混迷の牢獄 1



 涙花の泉に満ちる春めく陽気ですら、サユの心に安寧をもたらしてくれないようだ。

 真実を切望しながらも、知ることを恐れるという相反する想いを抱え、サユはファイスを待っていた。


 なぜ、兄は嘘をついたのか。ここへと来るまえに、サユはサハヤを問いただしたかった。けれどサハヤは多忙を理由に顔すら見せてくれず、ついにはトウゴが指定した刻限を迎えていた。すべては真実から目を背け、逃げていた報いなのかもしれない。だからこそ現在、逃げ場のない状況に立たされているのだ。


 いっそこのまま彼が来なければいい。そう願い始めたそのとき。こちらに向かって歩いてくるファイスの姿が目に映った。

 合図をするまでは手出し無用と頼んではいたが。トウゴを始め、聖家の者数名が木立の陰に身を潜めているというのに。


「また、眉間に皺。もしかして昨日のことを怒っているのかい? わざわざナツカを使いに寄越したりして」


 気づいていないのか。目のまえに立ったファイスには、警戒して身構えるような素振りが微塵もなかった。ゆえに騙し討ちでしかないこの状況を包み隠さず明かしてしまいたくなる。だが、彼が潔白なら事は穏便に過ぎる。それにいまさら退けはしない。最終的に彼を呼び出すと決めたのは、自分なのだから。


「今日こそ、八年前の話を聞こうと思って」

「……いいけど。どこから話そうか」


 怪訝な顔を見せたファイスだが、応じてくれるようだ。

 ならばとサユは話を進める。


「父たちの命を奪ったのは、せんだって私が討った男女の魄魔で間違いないのよね」


 もっとも確認したかった部分だし、一刻も早くはっきりさせようと核心に触れた。認識の有無は別として、この時点で、少なからずサユがファイスを信用していたからこそできた質問だったのだが。


 ファイスからは途端に表情が消えていた。


「ここのところ、同じ風精の気配が村にとどまっていると思っていたら——。こそこそと嗅ぎ回っていたのは、君の親族だったのか」


 冷めた群青の瞳を向けられ、サユは空気が張り詰めるのを感じた。


「黙っているということは、そうだと認めるんだね」

「ええ、認めるわ」

「正直だね。悔やむような顔をして。君が悪く思う必要はないのに——。でも、それならさきに少しだけ、僕の話をしようか」


 泉を囲うトウゴたちの存在まで悟られたかもしれない。そう考えたが、サユには見極めがつかなかった。目を伏せたファイスへと視線を注ぎ、耳を傾ける。


「砂界から出てきたばかりのころだ。僕たち姉弟がイスズに拾われたのは。月待の家で引き合わされたセンリも、行き場がないと縋った僕たちの言葉をなにひとつ疑わず、親身になって世話を焼いてくれてね」


 表情もなく静かに語るファイスに、サユの胸がざわざわと騒ぎ始める。


「そこで緑界についての知識が乏しかった僕たちは、ふたりを利用しようと考えたんだ」

「……利用?」

「そうだよ。実際、ふたりは期待以上に多くの知識と技を教えてくれたよ。とくに、センリはね」


 そう言うとファイスは、片手で無造作に前髪を掻き上げた。


「これも、そのひとつだよ」


 不意の行動をサユが制止する間はなかった。変わりゆく様に目を奪われ、立ち尽くすのみで——。ファイスの指の合間から、仄かな月光が零れ落ちる。それは栗色から白金へと瞬くまに色を変えた、彼の髪だった。


 見せつけるようなファイスの行動に、サユは過去を懐かしむまえに気圧される。会話は湧水の音に紛れても、見張りの目は誤魔化せない。彼の正体は確実にトウゴに知られただろう。けれどサユは、ファイスにすべてをぶちまけそうになるのを必死で抑える。


 話はまだ、終わっていなかったからだ。


「リシュウで事件が起きたのは、月待の家に隠れ住むのも限界だと感じ始めていた矢先のことだったよ。……そう。ここからが、君の知りたがっていた肝要な部分だ」


 ファイスの視線がサユの目をまっすぐに捉えた。ゆえにこれから語られるのは真実なのだと、無条件でサユにそう思わせる。


「まず、森の動物を晒し、村民に手を下したのは、君が斃した魄魔の仕業で間違いないよ。だけど使族四人を手にかけ、君の兄ぎみから足を奪ったのは彼らではない」


 やはり、兄は真実を隠していたのか。告げられた内容にサユは顔色を失う。


「……じゃあ……誰が——」


 陽光に照らされながらも、群青の瞳が色を濃くしたように見えた。


「それも、説明しないと判らないのかい?」

「……あなたたちじゃ、ないのでしょう?」


 肯定か否か。ファイスが優しく微笑む。


「そのころには緑界で生きる術も充分に得ていたし、あれはまさしく絶好の機会だったよ。君の両親との、不要なしがらみを断つにはね」


 聞かされた言葉の意味を、サユは懸命に理解しようとしていた。けれど導き出される答えは、ただひとつ以外どうしても考えつかない。


「それは父たちの命を奪ったことを認めると——。あなたはそう言っているの? 不要になったからという、ただ、それだけの理由で?」

「最後まで利用価値はあったよ。聖家の体裁を取り繕うためか、僕たちに都合よく、君の兄ぎみは真実を隠蔽してくれたからね」

「八年前の事件のどこに、隠蔽しなければならないような真相があったというの?」

「あれはイスズとセンリが魄魔の子——つまりは僕たち姉弟を匿ったがゆえに起きた悲劇だから。それをそのまま公にするわけにはいかないと、君の兄ぎみは考えたんじゃないかな。おかげで僕たち姉弟には追手がかからず、今日まで生き延びてこられたってわけだよ」


 どこまでも穏やかなファイスの口調が、かえってサユの心を逆撫でし、なんとか保っていた平静を奪っていく。


「だとしたらどうして……、遺言と剣を、わざわざ私に届けたりしたの。母の遺言も、すべて嘘だったのっ!?」


 詰め寄ったサユに、ファイスは悲しげに目を伏せた。


「君は違うんだね……。イスズとセンリは、最期まで僕たち姉弟を信じてくれたのに……」


 そのとき。くくっという、うちに籠もった笑声をサユは確かに聞いた。

 そのわらいを噛み殺し、同じ口から続けて吐かれた言葉が、サユの抱えた憤懣ふんまんかせを壊す。


「だからだろうけど、イスズとセンリの最期はとても簡単で、呆気なかったよ。善良すぎるのも問題だね。だって、簡単に壊れてしまっては存分にたのしめないだろう?」


 サユの頬へとファイスが右手を伸ばす。


「君も、そう思わないかい?」

「やめて」


 手が触れる寸前、サユは身を退いて離れる。

 拒まれたファイスは肩を竦め、溜息をついてみせた。


「口実なんてなんでもよかった。肉親を亡くしたと知ったときの君の顔が見られれば——。呆気なく終わった至福の時間への未練も、それで少しは断ち切れるかと思ったんだ」

「だから……私に会いに来たの?」

「そうだよ。精霊に扮するなんて、なかなかの演出だっただろう?」


 八年前のあのとき。いまのように彼は見えないところで嗤っていたのかもしれない。同じ哀しみを抱えていると感じたのに。気を許し涙まで流してしまった自分に、いまさらながら悔しさが込み上げる。


 彼の本質はやはり魄魔でしかないのだろう。すべてが偽りだったのだ。

 火勢を得んとする、いまもなお身内に燻るどす黒い感情に目眩めまいを覚える。


 柔らかな空の青。大木が広げる常磐の緑。さらには清涼な水の音までも霞がかかったように遠退き、足許から崩れ、体ごと落ちていくような錯覚に囚われる。なのに。白金の髪と群青の瞳だけは際立ち、八年前に見た少年の姿をいとも簡単に塗り潰していく。悼む心を分かち合ったと思っていた存在は不運をもたらす象徴へと変わり果て、ファイスを睨む緑の双眸には悲憤が宿る。


「……お願いだから。その姿をこれ以上、私のまえに晒さないで」


 心を侵食する憎悪と呼ぶに相応しいその感情は、呼応するようにサユの脳裏にひとつの真名を浮き上がらせた。


 これが誰の真名なのか。信じ、生きる指針としてきた母の遺言を根底から壊されたサユは、目を瞑り顔を背ける。しかし、手を伸ばしたのは仇討つための短剣ではなかった。無意識に上衣の隠しを探った指先は緑玉の在処を確認していた。そこに逃げ道を見いだしてしまったサユは、脳裏に居座る真名ごと振り払おうと緑玉を握り締める。


 そしてその真名を口にした。


冰月ひづきっ!」


 絞り出した声はサユの意に反し、涙花の泉に切なく響いた。





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