだ」


 まだなにかあるのではと探ったサユに返ってきた答えは素っ気ないものだった。


「あと、これは確実に君に渡すよう頼まれた。イスズの剣だよ」

「見せて!」


 差し出された荷をサユは奪うように手にする。だが、その重さに思わず取り落としそうになり、結果、荷はふたたび少年の手によって支えられていた。だから今度は素直に少年に手伝ってもらい、荷を地に置き、布を取って中身を確認する。


 出てきたのは鞘に収められた諸刃の大剣。柄頭には大粒の緑玉があしらわれ、それを飾る金には繊細な細工が施されていた。なにより触れて感じた、剣が内包する力は特別なもので——。

 正真正銘これは父の剣。使い手を替え受け継がれてきた、浄罪の剣と呼ばれるものだった。


済覇さいは……。本当、なのね」


 サユは両膝をついて座り込み、剣の通称を呟いた。それは否定し続けていた両親の死を肯定してしまった瞬間でもあった。


「じゃあ、確かに渡したから」


 用は済んだとばかりに踵を返そうとした少年に、サユは慌てて立ち上がる。


「待って! あなたなら、わたしと契約できるわよねっ?」


 気づけば契約を口実に、少年を呼び止めていた。いままで避けられ続けてきた経験から、自由な風精をこの場に留め置く方法をほかに思いつかなかったのだ。

 もっと詳しく父母の話を聞きたかった。兄の安否も彼なら知っているかもしれない。そう思ったのだ。ただ、それだけだったのに。素直にそう伝えればよかったのか——。


「僕の真名。君には見えないんだろう?」


 最初に見せた微笑みが嘘のような冷ややかな色を瞳に浮かべ、少年はサユを見やった。

 真名が見えない者には契約を口にする資格すらない。とでも言いたいのか。

 サユは自身の未熟さも忘れ腹立ちを覚える。その感情に押されるまま、冷たい瞳にも怯まず真正面から少年を睨みつけた。


「あなたの真名を、わたしに教えて」

「僕が欲しいの?」

「欲しいわ。あなた、強いもの」


 サユは即答し、言いきった。


「それで僕を——、力を手に入れてどうするの? 魄魔に復讐でもするのかい? 君はセンリの遺言の意味を解していないようだね。そんな戦いかた、君のご両親が望んだりするはずはないのに——。けれど、それ以前にだ。君には魄魔と戦う覚悟があるのかい?」


 少年を睨み、じっと聞いていたサユの目に涙が滲む。


 少年が真名を教えてくれないことが悔しいのか。父母を亡くした悲しみが、その事実を受け入れたいまになって込み上げてきたのか。理由も判らないまま、サユは必死になって涙をこらえようとしていた。

 ただ、父母の死を克明にする苦言ばかり、突き放すように並べ立てる少年のまえで涙を見せたくなかったのは確かだ。

 それなのに。


 少年が困惑の表情を見せたと思ったつぎの瞬間。サユは少年の胸に抱き寄せられていた。その細腕からは想像できない、息が詰まるほどの力強さで。


「……ごめん、僕の言葉が過ぎた。だからそんな顔をしないで。いまはイスズとセンリの穏やかな眠りを、一緒に祈ろう」


 耳許で囁かれた台詞は、少年が少年自身に言い聞かせているようにも感じ——。緩まない拘束の苦しさに耐えられず、サユは少年に縋りつく。

 そのまませきを切ったように声を上げ、泣いていた。





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