希求の代償 2



「夏霞は……、呼べないのよね」


 雨に濡れ、肌に張りつく上衣の袖を抓んで引っ張りながら、サユは呟いた。そこに視線を感じ、つられて顔を向ける。すると見上げる位置に群青の瞳があった。


「——なに? どうか……したの?」


 間口の狭い玄関。思ったより近い位置にいたファイスに、サユは少なからず動揺していた。だからすぐにでも距離を置きたかったのだが。半歩足を引いただけで背中は壁へとぶつかってしまう。扉が開け放たれたままの入口へと、壁伝いに移動しようと試みるも、これもまた、さりげなく壁に突かれたファイスの片腕から邪魔をされる。


「この扉を閉じるまえに訊いておくよ。ここがどういう場所なのか、君は勿論、理解したうえでついてきたんだよね」

「……ええ。そうよ」

「いいかい? 僕は精霊じゃない」

「だったら、どうだというの?」


 ファイスは焦れたように、もう片方の腕も壁に突いた。結果、左右をファイスの腕に塞がれ、サユは完全に逃げ場を失う。

 正面には月も凍える夜の瞳。触れもせず、体を芯から凍りつかせ、自由を奪う。


「その無防備な瞳を、だれかれ構わず見せているのかと考えるだけで、誰の目にも触れないよう、君を永遠に閉じ込めておきたくなるよ」

「なにを……言っているの?」

「君は少しも解っていない。そう忠告しているんだよ」


 刹那、サユは喉に異変を感じる。


「————っ!」


 口を開いたが、呻き声すら漏れなかった。


「精霊のいないこの場所では、君は力のない人間の少女も同然。だけど僕は、なんの制約もなしに魔力が使える。それがどういうことなのか——。もう、解ったよね」


 唐突に拘束から解放されたサユは、壁を背に、ずるずると板張りの床に座り込んだ。


「……ってる。ちゃんと解っていて、私はここにいるのに——」


 なぜ、震えているのか。そんなサユを、ファイスは無表情に見下ろしていた。


「君は雨が上がるまでここにいるといい。家のものは好きに使って。それから帰りは、裏にもうひとつ道があるから」


 一貫して穏やかな口調だった。けれどサユは座り込んだまま、ファイスの姿が門のさきへと消えるまで、身動きひとつできなかった。

 室内に入ってくるのは優しい雨音だけ。それがかえって静寂をもたらす。ただひとりこの世界に取り残されたように感じ、サユは自身を両腕で抱き締めていた。


 そしてあることに気づく。


 着ている服がすっかり乾いていた。頭に手を伸ばせば、髪まで乾いていた。肌に張りついた服が乾くほどの時間は過ぎていないのに。誰の仕業なのか、思い当たる人物はただひとり。本当に彼は、なにを考えているのか。


「まったく、訳が解らないわ」


 サユが零した安堵混じりの溜息には、ファイスに対する不満がおおいに含まれていた。







 碧天都に帰るのも気が重かったサユは、所在なく座った暖炉まえの長椅子でいつのまにか眠ってしまっていた。

 父母の名残に触れ、初めは感慨に耽ってもいたが、思いのほか居心地がよかったのだ。目が覚めると陽はとうに暮れ、雨はやんだようだが灯火のない部屋は暗かった。


 さすがに夜が明けるまえには帰らなければと、重い腰を上げ、ファイスに教えられたとおり裏口から出たサユだったが。森の小道を進み辿り着いたのは、涙花の泉ではなかった。


 ここにも雨が降ったのか、水気を含んだ薄闇のなか。騙されたような面持ちで周囲を見渡す。視線のさきには、いつも優しく迎え入れてくれる、見慣れた森が広がっていた。


 精霊の息吹に満ちたこの場所は、間違うはずもなく古森。だが、月待の家を母が創ったというのなら、道が古森に繋がっていても不思議ではない。むしろこちらが正規の道だったのかもしれない。


 しかもここは八年前、あの少年と出逢った場所ではないか。


「風精じゃ、なかったのよね……」


 この期に及んで認めるのを躊躇う自分に嫌気が差す。

 その事実を受け止めるためにも、今度こそ、力尽くでも、八年前の話と父母との関係を彼から聞かなければ。サユはそう心に決めた。





   *****





 それは、月待の家から聖家邸へと戻ってすぐのことだった。


「いま帰ったのか?」

「……叔父さま」


 本棟の玄関広間で、サユはトウゴと出くわしていた。顔を合わせるのは、リシュウの一件で抱いたわだかまりを吐き出して以来だが。


「ちょうどいい。お前に話がある」


 トウゴの険しい表情に嫌な予感を覚える。


 玄関広間の奥。トウゴは人目をはばかってか、長机が中央に据えられた、多目的に使われる部屋へとサユを促す。扉を閉めたところで、トウゴはようやく話を切り出した。


「話というのはリシュウの件だ」

「なにか、新しい情報でも?」


 まさかと思いつつ、サユは訊ねた。


「確証もなくいままで黙っていたが……。八年前、あの泉には、お前が討ち果たした魄魔とは別に、ふたりの魄魔がいた可能性がある」


 そのふたりの魄魔が誰なのか。瞬時に思い至ったサユは血の気が引くのを感じた。


「兄のイスズから話だけは聞いていたのだ。行き場のない魄魔の姉弟を匿っていると。その者たちに、恩を仇で返されたのかもしれん」

「そうだという、確証が得られたのですか?」

「いや、まだだ。兄が信じた相手が裏切ったなどと考えたくないが——。ギニエス・ランドルフと、ファイス・ランドルフ。このふたりを知っているな?」

「彼らが……そうだと?」


 震えそうになる声を必死に抑え、サユはなんとか言葉を返した。


「念のため、リシュウの村民全員を洗わせた。官吏も例外なくだ。その報告から得た推論でしかないが——。彼らがランドルフ家の養子となったのは八年前。これが偶然だと思うか? さらに昨年オウトウで起きた事件だ。発端となった彼が魄魔だったならどうだ。あれだけのことを引き起こしたのにも頷けるだろう」


 熱を感じさせるトウゴの口振りは確信に満ちていた。


 事実、ファイスは魔力を秘めているし、八年前の事件時にも涙花の泉にいたに違いない。けれどそれだけで、父たちに手を下したと決めつけるのは早計ではないか。

 はたとサユは我に返る。言い繕うことばかり考えていた自分に気づいて戸惑う。だが、これだけは明確にしておかなければと口を開く。


「ランドルフ家の姉弟が魄魔で、真に父さまたちの命を奪った相手だというのなら、兄さまが見ているはずではありませんか?」

「私もにわかには信じがたかったが、サハヤを問い詰めたら、いまごろになって真実を告白したのだ」

「……真実?」

「ああ。サハヤは見ていなかった。兄たち四人の命が絶たれた瞬間を——。片足をもがれ、気を失い、意識を取り戻したのはすべてが終わったあとだったというではないか」


 それがどういう意味を持つのか、トウゴはサユに考える間を与えなかった。


「そこでお前に頼みがある。ファイス・ランドルフに会いに行って欲しい。面識のあるお前が一番の適任者だからな」

「……私に、彼の正体を見極めろと?」


 そうだ。と頷き、トウゴは懐から小さな石を取り出した。


「これは魄魔を捕らえるために創り出した特別な檻だ。彼がもし、魄魔であるならば——。どうするべきか、お前なら解るな」


 トウゴから手渡されたのは、緑玉に精霊一体を閉じ込めた、捕縛の封石だった。


「安心しろ。サハヤの了承も得ている。今回はお前ひとりを行かせはしない」


 本来なら頼もしいはずの言葉に、サユは安堵するどころか、退路を断たれた気がした。





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