虚空の満月 2



 夜空には満月が昇ろうとしていた。時折、流れる雲がその姿を隠したが、月光を余さず遮ることはできず、進むさきは朧々ろうろうと照らされている。


 涙花の泉への道すがら、肩を並べて歩くサユとファイスの後方。振り返れば、二、三歩の距離を保ち、ついてくる至天の姿もあった。その眉間には深い皺が刻まれている。しかも心配してしまうほど静かだった。


 クアジの家を出て、サユはすぐに至天を呼び出した。最初から泉へは同行させるつもりでいたし、呼ばなければなにかにつけ蒸し返す性格だと知ってもいたから。なのにいざ呼び出してみれば、ファイスとともにいたことにも不満ひとつ漏らさず、サユは拍子抜けしてしまった。


 機嫌が悪いことだけは確かな至天が、なぜ黙ったままでいるのか。サユは首を傾げながらも、八年前の事件に関する情報を順序立てて教えてくれたファイスへと質問を続けていた。その内容はというと、事件の概要以外、噂に尾ひれのついたような話ばかりで取り立てて新しい情報はなかったのだが。


「もうひとつ、訊いてもいい? 使族がもらっている報酬額についてなのだけれど」

「報酬についてなら、僕より君のほうが詳しいんじゃないのかい?」

「兄に訊ねたことはあるの。でも、私が気にする必要はないと言われて……。相応の金額をもらっているとだけ、教えてくれたわ」

「知らずに働いていたんだね」

「報酬の重みも知らず、愚かだとでも言いたいのでしょう」

「べつに、君を責めているわけではないよ」


 サユを宥める言葉を口にして、ファイスはなにやら考え込む。


 さきほどからファイスは、サユの質問に厭な顔ひとつせず丁寧に答えを出してくれる。クアジの家でも、もっと冷静に話を聞くべきだったとサユが考えを改めるほどに。

 報酬についての質問も、理解しやすい返答を用意してくれる。


「そうだな。人ひとりが衣食住に困らず、一生遊んで暮らしていけるくらい、かな。依頼内容によっても変わるらしいけど」

「それって、この村にしてみれば安くない値段よね?」

「兄ぎみに言われたんだろう、気にする必要はないって。幸い、ランカース公は魄魔に対して、機があれば報復も辞さないという考えをお持ちのかただから、リシュウのようなひなの地でも助勢は惜しまれない。それに、君にしてみれば安いぐらいじゃないのかい? 報酬は、君が懸ける命の値段でもあるんだし」

「でも、仕事として請け負うからには、もっと早くに認識しておくべきだったわ」


 なにを聞いても考え悩むサユに、ファイスは呆れたのか苦笑を浮かべた。


「兄ぎみが、君に教えなかったのも解る気がするな。報酬ぶん——いや、それ以上かな。君は頑張りすぎてしまいそうだから」

「頼りにされていないだけじゃないかしら」

「そうかい? 君は家族から大切にされているんだと思うよ」


 そう口にしたファイスの双眸には優しさが満ちていたというのに。サユの心にはなぜか、一抹の憂いが落ちてきた。けれどこのとき感じた寂しさはサユの主観でしかなく、とても曖昧で。触れるのを躊躇っているうちに話題ごと変えられてしまう。


「報酬で思い出したよ。八年前の官吏のことなんだけど」


 ファイスの顔には苦い表情が浮かんでいた。そこからすぐになんの話かサユは悟る。


「横領の話なら、クアジに聞いたわ」

「そう。なら、横領された公金の使途については?」

「それは……聞いていないわ。なにに使われたの?」

「実は明確にされていなくてね。当の本人は、すべてを黙秘したまま亡くなったらしいし。官吏の家族は全員、そのあとすぐ行方不明になっているんだ」

「行方不明……? 官吏はなぜ、亡くなったの?」

「自害したそうだよ」


 あっさり語られたその事実に、犠牲となった者たちの無念を官吏が思い悩んだとすれば、罪の意識から自害も有り得るとサユは思った。それより、つぎにファイスが口にした内容のほうがサユに衝撃を与えた。


「当時、オウトウで囁かれた噂があったんだ。臆病で、ゆえに狡猾でもあった官吏は、自分と、自分の家族だけを護衛してくれるよう使族に依頼したんじゃないかって」

「そんな……」

「だとすると公金の行方が掴めなかったのにも納得がいく。官吏の家族も、それだけうしろ暗い事実があれば姿を隠すしかないだろう? そしてもし、官吏からの依頼を使族が請けていたとするならば。事件発生後、そう日も経たないうちに、リシュウには使族が派遣されていた可能性も考えられる」

「それは、犠牲者が出るまえに、ということ?」

「そうだよ。要は、使族が無償で助けてくれたという話になっているけど、実際は官吏から報酬を受け取っていて、はやばやと派遣されていたんじゃないかって憶測だね」

「信じられない。目のまえで人間の命が奪われていくのを黙って見過ごすなど、できるはずがないわ」


 それに兄も叔父も、そんな話はひとことも口にしていなかった。だから下らない噂話のひとつに過ぎないと、サユはすぐに結論づける。

 だが、ファイスの話は終わらなかった。


「この噂には続きがある。最初に派遣された使族だけでは手に負えず、だから君の父ぎみが応援に呼ばれたのだと——。でも、あくまでこれは噂だからね。しかもこの村ではなく、オウトウで流れていた噂だ。信憑性はない」


 確かに信憑性はない。なにより、自分の斃した魄魔がそれほどの実力を秘めていたとは思えない。

 ただ、もし本当に父たちを圧倒し得る存在が、八年前、この地にいたのだとしたら——。その可能性を、サユは頭から振り払えなくなっていた。







 ほんの数歩も歩けば、涙花の泉が見える位置に差しかかる。ファイスが月紅草の話を持ち出したのはそのときだった。


「月紅草の名の由来は知っているかい?」


 問われ、母から聞きかじった話をサユは思い出す。


「夜明けに花が萎むとき、白い花が紅く変色していくからでしょう?」


 サユの答えにファイスが頷く。


 サユはちらりと振り返り、至天にも目を向けてみる。だが相変わらずで、不機嫌な顔のまま黙々とついてきていた。


「月紅草の花は、女神の落とす涙なんだ」

「その説話も知っているわ。女神って太陽神のことよね。月を見て泣くの。だけど、やがて涙は涸れ、それは血に変わる」

「そう。涙が血に変わるまで、女神はなにを想って泣くんだろうね。それに、月紅草の花が女神の落とした涙なら——」


 道の終わりでファイスが立ち止まる。

 同じく歩を止めたサユは、眼前に広がった光景に目を疑う。


「どうして……」


 サユは消え入るように呟いていた。目に映った光景は青白に輝く絨毯ではなかった。

 そこに広がっていたのは、鮮烈な、——あか


「どうしてだろうね。この泉に咲く花だけが、花開くときにはすでに涙を涸らしてしまっているんだ」


 とても遠くで、ファイスの声が響いた。


「事件が起こった八年前の、翌年からだよ」


 紅い花が生んだ沼は底が見えず、足を踏み入れれば沈んでしまいそうだった。その紅は、まるで鮮血そのもので——。サユはおそれすら抱いた。


「戻るぞ。サユ」


 魅入られたように静止してしまったサユに、いままで無言だった至天が声をかけた。

 それに対しサユは、わずかに頷くのが精一杯で。その場から一歩も動けなかった。


「君には、見ておいて欲しかったんだ」


 緩やかな風が起こした葉擦れの音に紛れ紡がれたファイスの囁きで、サユは現実に引き戻される。


「どうしてあなたが、そんなことを言うの?」


 サユは群青の瞳へと目を向ける。彼がそうであるはずはないのに。見るたびに胸中で膨らんでいく想いを無視できなくなっていた。

 その想いは期待にも似た感情で。同時に、失望を意味すると知りながら。


 彼は本当に、使族の血を引いているだけの人間なのか。正体を見極めようとするサユに、ファイスは静かな瞳で言葉を返す。


「君の使精が心配している。戻ろう、宿まで送るよ」


 それは、サユが求めた質問の答えではなかった。





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