希求の代償 1
厚く垂れ籠めた灰色の雲が、午後の陽射しを遮り、いちだんとサユの気分を滅入らせる。
リシュウの事件は八年越しの解決をみたものの、時は心を置き去りにひと月が流れていた。仕事に追われ、兄と話をする時間も必要最低限しか持てず——。
いや、違うか。と、サユは自嘲する。
時間など、つくろうと思えばいくらでもつくれる。捕縛の封石については、案外納得のいく理由があるかもしれない。そう思い、話を切り出そうとしても、結局なにを聞かされようと納得できないと、サユ自身解っていた。
単純に怖かったのだ。いままで頼りとしてきた兄を見失うことが。母の出自にしてもそう。兄は結婚する以前からその事実を承知していたと、トウネからは教えられた。伝える必要はないと考えたうえでの対応なら、ほかにも隠し事があるのではと疑ってしまう。
最近、逃げてばかりだ。そう自覚したサユの足は、おのずと涙花の泉へ向いていた。兄に対する不信感だけが理由ではない。忘れようとしても、月紅草の紅い花は脳裏に焼きついたまま、時が経つほど鮮明に思い出されるのだ。
それに、期待してもいた。彼に、会えるのではないかと。
だが、会ってどうする。サユは自己嫌悪に陥る。泉のほとり、大木の根許に座っていたサユは、抱えた膝に顔をうずめた。早々に立ち去らなければと、自身を急かしながらも動けなかった。
そこに聞こえてきたのは、穏やかな湧水の音に溶け込むような囁きで。
「また、泣いているのかと思ったよ」
一瞬、幻聴かと疑う。しかし幻聴ではなかった。顔を上げると、二、三歩離れた位置にファイスがいた。
サユは慌てて立ち上がる。
「人間の振りをするのなら、足音くらいさせてよね」
「もし君が泣いていたら、見てみぬ振りをして帰ろうと思っていたからね。ほら、それで一度、君を怒らせてしまっただろう?」
どちらにしろ怒らせてしまったようだけど。と、罪悪感の欠片もなく口にしたファイスに、サユは困惑ぎみに視線を送る。
涙を零してしまうのも、時間の問題だったからで。
「……ここには、よく来るの?」
ばつが悪く話題を替えたサユに、ファイスはなぜか、躊躇いを含んだ笑みを見せた。
「君が来ると、精霊が賑やかに騒ぐからね」
「精霊の声が、聞こえるの?」
「言葉の意味までは理解できないけどね。それに、存在を感じるだけで姿は見えないんだ」
「それでも、あなたは精霊の息吹を力として使える。そうなのでしょう?」
「そうだね。精霊の気まぐれもいつまで続くのか、いまだに力を貸してもらえているよ」
「精霊に愛されているのね。それに、真家の血を受け継いでいるという証にもなるわ」
それは桜桃城の庭園で、鉄柵の錠を閉じてみせた彼の力からも疑いようがない。契約を必要とせず、緑界に満ちる精霊の息吹を我がものとし揮える能力は、真家の血を引く者にしか与えられない。
「そのうえあなたは……」
魄魔の血も受け継いでいる。
いままさに思い悩んでいる自身の境遇と重ねてしまい、サユの声は弱々しく掠れた。
「なにかあったのかい?」
優しく問われ、胸に抱え込んでいた感情が一気に溢れ出しそうになる。
いまにも泣きそうな顔をしている自覚がサユにはあった。口を開いても、ましてや俯こうものならすぐにでも、涙が零れ落ちそうで。サユはファイスを見つめたまま、動けずにいた。
すると、ファイスが困惑の表情を浮かべる。
「そんな顔を……しないでくれ。君には、笑顔が一番似合うのに」
どう対処していいか判らない。そのような不器用さを感じさせたファイスに、サユはあの少年の面影を見た気がした。
「……ねぇ。あなたが、あのときの風精なの?」
一瞬の沈黙がとても長い時間に感じられた。だが、答えはすでに出ている。群青の双眸は静かで、揺らぎがない。
「そうだよ。センリの遺言と、イスズの剣を君に届けたのは、僕だ」
ひやりと頬を打つ感触に空を仰ぐ。
まるで、ふたりの姿を
*****
「ここにも、雨は降るのね」
サユはファイスのうしろについて歩きながら、雨水を弾く庭木の緑を眺め、感心していた。
彼に連れられやってきたのは、あの不思議な空間にぽつんと存在する、緑と花に囲まれた一軒家だった。
「月待の家。イスズとセンリはこの場所をそう呼んでいたよ。面白いよね。泉周辺の天候と同期するようになっているんだ」
ファイスが落とした予想外の言葉に、サユは驚く。
「あなたが創った空間ではないの?」
「手を加えたところはあるけど、基礎を創ったのは僕じゃない。センリだよ」
「母が? 本当なの?」
「最初は子供のころに遊びで創った、なにもない空間だったらしいけど。快適に過ごせる場を追及するようになった結果、家まで建ててしまったそうだよ。イスズと協力してね」
「家まで建てる必要があったの?」
「イスズとセンリは長いあいだ、婚姻を認めてもらえなかったらしいから。だから許されるまで、ふたりにとって、この家こそが帰る場所だったんじゃないかな」
反対の理由は、母が月守家の者だったから、だろうか。兄はそれを知りながら隠していた。そこに考えが及ぶと同時に、サユの瞳に翳りが差す。
「初めて聞く話ばかりだわ」
「僕が知っていることでいいのなら、余さず教えてあげるよ」
そう言って優しく微笑んだファイスに、サユは胸が温かくなるのを感じる。彼の言葉なら信じられるような気がしたのだ。
ふと、馴染みの気配に触れ、サユは足を止める。
「精霊の息吹を感じる……」
「ああ、これだよ。これと同じものが、ここの土には埋めてある」
ほら。と、ファイスがサユに手渡したのは蜂蜜色の小さな石、琥珀だった。
「閉道の封石と似た力が込められているようだけれど……、少し違うわね」
「うん。空間を安定させる効果はあるけど、道を閉じたりはできない。その代わり、植物を育てる力が込めてある」
「このまえは気づかなかったわ」
「そうだろうね。精霊の力が宿った封石は全部、隠しておいたから。危うく植物を枯らしてしまいそうになったのには、さすがに焦ったけど」
焦るファイスの姿など想像もできないし、なぜ、そこまでする必要があったのか。訊ねようとしたサユだが、当の本人からあっさりと遮られる。
「続きは家に入ってからにしよう。このままだと体が冷えきってしまう」
その提案に、サユはもっともだと頷く。とめどなく疑問が湧いてくる状況にあるからこそ、サユが反対の意見を口にすることはなかった。
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