信頼の喪失 1



 栄花祭が終わり、気づけばもう、数日が経過しているのに。リシュウから始まった一連の出来事は、心の片隅に、すすのようにこびりついたままだった。

 それに気づかない振りをし、サユは日々をやり過ごそうとしていた。


 そうでなくとも自由に使える時間を奪う、早急な対処が求められる依頼は頻繁に舞い込む。つい先刻も、依頼を請けたばかりで。枝切を失い、単独での仕事を任せてもらえなくなったサユは、ふたつ年上の従姉と行動をともにすることになっていた。


 依頼内容は、夜を待っての月魄退治だと聞いている。

 だが、事態が急変でもしたのか。落ち合う場所と決めていた聖堂に着いたそばから、精霊が騒めくのを感じる。不安を掻き立てられたサユは、足早に外へ出て周囲を見渡した。


 郊外にあるこの聖堂は規模も小さく、正門を見やっても閑散としている。そのうえ森を背に建てられており、晴れ渡った空とは対照的に、敷地内にまで木々が暗い影を落としていた。だが、迷わず聖堂の裏へと足を向けたサユは、まもなく見知った女の姿を見つける。待ち合わせの相手、従姉のトウネだった。


 彼女はトウゴの娘で、サハヤの妻でもあるのだが。毅然として立つトウネのまえには、ひざまずく一体の精霊も見受けられた。幼さの残る少女の姿をした風精で、肩に落ちた銀色の髪が枝切を彷彿とさせる。


 懲りもせず感傷に浸りそうになったサユの耳に、張りのあるトウネの声が届く。


羽衣うい。全霊を捧げ、私の力となりなさい」


 トウネの台詞から、風精と契約を交わしているのだと思ったが、すぐに様子が違うと気づく。トウネの顔を見上げる風精の表情が、苦痛に歪んでいる。


「強情ね。羽衣、真名をもって命ずる。抵抗は許さないわ」

「……はぁっ……!」


 風精は項垂うなだれ、息を漏らすように応じた。風精がトウネに屈した瞬間だった。途端、風精は風に戻り、砂塵を巻き上げ姿を消してしまう。

 サユはすかさず声をかけようとしたが、トウネのほうがさきに振り向いた。


「やっと来たのね。待ちくたびれたわ」


 落ち着いた所作でトウネが近づいてくる。サユはその右手へと視線を注ぐ。握られたトウネの手からは、羽衣の気配が感じ取れた。


「……姉さま。その手にされている石は、なんなのですか?」

「この石? 風精の力を込めた、ただの封石よ」


 憤りを覚ていたサユへと、トウネが躊躇いもせず手を差し出す。その手のひらの上で、ひと粒の緑玉が転がる。


「いいえ、姉さま。違いますよね? ただの封石ではない。風精一体を閉じ込めた封石、ですよね? 彼女を、どうする気ですか?」

「月魄や魄魔を捕らえる檻にするの。捕縛のための封石だけれど、精霊によっては強力な武器としても利用できるのよ」


 そこでひと呼吸置いたトウネの顔に、嘲りの笑みが浮かぶ。


「ただ、使精を持つのにも苦労するようなあなたには、到底真似できない活用法よね」


 普段から遠慮のないトウネだが、貶める物言いをされたのは初めてだった。それどころか、言葉のはしばしに悪意すら感じた。

 責めるような口調が気に障ったのだろうか。と、サユは違和感を覚えながらも、見過ごす理由にはならないと言葉を返す。


「できたとしても私はやらない。やってはいけない行為だと、私は思います」

「使精が一体いなくなったくらいで補佐に回されるようなあなたが、私に意見する気?」


 勝気に応じたトウネに、サユは押し黙る。


 自身の未熟さから戦闘には使えない夏霞。燎永は短期決戦向きで敵を選ぶうえ、済覇以外の剣では燎永の力に耐えきれず折れてしまう。至天はといえば彼が一番厄介で、「俺を宿せる武器は存在しねぇから、そうそうに諦めろ」と当の本人から断言されていた。


 トウネの言葉どおり枝切を失った穴は大きく、そこに反論する余地はない。だが、それとこれとでは話が別だ。精霊一体を犠牲にした封石など、使わせるわけにいかない。


「彼女を解放してください」


 真剣に頼んだサユに、トウネが呆れる。


「そろそろ、そういうのはやめにしたら? 精霊を対等に扱うなんて、自ら弱点をつくるようなものよ。おおかたシナキも、その思慮分別の浅さが原因で失ったのではないの?」

「シナキについては、返す言葉もないです。ですが、精霊に対する考えかたを改めるつもりはありません。応じてくれないのでしたら——」


 自分にとって精霊がどのような存在であるのか。卑怯かもしれないが、もっとも効果的に顕示できる方法をサユは選ぶ。


「至天、いますぐ来て」


 わずかだが、トウネに動揺が走る。彼女の目は、サユより斜め後方に向けられていた。その視線のさきに、長身の青年が立ち上がる。


「なんだ、なにごとかと思えば、トウネじゃねえか。今度の仕事はトウネと組むのか?」


 姿を現すなり、至天は物珍しそうな顔をしてみせた。


「姉さまから封石を受け取って」

「封石?」


 ああ。と、瞬時にすべてを悟り、主の意図を察した至天はトウネの正面に立った。

 そこに機先を制してトウネが口を開く。


「羽衣は私に屈したのよ。聖家に与えられた真名を読む力はこうして使うものでしょう。そしていまも変わらず、私のなかに在り続けている。つまりは神に許された行為なのではないの?」


 回答を迫られた至天は、木々と聖堂に切り取られた青空を億劫そうに振り仰いだ。


「俺は神の意向なんて知らねぇし、精霊をどう扱おうが、それはお前の自由だ。けどよ」


 風もなく晴れ渡った日の大地のように、穏やかな至天の双眸がトウネに向けられる。


「悪いがうちの姫はそれが許せねぇんだと。こいつが信念を曲げねぇ頑固者なのはお前も知ってんだろ。だから潔く、それを渡しちまえ」


 ほら。と手のひらを見せ、至天が封石を要求すると、トウネは憎々しさも顕わにサユを睨んだ。


「なによ。あなたもサハヤも、裏切りの血を継ぐ者のくせに!」


 それはあまりにも唐突すぎて。理解するには時間を要し、サユは視線を彷徨わせる。突きつけられた罵倒の内容は簡単に受け入れられず、サユの視線は最終的に至天へと行き着いた。


「……どういう……こと?」


 問いの言葉が零れ落ちる。けれど、弱々しくサユが呟いても、至天は不機嫌な顔をトウネに向けたままだった。

 そこにトウネが噛み砕いた言葉をくれる。


「あなたたちの母親——センリはね、月守家の出だったのよ」


 混乱から抜け出せないサユに向かい、トウネは吐き捨てるように続ける。


「そもそも裏切りの血を継ぐ子を産むなど、想像するのもおぞましいのに……。知っていれば、サハヤとの結婚など考えなかったわ!」


 サハヤとトウネは、互いを尊重し合う似合いの夫婦で。問題などないと思っていたのに。トウネの訴えは嫌悪というより悲嘆に満ちていて。より重く、サユに伸しかかった。


 母には精霊使の資質がなかったと、聞いてはいたが。母の出自が月守家だというのなら、精霊の姿を見たり、声を聞く能力すら皆無だったのだろうか。


「ですが……。私も兄さまも精霊使の力を持っていますし、真名も読めます。それに——」


 月守家も同じ、使族ではないか。そう思えるのに。トウネをまえに、サユは喉を詰まらせ言葉にできなかった。


「信じられないのなら、捕縛の封石をどう使うのかも含め、サハヤに訊いてみるといいわ」


 そう言うとトウネは、サユの手のひらに封石を押しつけた。





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